番外編3 ”茶番” 1
慌しく、しかも強引に後部座席に積み込まれたワリに、車は人が押し出したようにユルユルと発車した。
不本意ながら渡康平と同乗者になった大地であったが、こうなった以上は文句を言っても始まらない。
この上は効率的に行動するのが理性ある現代人と言うべきで、脳裏に聞こえてくる不満やら何やらから耳を塞いで、代わりに口を動かした。
「それで、芝居って言っても俺は具体的に何をしたらいいんすか?」
「実は、それがビミョ〜に決まってない」
「は?」
剣呑な声を出した大地に、いや、と慌てたように康平は首を振る。
「大筋は決まってるんだよ大筋は。でも細かい所がちゃんと煮詰まって無いというか」
本当にどこかの劇作家のような言い訳を口にして、幾らか不満気に零し始める。
「大体、今回の視察自体急に知らされたんだ。完璧なヌキウチで」
大地などは、そもそも視察とかはヌキウチでしなけりゃ意味ねーんじゃ……とか思うのだが、大人には大人の理屈があるらしい。
「それで、那乃川さん――あ、俺の上司で今回の発案者な――が、丁度良いから、って」
――なるほど、そいつが今回の首謀者か……。
冷静に閻魔帳にその名を刻みつつ、大地は顔を上げる。
見慣れた通学路上、それが行き着く先に、映都東高の校門が見えた。
そこに、人待ち顔で佇む千葉玲子の姿があった。
夏休みだと言うのに、普段学校で見かける姿と同じ服装なのは、教師に夏休みは無いという噂の真偽を示しているようだ。
康平がゆっくりと路肩に車を寄せると、玲子がこちらに気づいて駆け寄ってきた。
そうして助手席のドアを開けるや。
「秋名君ごめんね。付き合わせちゃって」
申し訳無さそうにそう口にした。
バタンと音を立ててドアが閉まると、玲子の服についていたのだろう、コーヒーの香りが薄く車内に漂った。
「いや、まあ、今回はしょうがないって言うか、もう慣れたって言うか」
「あ、君ねえ、若いうちからそんな枯れたこと言ってちゃだめよ」
一体それは誰の所為でしょうか? と閻魔帳を捲り、あ、お祖母様だ、と答えが出たところで、康平がしんみりと呟く。
「大人になるって言うのは、大事な宝物を一つずつ壊してくって事なんだよな」
分かったような分からないような言葉が、車内に沈黙をもたらして、車は出発。
三人は一路空港へと向った。
日本の空の玄関。
と言うだけあって、人の多さより、まず人種の多彩さが目に付く。
空港のエントランスに入るなり、多種多彩な髪、肌の色が視界に飛び込んできた。
まるで、ここでだけ日本と言う仮面を外して、世界と言う素顔を晒したような、どこか開放感に満ちた活気がある。
頭上を飛び交う言語も様々だった。
辛うじて聞き取れるものから、ホントに舌とかでどうこうなんの? と疑問に思ってしまうものまで。
日ごろ外国どころか、空港と言う場所自体に馴染みの無い大地には、殆ど異世界といってよかった。
雰囲気に多少気を飲まれながら、それでも感心したように隣に立つ康平を見た。
「……それにしても、渡さんって英語できたんすね」
来訪者の名前は、ジャックである。
道中、本名ではないと説明されたが、まさかまんま日本人が来るわけでも無いだろう。
という事は、当然喋りは英語だろうし、一人だという事だから、こちらに通訳代わりがいてしかるべきだ。
……と、大地は思っていたのだが、どうやら違うらしい。
苦笑しながら康平は首を横に振った。
「いや、俺はからきし。でも、千葉が出来るから」
「ちょ、ちょっと、私英語なんて喋れないわよ」
「え?」
突然名前を出されて、玲子が慌てたように顔の前で手を振った。
「あ、だって、お前高校の教師だし…」
「あのねえ、世の中には”専門”って言葉があるの。私の専門数学だもん」
「な、なにっ?! それじゃあ何のためにお前連れてきたのかワカンネーじゃん!」
「え、なに? じゃあ、そのために私連れてこられたのっ?!」
それぞれ驚きを口にしながら、先ほどまで落ち着いていた大人二人は、巣に水を注ぎ込まれた蟻のように慌て始めた。
「そ、そんなこと言って、ホントは出来るんだろ?」
「どんだけつまんないドッキリなのよ…。教師って言ったって、英語の先生でも無い限り学校で英語に触れてる時間なんて全く無いんだから。生徒達の方が私なんかよりよっぽど……」
ハッと気づいたように、二人の顔が大地のほうへ向いた。
「い、いやいや、俺だって無理っすよ。ヒアリング苦手だし、テレビでも受験英語って言ってなんか批判されてるじゃないですか」
飛び火してきた。
観光客だろう外国人の一団が、物珍しげに三人を眺めやりながら入り口へと向っていく。
なにやら揉めている日本人達を見て、何やってんだろうね、くらいは英語で話していたかもしれない。
それすら三人にはわかんない。
「そ、それじゃあ、なにか? 誰一人英語は喋れないと……そう言うのか?」
康平が言うと、うってかわって沈黙が再び訪れた。
「……」
「……」
「……」
「……えーっと……タイム…」
タイムの宣言は聞き入れられず、折りよく案内板が表示され、飛行機の到着を知らせるアナウンスが場内にかかった。
