第一話 ばれちゃった
待ちに待った黄金週間。
素敵な彼氏と一泊二日のお泊り旅行……って、誰の話ですか、これ?
「お−い」
頭の上からニヤけた声が降ってくる。
聞き飽きるほど耳になじんだ声に顔を上げると、そこにはやはり国東 歩の姿があった。
「あーあー不機嫌な顔して。
どうしたの?ミルク?オシメ?」
「…溶けて失せろ」
「それは難易度が高いよ」
笑いながら前の席の椅子をひっくり返し、どっかと腰掛ける。
ただ今、この席の本来の持ち主の姿は無い。
多分学食にでも行ったんだろう、昼休みは既に十分程が過ぎている。
俺はといえば、学食にも購買にも行かず、職員室から帰ってきてからずっと机に突っ伏していた。
「千葉ちゃんなんだって?」
国東が焼きそばパンの袋を破りながら訊いてくる。
千葉ちゃんとは、俺たちのクラス担任の千葉玲子女史の事で、その可愛らしい容姿とは裏腹に、闇金の利息のような大量の課題を出してくることで有名な、担当教科数学、御年二十七歳、な女である。ちなみに独身。
俺は黙ってカバンの中から、厚さ五センチほどの紙の束を取り出した。
バサッと机の上に放ると、国東が哀れっぽい声を上げた。
「うあ、これ全部課題?」
「うい。…ゴールデンウィーク中寝るなって事だろ」
「手っ取り早く死ねって事なんじゃないの」
……縁起でもない。
国東はパンを口にくわえ、パラパラと課題をめくっている。
「一年の時の問題まであるんだね」
「しかもそれご丁寧に改訂版だと。なんか、とりあえず数字は全部違うらしい」
そして、当然のように課題はこれだけでは終わらない。
一年の総復習に、二年になってから今日までの復習、そしてこれから先の予習、丸々二章分。
それらを、ゴールデンウィークが明けてすぐにある数学の授業までに出せというのだから……これはやっぱり死の宣告かもしれない。
忌諱されるように投げ返された課題との、丸五日間の真剣勝負を思うと気持ちは底知らずに下降して行くが、ただ嘆いているだけでは芸が無い。
何とか建設的な思考をしようと頭を捻るが、どうしても意識は今朝方の出来事へと飛んでいく。
そもそもこんな課題が出される羽目になったのもヤツ等が原因なのだ。
俺は肩で息をしながら、割れんばかりの拍手の中に居た。
高揚感など一切無く、軽い倦怠感と纏わりつくような疲労を全身で感じていた。
「なかなかの手際だったぜ」
見た事のある八百屋の親父が、馴れ馴れしく肩を叩いてくる。
「うるせえ……し……仕事……しろ」
整わない呼吸でそう答えると、野次馬を押しのけて、その輪の中から可哀相な自分を助け出した。
拍手は未だに鳴り止んでいないが、実を言うとアーケードを反射するこのマーブル模様の音の八割くらいは、悪玉であるヤツ等に送られた物であり、更に、その内九割以上があの忌々しい蝶々女へと向けられている。
まあ、中には怪人のために手をたたいているのも居るが、これは完全に少数派だろうし。
暇人どもを背中に、釈然としない落ち込みを感じつつも「まあ、ヒーローなんて所詮悪者のアンチテーゼだし」と心に上手に嘘をつきながら俺は歩き出した。
と、突然、しょ気返っていた背中をおもっくそハタかれた。
つんのめりそうになりながらも、慌てて襲撃者の正体を探る。
そこに居たのは果物屋の看板娘だった。
「背中曲がってるぞヒーロー」
ぽん、とリンゴを一個放ってくる。
「それ食ってシャキッとしろ」
そう言うと、呆然としている俺を置いて、とっとと店の中へと戻って行った。
「……いや、なんだよ」
手の中にある信じられないくらい赤いリンゴを見ていると、何故だか胸が詰まった。
「………っ」
あ、ちくしょう、ちょっと傷ついてたからってこんくらいで泣くか、みっともない。俺は男だ、その上ヒーローだぞ。しかも、まだ朝の九時だから、ひとがいっぱいだし。そう、今は朝の………………え?
