完全な本
世界的な名声を得ていた作家、片霧真奈が逝去して二週間が経とうとしていた。そしてそれにいたるまで誰も彼女が残した遺作を発見することができないでいた。
彼女は誰とも結婚することもなくまた天涯孤独の身であったため、人々の関心はその莫大な遺産それこそ膨大な数の著作の権利やそこから生まれた財産といったものがどのようになるのかに注がれていた。
結果的にいえば彼女はきちんと遺言状を残していたため、残された遺産は大部分は彼女が育った施設や入念な調査のはてに選ばれたという病気や科学の調査団体、さまざまな支援を行う組織に贈られることになり、著作権関係は指名した出版社のエージェントが管理することで解決した。
それで終わればすぐに人々の記憶からそういった出来事は忘却の彼方に葬り去られるはずだった。
けれども、彼女が残したあるものによってそうはならなかった。
わたしが最初にその遺言状の内容を見たのは夕方のニュースでだった。
学校から帰るといつものように今のテレビはある放送局のニュースを映し出していたのだけれども、その内容が片霧真奈の遺言状に関することだった。
その内容はシンプルで未発表の作品をある場所に隠し、公表された暗号文を解読してそれを発見したものにその作品に関するすべての権利を譲るというものだった。
そしてもうひとつ何よりも人々の興味をさそったのが、その題名が『完全な本』と題されたもので、それを読む人にとって完全な本というものだった。
それを知ったときにわたしは少しだけ奇妙な感じを受けた。片霧真奈はいわゆる純文学系統の作家だったうえ、作品やエッセイなどを読むかぎりそういったミステリー系統のものや遊び心がある人とは思えなかったのである。そしてもうひとつ何かしら引っかかるものがあったのだけれども、そのときはそれが何なのかわからなかった。
ちなみにわたじは特に彼女のファンというわけではないのだけれども、同じ市に住んでいたということもあって学校の授業や町のイベントなどで扱われることもあってその流れで作品を読む機会があった。
何よりも奇妙に感じたのは『この謎は以下に公表したものだけから解明することが可能である』とわざわざ書き記していたことである。実際に一部の人間はこのわざわざ注意書きされた部分に何かしらのヒントがあるのではないかと考えていた。わたしは彼女の文章は無駄なものを省きシンプルであるイメージがあったので、そんなわざわざ付け足された部分には何の意味もないのではないかと何となく思っていた。
彼女がヒントとして残したものは壊れた懐中時計、壊れた羅針盤、彼女の自宅の見取り図と周辺地図に彼女がデビュー前に自費出版した『名も知れぬものの花』と題した詩と短編小説をまとめた本。最後のものは現在では詩を4つ、短編を5つ追加して『忘れ去られし風』と改題されていた。人々はそこからも何かしらの意図が隠されているのではないかと疑っていた。
その二週間は誰も彼もが素人探偵であり、あちらこちらに他県ナンバーの自動車やマスコミ各社があふれかえっていた。同じ市であることもあってそういった人々を見る機会が多くあったのだけれども、人が多いと人酔いするわたしにとっては正直迷惑だったし、何よりもいくつかのトラブルも起きていた…不法侵入やら交通状態などなど…わたしは高校までバスを利用しているのだけれども、いつもなら二十分もあれば信号以外で止まる以外はスムーズに進むのに二週間というわずかの間に二度、交通渋滞に巻き込まれて遅刻するはめになった。さすがにその時点で市や警察なども問題視をはじめて何かしらの規制をかけようとしていたのだけれども、どのようにしていいのか彼らも考えあぐねていた。不法侵入や交通妨害などはすぐに対応ができるものの、大部分はたんに人が多いということだけで彼らはある意味でいえば観光客と同じだった。実際に経済面としてだけでは商店街や宿泊施設などへの利益は計り知れずにそう邪険にするわけにもいかなかったのである。