康平は恨めしげにカウンターを睨んだが、睨まれた職員達こそいい迷惑だったろう。
山を越え谷を越え僕らの町にやってくると言うのは、現代において、一部忍者だけの特権ではなくなった。
海さえ越えてやってきたおよそ四百名の乗客達の内、キャップをかぶった少年が、見送りをするキャビンアテンダントの一人に礼を言っていた。
癖の無い英語で、丁寧に旅の間のサービスに対して、微笑みと共に感謝の意を述べている。
瞬く間に彼女を赤面させた。
羨ましそうに、顔を赤くしている彼女と飛行機を降りていく背中を見送りながら、同僚の一人が声をかけてきた。
「あの子なんだって?」
「……色々ありがとうって」
「いいな〜、私三回くらいしか声掛けられなかった」
真剣に悔しそうな声を発した同僚に対し、彼女は陶然とした笑顔で応えた。
飛行中、彼の少年は、彼女たちの間でちょっとした話題になった。
なんかものスゲー格好良い子いんぞ、と言うわけである。
代わる代わるといった調子で、何か不足は無いか、などと聞きに言っては少年を困惑させ、控えに帰っては低声で嬌声を上げた。
フライトの間、明らかにサービスに偏重が見られたが、幸い他の乗客に気づかれた様子は無く、この航空会社は失点を免れた。
しかし、失点は免れたからといって、それで済ませないのがプロ意識である。
私語に勤しむ二人の下に、プロ意識の塊のような影が降りかかってきた。
「楽しそうなところ口出して悪いんだけど……仕事しろよ」
冷たい声をかけられて、実際に冷水を浴びせられたように二人は身をすくめた。
恐縮しながら周りを見ると、いつの間にかお客さんの姿が無い。
恐る恐る、視線を声がしたほうへと戻す。
見えない空バケツを抱えていたのは、二人と同じ制服を着て、腰に手を当てた背の高い女性だった。
彼女達と同僚で、三年ほど先輩に当たる。
密かにラビットと言うあだ名が付いていたが、これはウサギのように愛らしいからでも、関根と言う苗字だからでもなく、単に得意技が殺人パンチだからだ。
大半の格闘技協会から出禁を喰らいそうなあだ名を冠した先輩が、真剣な表情で二人を見つめる。
「そうやってはしゃぐのは、せめて仕事が終わってからにしなさい」
「でも、先輩だって見たで……あた」
「いたい……私もですか?」
コツ、コツ、と、小気味良い音を立てて、二人の頭を小突いた。
口答えしようとした方は仕方ないとして、もう一人が不満そうな声を上げる。
「連帯責任」とは先輩は言わなかった。
効果の程はともかく、理屈の通らない仕組みだからだ。
彼女達を小突いたのは、単純に仕事をないがしろにした罰である。
「返事は?」
それだけ簡潔に問うと、「は〜い」と渋々といった感じで二人は仕事に戻った。
溜息まじりにそれを見送りつつ、チラリと通路へ目をやる。
「……まあ、確かに格好良い子だったわ」
誰にも聞こえないような声で呟き、くるりと背を向けて、あとは手際よく仕事を再開させた。
そんな風に話題になっていた事なんか知りもしない少年は、トラブルもなく無事入国を済ませ、日本へと続く人の流れに合流した。
キャップを目深にかぶり、小さなリュックを背負っている。
バックパッカーなどに見えないのは、年齢と軽装と清潔感の所為だろう。
夏らしい爽やかな青い装いで、Tシャツにジーパンと近所のコンビニにでも出かけたような気軽さだ。
初めて外国を訪れたような緊張が見て取れ、いかにも初々しい。
やがて前方に人の溜りが見えてきて、少年は足を止めた。
キョロキョロと視線を動かし、直ぐに目的の顔を見出して、右手を上げた。
結局、なんちゃって外交官には康平が選ばれた。
民主主義に則り、責任があるべき場所に帰結した結果だ。
恨めしげに後方に立つ二人を見た後、康平はやってくる人の流れに顔を向けた。
と、言っても、直ぐに探す必要がなくなった。
歩く足を止めて、こちらに手を上げる少年がいる。
ホッとしたような笑顔を浮かべながら、康平の前に立った。
「コーヘイ?」
写真などで顔を見知っていたのだろう、疑問調ながら確信のこもった声でそう問いかけてくる。
青い瞳を見つめながら、若干上擦った声を康平は出した。
「ハ、ハーイ。マイネーム、イズ、コウヘイワターリ。ウェルカム、ジャパン! アイキャンスピークイングリッシュベリーリトル」
昭和の結婚詐欺師みたいな英語で握手を求めてくる日本人に、一瞬呆気にとられたような顔をした後、少年はクスリと口元に手を当てて笑う。
「こんにちわ、ジャックです。日本語が少し出来まス」
流暢な日本語が、指の隙間からこぼれてきた。
笑いの余韻を残しつつ、握手を求める形のまま固まってしまったコウヘイの手を、少年はしっかりと握り返した。
そんな光景の少し後ろ、他人の距離を保ちながら、固まってしまった知人を大地達は生あったかい目で見つめている。
「……渡さんが大人になってる」
「確かに、一瞬で大事なものが壊れたみたい」
煤けた背中と対照的に、にこやかに握手をしている少年を見ながら、は〜と溜息をついた。
視線を交わしあい、内心、少年が日本語を喋れる事にホッとしながら、悲劇的な出会いの現場へと二人は足を進めたのだった。