え、何?九時?今九時?!いや、いやいや、違う、今は九時じゃない。
今は九時ぃ……二十ぅ……二分か。余計ダメだ。
「……か、か、完全に遅刻だ」
涙は途端に引っ込んでいた。違う意味で泣きそうだったけど。
代わりに…
(おお、何だ、何か笑けてくんな)
「あはは、ちくしょう遅刻だ」
俺は笑いながら全力疾走でいつもの薄暗い路地裏に飛び込む。
ダンボールが幾つも重なって出来ている死角に体を滑り込ませた。
「………………変身」
一応周囲を確認してからキーワードを口にする。
バイザーにコマンドが走っていった。
右から左へと緑色の光の粒が流れきると、ベルトが淡く大きく光った。
全身を包んだそれがベルトを中心に収束していき、空気に触れた所から元の姿が現れてくる。
三十秒もしない内に徐々に輝きが収まっていくと、辺りに薄暗い路地が戻ってきた。
ダンボールを掻き分け隠しておいたカバンを取り出す。
「…ここから学校まで走っても十五分は掛かるな」
という事は、一時間目はほぼパーフェクトでぶっちぎる事になる。
考えてる時間も惜しくなり俺は走り始める。
「今日一時間目ってなんだったっけ…」
貰ったリンゴを齧りながら、頭に時間割を思い浮かべる。
今日は週の真ん中水曜日。
六時間目に体育がある日だから、一時間目は……。
「数学?」
サーっと血の気が引いていく。
千葉ちゃんの楽しそうな笑顔が脳みそ中を弾け回る。
「きゃっ」
考え事をしながら走っていた所為だろう。
体に軽い衝撃が走り、小さな悲鳴とともに誰かが倒れこんだ。
「あ、ごめん」
真正面からぶつかったいた事に気付いて俺は慌てて手を差し出した。
視界に長い二つの三つ編みと東高の制服が目に入った。
彼女は、ぶつかった所為で外れたメガネをかけなおし、躊躇いがちながらも差し出された手を取ってくる。
………ん、あれ?どこかで見た気が。
「あ、秋名くん?」
立ち上がりながら彼女が口にしたのは、何と俺の名前だった。
いや、当たり前だ、目の前に居るのは、俺なんだから。
秋名大地 映都東高校 二年三組 男 時々ヒーロー。
不思議だったのはそれを何で彼女が知ってるかって事だったんだけど、理由にはすぐに思い至った。
(何だ同じクラスの子じゃんか)
窓際の席の子だったと思う。
気付かなかったのは、教室にいる時の彼女と大分雰囲気が違う気がしたからだ。
名前は確か………。
「水城さーん」
国東の声で意識が一気に現実に戻ってくる。
ぎょっとして俺は国東の方を見た。
「な、何で呼んでんの?」
「突撃隣のスキャンダル」
「……は?」
「ねえ、いい?二人揃って仲良く一時間近く遅刻して、しかも一緒に教室に入ってくるってのは、こりゃ完全にラブラブスキャンダルって事でしょ〜」
……どういうシナプスしてんだこいつ。
しかも何時そんな話になった。
「ずっとその事聞いてたのに秋名はなんか上の空だしさ、だからもう一人の当事者に聞こうと思って」
国東がこちらを向いた水城さんに手を振る。
彼女の机の上には俺のと同じ課題があった。
既に取り掛かっていたのか何ページか進んでいる。
それを邪魔された、明らかに不機嫌な顔で立ち上がった。
机の上に新しい、機嫌の悪い影が差す。
「なに?」
愛想も何も無い声で彼女は尋ねてくる。
眉根を寄せて遊び毛を払った。
三つ編みが揺れて記憶のそれとダブる。
そこに、どうしようもない違和感を覚えた。
(ああ、そっか、目だ)
水城さんは何の関心も無さそうな目で国東を見つめていた。
冷たいんじゃなく、悪意がある訳でもないのに、近づくと傷だらけになってしまいそうな視線。
周りと自分との間にある線をはっきりと引いてる人の目だ。
それに比べると記憶の中の彼女は表情が柔らかく、随分と無防備な目をしていた。
納得できた気がした。
今朝、彼女の名前がすぐには出てこなかったのは、俺の中で今目の前に居る彼女こそが水城真琴だったからだ。
「僕らとお話しようよ」
国東が屈託の無い顔で、そう提案する。
