番外編3 ”希望” 2
その少年の名は、ノゾミと言った。
年のころは五歳から八歳の間と言った所。
幼い外見と発育の状態から見て、十を越えているという事はないだろう。
しかし、一口に幼いといっても、この間には存外大きな広がりがある。
ノゾミ自身は、自分の出生に興味もこだわりも持っていなかったが、これは、彼が生まれたときには、既に身近に暦を数える習慣がなかったからで、おかげで精しい年齢は本人にも分かっていない。
体格を見ても、節々が痩せて尖っていて、年齢の通りに正しく体が成長しているようには見えなかった。
ただ、目には大人びた思慮深さが宿っており、それがまた、彼が積み重ねた年月をあやふやにしていた。
ノゾミが座っていたのは、とある乾いた一室だった。
四方を灰色のコンクリートが囲み、蛍光灯ばかりが明るく、どこか寒々しい。
唯一ある扉から右一面の壁に大きな鏡がはられ、その中央には愛想のない机と、高さをもてあますように足をブラブラさせて椅子に腰掛けた、ノゾミの姿が映っている。
机の上には首の長い卓上灯があって、彼を見張るように黄色い目を光らせていた。
鏡は、正しく状況を写し取っていた。
彼の目の前にある良き隣人であるはずの現実は、この小さく幼い人間の為だけに、この部屋を用意したらしい。
ノックの音が響き、はい、と少年が返事をして、彼は扉を叩いた大人達を迎え入れた。
入ってきたのは、男女の二人組だった。
年齢の方は女の方が若干若く見え、その分男の方には落ち着きが見て取れた。
両者とも黒のスーツに身を包み、女の方にいたっては、仰々しくサングラスまでかけている。
それを外しながら、椅子に腰をおろした後ろに、神経質そうな男の方が立った。
室内に、ノゾミが占拠している物も含めて、椅子は二つ。
彼はどうやら紳士であるらしい。
単に立場の問題かもしれない。
ふぅ〜と一息分の間を作ったあと、机に身を乗り出し、女はノゾミに顔を近づけてきた。
眉間には皺がより、その表情はずいぶんと険しい。
ノゾミがコクリと喉を鳴らしたのは、二人の鼻先が今にもくっつきそうになった所。
そこで動きを止めて、にぱっ、と音を立てるように女は破顔した。
「……どう?」
「……うん。TVでみたスパイみたいでカッコイイ」
ノゾミもくすぐったそうにクスクスと声を立てた。
その成果に満足したのか、「だろ〜〜〜」と言って、ズガガ〜〜と椅子を後ろに引いていく。
同行者である男の方に背もたれを寄せて、笑顔を向けた。
「な、着て来て良かっただろ?」
「デパートまで走らされた甲斐がありました」
特に皮肉でも無さそうに、男は淡々と返した。
「こんにちはノゾミ君」
女から顔を外して、ノゾミに向って挨拶をしてくる。
表情筋が小さく動いて、より良く誤解するなら、それは笑顔に見えた。
「こんにちわ」
ノゾミも笑顔を返して、それに応えた。
乾いた部屋が、潤いを伴って、いつもの雰囲気に戻っていく。
「で、どうだい、水城君との暮らしは?」
またズ〜コズ〜コと椅子を戻すと、頬杖をつきつつ、女は足を組んだ。
彼女らしい快活な声が室内に響く。
「楽しい」
屈託なく答える少年に向けて、そいつぁ良かった、と満足そうな笑顔を見せた。
彼女の名前は、沖島望。
少年の名と一音違い、のぞむ、と読む。
比べるとこちらの方が男っぽく感じるが、竹を割ったような性格の彼女には良く似合っていた。
「それでこそ紹介した甲斐があるってもんだ」
「正確には、あちらが我々を紹介したんですが」
熱のこもらない声で男が訂正したのも意に介さず、沖島は足を組みかえると、身を引いて自身の衣装を楽しそうに眺めた。
スーツタイプの上着とスカート。
カッチリとした佇まいは必要以上に大人っぽく、驚くほど彼女に良く似合った。