だから大部分の住人は余程のことがない限りは我慢を強いられていたし、何よりも普段は何もない町がある意味で謎の舞台になっているという好奇心で興奮している人も多かった。それこそ素人探偵にはかなりの数の住人も含まれていたのだから。
それはわたしも少し似たようなもので、暇つぶしとして、何よりも物語を書く人間としてぼんやりと彼女が出した謎について考えることもあった。
彼女が残した完全な本の内容がどんなものなのか…それこそわたしは彼女の作品は同じ市に住んでいるということもあって大部分は読んでいたのだけれども、基本的にはあまり好きではなかった。それこそわたしが書いていたのは、彼女が生前批判していたライトンベル系統なのだから。そんなライトノベルが好きなわたしでも満足できる内容なのか、そういった部分でもその完全な本が気になっていたのである。
それは数学の宿題をしていたときだった。わたしは数字に弱くて関数やら何やらに頭を悩ませながらも必死に問題を解いていた。何とか答えが出せると、そのまま次の問題に移った。本当は答えに自信がなかったのだけれども、確認のためにもう一度面倒な計算をする気にはなれなかった。それに答えが合っているにしろ間違っているにしろ、きちんと宿題をしたことにかわりはないのだから。
そうして公式を問題に当てはめながら数字を変化させていたのだけれども、突如として自分の中でパズルのピースがかちりとはまるような感覚を覚えた。気になったことはすぐに確かめないと落ち着かない性格だから、すぐにノートをわきにどけると頭の中でその考えをまとめた。
そして出てきた答えにわたしは笑ってしまった…片霧真奈は公表されたものから解けるとしていたけれども、わたしの考えが正しければそれは嘘なのだから。そう考えるとわざわざ書き記されたあの文章は最初から無意味なもの…それこそ無駄なもの。必要最低限でいて無駄なことを省いていた彼女の文章とは明らかにかけ離れたもの。さらにはあの残された品々…あの中で本当に必要なものは自宅の見取り図と周辺の地図だけで、あとはすべてガラクタ。そして最も必要なのはこの市に住んでいるものしか知らない土地に関することと、古くから町に伝わる昔話…そのときのわたしは自分の答えに絶対的な自信がなぜかあった。それと同時に、片霧真奈という人間の意地の悪さに苦笑いするしかなかった…あの遺言状からはすべてのデータは提供されていると語っているようなものだけれども、実際にはいくつもの情報が意図的に抜け落ちているのだから。それこそアンフェア、ミステリー小説なら批判されてもしょうがないもの。
ただし、よくよく考えてみるとあの遺言状にはどこにも、あの中に書かれていることがすべて正しいと保証する文章はどこにもなかった。意図的なのか偶然なのかわからないのだけれども、最初から彼女はフェアでいる気などなかったのだと思う。
ふと机の上の時計を見ると針は七時少し前を示していた。
空は夜に覆われていたけれども、まだ明るさが残っている時間帯だった。街灯と町の明るさにわたしは自分の考えを確かめるために出掛けた。何よりもわたしは気になったことはすぐに確かめずにはいられない性格。
そのときにいくつかのものをカバンに突っ込んだのだけれども、懐中電灯とスコップはともかくとして無意識のうちに小さな食用油とマッチを入れていた。バスの中でそれらに気づいて、なぜこんなものを持ってきたのだろうと我ながら不思議だった。
それはすぐに見つかった。準備していたスコップを使う必要すらなく簡単に。逆にあまりにあっさりと見つかりすぎて、今もなお誰も見つけていないのが不思議…というよりも本当は誰かが先に見つけながらもそのままにしていたのではないかと思うくらいだった。けれども、それにはいくつもの封印、外側の金属製の箱にはがっちりとテープが巻きつけられていてさらにそこには複雑な文様の蝋印があちらこちらにつけられていた。そして中の封筒も同じような蝋印とともに、がっちりと封筒の口は糊付けされていて誰もその中身を見たものがいないことを証明していた。