誰と相対しても態度の変わらんこいつも相当だな。
半ば感心しつつ俺は水城さんの方を見た。
「…課題やってるからいい」
水城さんはなぜか俺を睨んでいる。
……明らかに、イライラしているご様子だ。
「まあ、そう言わずにさ」
意に介した様子も無く国東は強引に水城さんの肩をつかむと、無理矢理自分が座っていた席に座らせた。
「ちょっ…」
自分も新しい椅子を持ってきて、そこに腰掛ける。
その強引さに水城さんが呆れた様に口を噤み、それで、なんとなく場が出来てしまった。
「でさぁ水城さん…」
口を開きかけた国東の懐で携帯が鳴り出した。
聞こえてくるのは三週連続くらいランキング一位の曲だ。
「あ、ごめん、ちょっと、出て来るね」
「「え!?」」
立ち上がった国東に、図らずも声を合わす俺達。
「はい、もしもし」と小さくなっていく背中はベランダで動きを止めた。
微妙に声は聞こえてくるが内容までは聞き取れない。
……気まずい沈黙が流れる。
「……」
「……」
で、このまま黙ってたらバターになっちゃうんだっけ?……うん?……違う気がするぞ。
「…あの人は」
不思議そうな声で水城さんが喋りだした。
腕を組んで忙しく指を上下させている。
「いつもあんななの?」
あの人って、ああ国東か。
「ああ、大体ね、基本的に自分勝手で無神経だし」
「人を呼び出しておいて電話しに行っちゃうみたいな?」
「そうだね、ざらにあるな」
「今みたいな事が?」
「……いや、普段はもっと酷い」
「……それで、何で友達続けてるの?」
心底分からないという顔で聞いてくる。
「んー……時々ほんとにむかつく事もあるけど、根っから悪い奴ってわけじゃないし、面白いから…かな」
(何かちょっとまじめに答えてしまったぞ)
俺がそう言うと急に水城さんは俯いてしまった。
「………私は、人に迷惑をかける人は嫌い。その人がどんなにいい人でも」
「え?」
聞き返そうとした時、国東が戻ってきた。
「あれ、何の話?」
「いや……あ」
「それじゃ、私用事があるから」
そういって立ち上がると水城さんは教室を出て行ってしまった。
「……ほんとに何の話してたの?」
「なんでもないよ、お前こそ電話なんだったんだよ」
「んーー美貴ちゃんからだった」
椅子に座りながら、携帯をいじくっている。
「ああ、って、誰だそれ?」
「彼女」
ふーんってあれ?
「ん?お前なんか五組の子と付き合ってなかったっけ?」
「あー、うん、でもこないだ別れちゃった」
「はあっ?まじで?だって二週間前とかじゃなかった?付き合い始めたの」
「うん、多分ね。でも三日くらい前に別れちゃった」
「はやっ!そいで今美貴ちゃんって子と付き合ってんの?」
「うん、あ、でも、もう違うのかな?」
「は?」
「今さっき電話で別れちゃったし」
「ああっ?」
「いや、何で秋名がキレてんの」
そりゃまあ俺がキレる道理はないけどさ。
「何で、別れてんだよ?」
「ええー?どうしてそこまで言わなきゃいけないの?」
「良いから言えよっ」
「横暴だー」
それでも国東はしぶしぶ喋り始めた。
「だってお昼ご飯一緒しようって言うんだ」
「ああ、それって欧米でカップルが別れる一番多い理由でしょ?」
「へぇ、そうなんだ」
そうなわけないよ。
「それでなんで別れんだよっ!?」
「ええっ、だってこれからみんなでお話しようって時にだよ。もっと空気読んでよ。
しかも、僕パン食べてたし……。だから無理だよって言ったら、何かその人たちと自分とどっちが大事だ、みたいな事聞いてきたから、美貴ちゃんとはそんなに長い付き合いでもないし、秋名と水城さんだって答えたんだ。そしたらなんか怒り出しちゃって……」
…………………………………………………………………………はっ。
イカン、思考がフリーズしてた。
「それで別れちゃったのか……」
「うん。……って、僕から話したいって言った訳じゃないのに何でそんな顔してんのさー」
――― 何で、友達続けてるの?