キッカケは、先月の事。
新しい生活を始めたノゾミが、経過報告をしにこちらを訪れた時にあった。
「普段着ってなんだか秘密組織っぽくないね」
と、何気なく呟いた彼に、ムキになって応じたのが沖島だった。
このとき、彼女はジーンズにTシャツ姿だった。
「よ〜し、だったら来月見てろ!」
言葉ほど声は冷静さを欠いてはいなかったが、ビッと指差されて、ノゾミはオズオズと頷いてしまった。
その為、何故か後ろの男も巻き込んでの、このような状況が出来た。
男の方の着こなしも見事なもので、ノゾミの評価は多少的外れだったものの、本当にどこかの腕利きスパイのように見える。
女王陛下最強の武器でマーダーライセンスを持つ男。
実際は、目の前の年下の上司の着せ替え人形でしかなかったが。
「まあ……」
女王になり損ねた女は、顔を上げてノゾミを見た。
表情は幾らか引き締まっていたが、どうしようもない位優しい光が瞳に宿っている。
「私たちは絶対”諦めない”から、君は安心して幸せになりなさいな」
それは、ノゾミが彼女たちに最初に放った言葉であり、彼女たちと最初に交わした約束だった。
頭の後ろで手を組んだ沖島の言葉に、顔を輝かせながらノゾミがしっかりと頷くのを見て、後ろに立った男は不思議な気持ちになった。
思えば、その質問をしたのは彼である。
『我々はどうしたらいいですか?』
小さな体から覗く絶望的な未来に、冷静なはずの彼が思わず発した言葉だ。
その質問をした途端、少年は顔を上げた。
酷く疲れたような瞳に、縋るような色が滲んだ。
『……諦めないで』
それまで、一切の質問に答えず黙って俯いていた少年の声は、酷く掠れていた。
聞き返す間もなく、今度ははっきりとした声が届いた。
『例え何があったとしても、諦めないでください』
「ディストピアと言う言葉を知っていますか?」
突然声を掛けられて、一瞬、言葉の内容を掴み損ねた。
「ディストピア、ですか?」
そう返したものの、この質問にさして意味はない。
単なる間つなぎである。
「はい」
と、言う答えを聞きながら、康平は必死で頭の中の辞書を探った。
後部座席に座った那乃川は、相変わらず悠々と漫画雑誌をめくっている。
老紳士然とした彼が漫画を読んでいる姿はどこか滑稽だったが、その脇には、未読の漫画雑誌が山のように積まれていた。
彼らを乗せた車は街中を快走していた。
運転手を任じられた康平は、彼の愛車の三分の一ほどの実力を保ちながら、目的地へとアクセルを踏んでいる。
車中の人となった那乃川は、その間ずっと漫画雑誌を読んでいた。
暇つぶしに、と言うわけではなく、彼らの特殊な業務上、コレも立派な仕事の一つである。
ページをめくる音は常に一定で、コマを見つめる目はどこまでも真剣そのもの。
てっきり熟読しているものと思っていた康平は、ようやくその言葉を辞書の中から見つけ出した。
「確か、空想上の理想社会、明るい未来像――ユートピアに対して、暗黒社会、暗い未来像を差す言葉ですよね。SF小説とかで、特に暗い未来像をテーマにしたものを差して『ディストピアもの』みたいな使われ方をするそうですけど」
ルームミラーを窺いながら、自信無げにそう答えると、那乃川は満足そうな声で一度頷いた。
「ちゃんとお勉強はしているようですね」
内心ホッとしながら、ハンドルを右に切る。
「”知る事で損はしない”は、耳タコですから」
「結構です。……まあ、私は最近知ったんですが…」
いや、おい。
危うくハンドルを切り損ねて、康平は慌てて車の姿勢を戻す。
「ったく。で? なんだって急にそんな事聞くんです?」
読んでいた雑誌を閉じ、那乃川は次の雑誌に手を伸ばしていた。