わたしはべつに神経質な性格ではなかった。だからすぐに封筒のうえの部分をちぎって中身を取り出した。そこにあったのは普通の原稿用紙でぱっと見た感じでは少なくとも百枚はあるように思えた。といっても、基本的にわたしはワープロを使うので原稿用紙の枚数の感覚なんてわからなから、あくまでもそう思っただけだった。実際にはそれ以下かもしれないし、それ以上かもしれなかった。だけど、そんなことはどうでもよかった。重要なのはそこに書かれた物語なのだから。
それを一読したわたしは、なぜ油とマッチを持ってきたのか、やっとわかった。それと同時に今ではその理由が変化したことも。
最初の目的はそれは単純に嫉妬…未だに満足した物語を書けないわたしにとって、完全な本を完成させたということは憧れと同時にそれを成し遂げたことにたいする悔しさもあった…そんなものはわたしの手でこの世から抹消したい、そう思ったのだ。多分これは誰にでもわかる感覚ではないと思うし、それこそ自分自身でもこの気持ちをうまく伝えきれない。というよりもそれは理屈といったものではなくて、あくまでも感情にすぎないのだから。
けれども今ではそれはなくなり、あるのはただ完全な本というものの幻想を守ることだけだった。
安全のために海岸に行くと、周りに誰もいないことを確認してから原稿を取り出した。
一枚目の真ん中には青いインクで『完全な本』と記されていた。
わたしは原稿用紙全体に油を掛けると、持っていたマッチでそれに火を灯した。瞬く間に真っ白な用紙は橙色に染まったかと思うと、少しずつ、少しずつ黒いシミで汚されていった。
そのとき軽い風邪が吹いたかと思うと原稿用紙がハラハラと風に乗って海の彼方へと運ばれていった。真っ白で何も書かれていないページだったそれらは、今では暗闇の中に光の欠片を漂わせているにすぎず、やがてはどこにもない場所へと解けていった。
結局のところ、片霧真奈があの原稿用紙に書いたのは最初の題名と、最後のページのみであとはすべて空白だったのだ。
最後に記された文章は単純なものだった。
結局、世の中すべてを満足させる物語など出来はしない。
この真っ白なページの上に自分の満足させる物語を書くこと、それがあなたにとって完全な本。
思えは彼女は最初からそれを読む人にとって、と書いていた。どこにもすべての人間を、とは記していなかった。
世界中から賞賛の声を集めた作家、片霧真奈がたどり着いたのはそれこそ単純で当然なこと。けれどもそれだけで終わってしまうのは、わたしにとっては物語を書くことそのものに対する破壊だとしか思えなかった。
人によっては架空の物語など何も意味がないという…だけど、わたしはそうは思わない。物語には物語にしか語れないことがあると信じて、だからこそ自分は少しずつではあるけれども物語を書いているのだ。
世の中すべてを満足させることは出来なくてもいい、たとえ一人でもいいから自分の物語に魅力を感じてほしい…今のわたしが思うことはそれだけ。
だからこそわたしはあの紙くずをこの世から消し去ったのだ。自分の物語を語ることを放棄した原稿なんて、それこそ無意味なもの。
そして残されるのは、片霧真奈が完全な本を完成させてどこかに眠っているという幻想だけ。それでもその幻想は自分のように物語を語ることを愛してしまった人間にはひとつの力になると思うのだ。誰にでも完全な本を完成させることができると…
やがてすべての光の欠片はどこにもなくなった。それを確認するとわたしは歩き出した、自分の家へと。そして自分の物語を描くために。
この物語の原型は自分が中学生のころに書いたものです。
今度それを今の自分で書き直したものですが、最後の物語を書くことに対するものは今も変わりはなく自分が持っているものです。
少しでも自分の描く物語に魅力を感じてくれる人がいい、そう思って自分は物語を書いています。
少しでもこのつたない物語を面白いと感じていただけたら幸いです。