水城さんの言葉がフラッシュバックしてくる。
「なあ、国東」
「なに?」
「俺達なんで友達なんだっけか?」
「な、なんだよそれ」
何で、友達続けてるの?って、そんなの解んないよ。
放課後、千葉ちゃんに呼び止められた俺は、なぜか今日二度目の職員室を訪れていた。
「今日の遅刻といい、最近他の教科の先生からもあんまり授業態度が良くないって聞いてるよ」
何か書類を書きながら千葉ちゃんがとがめるような声で言う。
何を言われているかというと簡単に言えば昼休みのお説教の続きだ。
椅子をくるっと廻し俺と視線を合わせた。
「授業中よく居眠りしてるみたいだし、お家で何かあった?」
「……いや、別に」
千葉ちゃんの大きなアーモンドのような目を見ながら俺は答える。
視線を逸らす訳にもいかず、まさかヒーローやってますと答えるわけにもいかない。
「私は一年の頃から秋名君の事知ってるから、君が何の理由もなしに授業サボったりする子じゃないのは知ってる。だから私で力になれることなら出来るだけのことはしたいと思ってるんだけど、どうかな」
そう言ってまっすぐに俺を見てくる。
……この眼は苦手だなあ……全部見透かされていそうで。
言葉がつまらないように気を付けながら、俺は口を開いた。
「……あの、先生が言ってくれてる事は凄い有難いんですけど、本当に何でもないっスよ。今朝のは只の寝坊だし、授業中寝ちゃってた事があるのも、多分前の日に夜更かししてたとかってだけで、別に……」
言ってから唾を飲むのを止められない。
ゴクッとやけに大きな音が喉でなった時、千葉ちゃんが溜息をついて視線をはずしてくれた。
俺の視線に負けたわけでも、納得したわけでもない。
多分見逃してくれたって言うのが一番近いと思う。
「ハァ……じゃあ一つだけ。私は一年の頃から二年になった今も秋名君の担任で…これだけ長く一緒にいれば、今君に何かあるって事位は分かってるつもり。それに君がその事を他人に話すべきじゃないって判断したなら多分それは尊重されるべきなんでしょう。でも、教師は生徒の安全を守らなきゃいけない立場にあるの。その為には嫌がられても秘密を暴かなきゃいけない時もある。ただ、まあ、今回は取り敢えず先生は知らない事にしておく。…だから、これは教師としてじゃなく、君と一年以上付き合いのある一人の大人としての忠告ね」
「もし、君に言えない事、隠したい事があるなら、最初からそんなものまるで無い様に振舞いなさい。これは、何の言い訳もしない今の君のとらなければならない最低限の責任。体調を崩してもダメ、倒れるなんてのは問題外。もちろん学校休んだり遅刻もダメよ。きちんと、誰にも悟られないように、責任を持って無理をしなさい。……いい?隠し事をするっていうのは、本当のことを言わなければ良いってことじゃないんだよ。その事で最後まで誰にも不安を与えないって事なんだからね。それが出来ないんじゃあ隠し事なんかしちゃダメ……解った?」
「……はい」
「……先生何か間違った事言ってる?」
「いいえ」
「よし」
ずっと難しい表情をしていた顔がふっと笑顔になった。
「じゃあ、ちゃんと責任持てるんだね?」
「はい、ちゃんと責任持てます」
返事をすると目の前に何かが差し出される。
「はい、ならこれ」
「…え?あの、えっと、これは……」
「これはね、如雨露と言う物よ」
「いや、如雨露はそりゃ知ってますけど、これにどういう意味が」
「これが差し当たってあなたが持てる責任」
「は?」
困惑する俺を尻目にえらい楽しそうに千葉ちゃんは説明してくれる。
「実は、園芸部の子なんだけどさ、他の部員が早退とか欠席とか家の用事とかで、みんな学校にいなくて今一人きりなのよ。土いじったりとかは今日は諦めるみたいだけど、水遣りはそうは行かないでしょ。そこで君の出番なわけ」
ズイッと押し付けられた如雨露を思わず受け取ってしまう。
「あの、で、俺の責任ってのは?」
「まさか、君、もう忘れたの?他の教科の先生から君の授業態度が良くないって苦情が来てるって言ったでしょ」
えええええええええええええ。
「で、でも、俺あの、もう課題受け取ってますけど」
「何言ってんの、あれは、数学教師としての、授業をサボられた事に対する罰、これは、担任の教師としての、他の教科の先生に迷惑をかけた事への罰」
「………な、なんだそれ」
「ん?何が?」
「イヤ、担任と数学教師から、みたいなこと言ってるけど、それ千葉ちゃんが一人で言ってる事じゃんか。な、なんかちょっと違うんじゃないかなあって」
「…そうかしら…………だったら、君の隠していたい事って一体なあに?」
「な、なんですって?」
何言い出してんだこの人!?先刻は見逃してくれるって…。
「だって千葉ちゃん一人が言ってる事なんでしょ、千葉ちゃんは正真正銘教師だもん」
「…………うぐっ……」
「…やっぱり、教師として生徒の事はきちんと把握しとかないと、ね」
こ、この、女ァ。
だから先刻「一人の大人としての忠告」なんて言い方したのか。
「……ハ、ハメヤガッタナ」
「ん〜なんのことかしら〜」
って、めちゃくちゃ楽しそうじゃねえか。
「か、勘弁してよ千葉ちゃん」
「千葉先生、でしょ。ほら、とっとと行く。園芸部の子待ってるよ」
「さ、詐欺だああああああぁぁぁぁぁぁ」
「じゃあ秋名先輩はここをお願いします」
と、それこそ花が咲き乱れんばかりの笑顔で俺に割り当てられたのが校舎裏の花壇だった。
園芸部の子はとても明るく可愛くて、俺をだました大人達とは違い、花をお花さんと呼ぶくらいとてもピュアだった。
しかし、女である以上、いつ何時あの詐欺教師や家の婆さんのようになるとも限らん。油断は出来んが……って、だめだ、ちょっと女性不信になりかけてる。
と、とにかく水遣りだ。
校舎裏の花壇は三棟ある校舎の内、東棟と中央棟の二ヶ所にあるらしい。
何が植わってるのか詳しい事は知らないが、水の遣り過ぎ以外、特に注意が必要な花も無いそうだ。
まず最初に俺は、園芸部の部室のある東棟の花壇から始める事にした。
量としては畳二枚分くらいの花壇が三面、そこにバランスのいい間隔で花が植わっている。
ここにある花で知っていたのはパンジーくらいだった。
ちなみに如雨露は使わない。
先にシャワーがついたホースを園芸部の子が貸してくれていた。本当にいい子だ。
滞りなく東棟の水遣りを終えた俺は、ホースを回収して中央棟の校舎裏へと向かった。
中央棟は俺達二年生が使っている校舎だ。
時々目に入っていた季節ごとに姿を変える花壇。
なんとなく、自動的にそこにあると思い込んできていた物が、実は誰かの手によって維持されているという事実は、清々しい新鮮味をもって俺の頭の中に入ってきた。
中央棟に着いた時には更に濃厚なオレンジが辺りを包んでいた。
時刻は午後五時を過ぎている。
最近この時間まで学校にいる事が無かったから、なんだか妙に懐かしい感じがした。
(……不本意ながら、いつもならこの時間には商店街に居るからな)
今日は多分もう大丈夫だろう。
一日に二度なんてのは今まで無かったから、なんとなく気は楽だった。
……代償は高くついたけど。
水のみ場の蛇口にホースをセットする。
本当は花壇の近くに水遣り用の水道があるらしいんだけど、なぜか今は閉められていて使えないんだそうだ。
ホースをズルズル引きずりながら校舎裏へと向かう。
次の角を曲がると、もう後は花壇しか無いっ、という所で、叫ぶような声がした。
「馬鹿みたいに黙ってないでなんとか言ったらどうなんだよ!」
……随分、口の悪い花だな。
超音波みたいにきーきー聞こえてきた声は女のモノだった。
ホースを静かにおき、そーっと影から顔を出す。
見ると、数人の女子――六人かな――が小さな輪を作っていた。
おそらく、その中心には、無口な女の子が居る事だろう。
手前の子の所為でその姿は確認出来ないけど。
「とにかく、何とか言いなって」
一人の子が疲れたようにそう言った。
どれくらいそうしているかは知らないが、声のトーンから今始めたという事はないようだ。
(それにしても、びっくりするくらい死角になってんな、ここ)
辺りを見て俺は驚いた。
校舎はここに面しては窓が一つも無く、学校を囲む目隠しの高い塀が、外からの目線もカットしている。
日の光もあまり入りそうにないし、場違いに花が少し心配になった。
見てみると、幾分元気が無いようには見えるが、花は健気に咲いていた。
「あんた自分が何やったか分かってんの?」
最初に聞こえてきた声で女の子が叫ぶ。
てか、ここが幾ら死角になっていると言ってもそんなに大声を出したら誰か来そうなものだけど。
そうでもないのかな?まあ俺もここに来るまで気付かなかったしな。
彼女達のやり取りを眺めつつも、俺は途方に眩れていた。
本音を言えば、花に水を遣ってとっとと帰りたかった。
こんなケンカには全く興味が無いし、正直他所で遣れとすら思う。
責められてる子は確かに気の毒だけど、俺は別に誰も彼もを助ける正義の味方じゃない。
まあ、このまま放っとくのも人としてどうかと思うんで…先生でも呼んでくるかな、と踵を返しかけた時だ。
気になるやり取りが耳に入ってきた。
「あんたこの子の彼氏とったんだよ」
そりゃ酷いな。
「もういいよ、やめてよリカ」
ああ、この子が不幸にも彼氏を略奪された子か。
既に歩き出していた為声しか聞こえなかったが、なんか弱々しくしてるけど随分と裏のありそうな作り声だった。
まあ、ほんとに止める気があるならもっと早くに止めてただろうしな。…とは、あんまりな言い方だろうか。
「ミキは黙ってて、私はこういう子が一番許せないんだ」
それはまた随分ご立派な信条ですな。
他人の色恋に口出した上に大勢で一人を槍玉に上げるって言うのは。
(ん?)
何かが引っかかって俺は足を止めた。
「でも〜」
ミキと呼ばれた子の縋り付くような声が聞こえてくる。
……そうだ、なんか最近そんな名前を聞いた気がする。
しかも、もの凄くいやな事に、この状況に至りかねない心当たりまである気がする。
多分引きつっているだろう顔に、嫌な汗が流れ始める。
ゆっくりと、なるべく現実になるのが遅くなるように歩いて校舎裏に戻っていく。
「あのさ」
再び、疲れたような興味無さげな声がしてくる。
もしかしたら、この子の気だるげな声は、デフォルト設定なのかもしれない。
しかし、直ぐにそんな思い付きがどうでも良くなるような事をこの子は口にした。
「とにかく、そのアキナってもう一人の子連れてきなよ」
スゲー知ってる気がするよ、俺、その子の事。
……つうか、多分俺だ。
「あの〜」
声を掛けると何人かが慌てたように振り返った。
(あ〜やっぱりだ)
泣きたくなるくらい滑稽なシチュエーションながら、これが現実だ。
―――事実は小説よりも馬鹿馬鹿しい。
最近ただでさえそう思い知らされてるのに……。
一言喋ったっきり黙ってしまった俺の目に、割れた人垣の間から少しだけ驚いたように口を開いた、水城真琴の姿が映っていた。
水城さんを囲んでいたのは三年の先輩方だった。
俺はきちんと誤解だという事を説明し、最後に穏便に一言付け加えた。
「出来ればですね、先輩達が何の為にここに居て、俺が誰と仲が良いかってことを考えていただきたいんですよ」
「……言ってる意味がわかんない」
美貴先輩が俺の方を見ながら言ってくる。いや、分かってるだろその顔は。
てか、やっぱ、演技だったかこの人。
……まあ、純粋な天然とは思ってなかったけど。
「何言ってるかわかんないし、もういいや、なんか。いこ、みんな」
「え…いいの?」
そう言った友達を無視して、急にキャプテンシーを発揮した美貴先輩が背中を向けて歩き出す。
これでお終いにしてくれるという事だ。少なくとも俺達に関しては。
納得出来ていない様子の他の先輩達の中で、やっと終わったと言わんばかりに欠伸をした先輩が居たのが印象的だった。
去り際に口だけで「悪かったね」と言っていたようだが、確認するわけにもいかずそのまま見送った。
そして俺達は今、中央棟の中庭で、そこに置かれたベンチに腰掛けていた。
「じゃあ、あの人たちが言っていた彼って国東君のことだったの?」
妙に話が通じなかった水城さんに最初から事情を説明し終えると彼女は驚いたようにそう言った。
まさか国東が絡んでいたとは露程も思ってなかったようだ。
仮にも当事者とは思えない状況認識だけど仕方が無いのかもしれない。
国東がしてた電話の内容を彼女は知らなかったのだ。
彼女からすれば正真正銘ただの言い掛りをつけられた形で、たまたま国東が俺と水城さんの名前を出したばっかりにこんな事に巻き込まれてしまった。
同情を通り越して、非常に申し訳ない気持ちで一杯だった。
「でも何できちんと説明しなかったの?誤解で責められて腹立たなかった?」
「…苛々はしたけど、そもそも何をどう誤解されてるのかも分からなかったから。あそこに連れて行かれた時点で、あの人達もう感情的になってたし」
誰もまともに説明しなかったのか。
「ただ、先刻の先輩…悪かったなって言ってた人だけど、あの人だけつまんなそうに、アキナって子知ってるか?って」
「?。それで、なんて言ったの?」
「知らないって言ったよ」
そこで少しだけ楽しそうに笑顔を作った。
眼鏡の奥の瞳が柔らかく細まる。
「だって、先輩の彼氏を取っちゃうような、アキナって女の子に心当たりなんて無かったもの」
「そ、そりゃそうだ、つうか女の子と間違われるって…」
俺がそう言うと、水城さんはおかしそうに体を折った。
揺れる三つ編みにメロディーをつけるみたいに鈴の音のような笑声を立てる。
「それにしても、あの人達全部勘違いだったんだね」
まだ少し残る笑い声を引きずりながら彼女が言う。
「うん、きっとそれに気付いたからあの人たちもすぐに引いたんだろうけど。…それにしても、本当にごめんな、なんか、俺らの所為でこんな事に巻き込んじゃって」
向き直って頭を下げる。
「別に秋名君の所為じゃないじゃん。…それにちょっとあの先輩の気持ちも分かるしね。流石にあそこまでしようとは思わないけど。国東君は酷いヤツだな」
冗談めかしてそう言いながら手を組んで顔を俯けた。
俺の脳裏に昼休みに彼女が呟いた言葉が蘇ってくる。
―――………私は、人に迷惑をかける人は嫌い。
誰でも勿論そうなんだろうけど、妙な近さが彼女のあの言葉にはあった。
「これでもまだ国東君と友達?」
突然、水城さんが覗きこんで来た。
急に近づいてきた顔に少したじろいでしまう。
「ま、まあ、保留かな。あの人と別れたのはどうやら正解っぽいし」
美貴先輩の去り際の怜悧な顔が浮かぶ。
只モンでなかったのは確かだ。
……まあ、曲者具合じゃ国東も負けてないと思うけど。
「うーん、そうかもね」
そういって水城さんは空を見上げた。
寒色と暖色が混じり合うことなく共存する空。
夕方よりは深く、夜には少し早い。
そこに知的な顔が綺麗に映えた。
撫でるように雲を追う視線には教室で見せるような興味無げな様子は無い。
―――………私は、人に迷惑をかける人は嫌い。
何か関係があるんだろうか…。
そう思うのは強引な気がしないではないが、普段の彼女と、今の彼女。
その違いの理由を思った時、浮かぶのはこの言葉だった。
「あのさ……」
思い切ってそのことを俺が聞こうとしたときだった。
ビーッ…ビーッ…ビーッ…ビーッ…
突然、雰囲気を壊す電子音が鳴り響いた。
「な、なに?」
驚いた彼女が、すっくと立ち上がった。
音が聞こえてくるのは俺の左腕からだった。
そこに巻かれたゴツイ腕時計がけたたましく騒いでいる。
「あ、秋名君の時計?」
「う、うん」
戸惑いながら答える。
…これは商店街からの緊急呼び出し音だ。
商店街に怪人が現れた時に、商店街にいる祖母さんの子分が俺にそのことを知らせるためだけに使うホットライン。
これが鳴ったってことは間違いなくやつらが現れたって事だ。
けど……。
(一日に二回もかよ)
そんな事いつもなら有り得ない。
少なくとも俺の代になってからは初めてのことだった。
正直かなり戸惑ってはいたが、このままボーっとしてる訳にもいかない。
俺は立ち上がると水城さんに向き直った。
「ごめん、用事出来た」
「え?」
「悪いけど、先に帰るな」
「そ、それはいいけど……これ…って秋名君っ」
最後まで聞かず俺は走り出した。
この時間、商店街は人で溢れていてとても変身なんか出来ない。
道中にも身を隠せるところはないし、少なくともパニクッてる今思いつくところは一つしかなかった。
俺は中央棟の校舎裏に飛び込んだ。
制服の前を開け、ベルトを外気に触れさせる。
右手でそれを撫でると鼓膜を圧迫するような起動音がした。
一瞬ベルトの表面が煌めく。……待機状態に入った。
後は音声入力式のこれに命令を通せばいい。
変身のためのキーワードはもちろん……。
「……変…身っ!」
ベルトに熱量が生まれ、それが全身を駆け巡っていく。
臍の辺りに新しく出来た心臓から、血液が送られていくような感覚。
隅々まで渡っていき、体の機能の一つ一つが強引に解放されていく。
体の表面にもう一枚皮膚が張られていき、徐々にそれが馴染んでいくのがわかった。
最後に、ぱんっと弾ける様に輝いて、それは完了した。
「…………」
体の具合を確認する。
一日に二度の変身は初めてだったが、どうやら、問題はなさそうだった。
「……よしっ」
商店街に行こうと身を翻した。
「…………っ」
な…。
「あ、あの」
何で…。
「ご、ごめんなさい、あの」
何で…ここに居るんだ…?
「鞄、置いていったから、明日からゴールデンウィークだし、課題もあったから…」
おずおずと水城さんが鞄を差し出してきた。
呆然とそれを受け取る。
それは確かに俺の鞄だった。
バイザー越しに彼女の戸惑った顔が見える。
その時、彼女が口にしたのは…
「あ、あの、ご、ごめんね。秋名君」
なんと俺の名前だった。