「SF小説に限らずですが、最近その『ディストピアもの』が増えてきている気がして」
那乃川の声が静かに響くのはいつもの事として、そこからは幾らか覇気が欠けている様な気がした。
そのことに気づきながらも、康平の言葉は、つい現実的なものとなった。
「それは仕方がないんじゃないですかね。今の社会で、明るいだけのユートピアを見せられても、誰も信じないでしょう」
こちらの答えは、どうやらお気に召さなかったらしい。
つまらなそうに小さく鼻を鳴らすと、手にした本を閉じ、むっつりと黙り込んでしまった。
表情に変化はなかったが、目を瞑った為、それ以上の感情の動きは見て取れない。
「渡君は自転車に乗ったことがありますか?」
やがて、ポツリと零すようにされた質問は、ずいぶん突飛なモノに思えた。
「自転車ですか?」
先ほどと同じように返してしまったが、質問自体が不可解であった為、なおさら意味のないものになる。
いくら考えても質問の意図が分からず、那乃川からの返答もない。
康平は素直に答えてみる事にした。
「そりゃあ、ありますけど」
「きちんと乗れますか?」
「はあ、まあ」
どうしても、不明瞭な受け返しになる。
「お父上と練習をしたんですか?」
「そう、ですね」
答えながらボンヤリと思い出す。
もう遠い昔。
世界は今より圧倒的に欠けていたのに、何故か満たされていた日々の事。
練習場所は近くの河原だった。
父親の仕事おわりに、夕暮れを背景に繰り広げられる、絶対離さないでよー、からの一連のやり取り。
最終的に、父親にユダの烙印を押して、随分落ち込ませたのを覚えている。
(……なんか、えらい酷いことしてるな俺)
康平自身父親となって分かる、親父の心境と言うやつだった。
もし、自分の娘に裏切り者呼ばわりされたとしたら。
多分ソッコーで手頃な縄を買いに商店街辺りに走っていることだろう。
(……こ、今度、夫婦で温泉旅行にでも招待するかな)
俗っぽい贖罪方法が思いついたところで、那乃川の話は続いていた。
「私も父親と練習したんですが、その時に一つアドバイスを貰いましてね。彼は『行きたい方向を真っ直ぐ向いて、背筋をピンと伸ばしていれば、こける事はない』と、こう言うんですよ」
「あー、俺もなんか似たような事言われましたね。『行きたい方向を向けば、自然に曲がる。手で運転するんじゃなくて顔で運転しろ』って」
二人して、父親の台詞の部分で声を低めているのがおかしかった。
しかし、一世代以上も年の離れた二人の思い出の中から共通点を見つけたところで、嬉しくもなんともない。
康平が、意味ありげな視線をルームミラー越しに投げかけると、那乃川は彼自身の低い声で呟いた。
「人の未来も同じなのではないかと思いましてね」
その言葉を聞いて、康平はようやっと気づいた。
先ほどからされていた奇妙な質問には、前提があったのだ。
それを悟ると、康平の口はこれまでより滑らかに動いた。
「人の未来も、向いている方向に進む……いや、向いている方向にしか進めないって言った方がいいのかな」
車窓からは街中らしい背の高い建物が消え、どんぐりの背比べのような無個性の屋根が並び始めている。
その中でも一際古めかしい雰囲気の屋根が、フロントガラスに映った。
「だからこそ、俺たちのような者が蠢動してるんでしょう」
別に皮肉でもなんでもなく、康平はそう言った。
例え、自分たちが大地を揺るがす事はできなくても、それによって混ざった土は、何かを芽吹かせるかもしれない。
現状を捉え、それでいて希望を失っていない発言のつもりである。
そして、今度こそ康平の言いようは気に入られたようだ。
那乃川は、体を目一杯仰け反らせて、声も無く笑っていた。
「…………………………バンバン(←なんかシート叩いてる)」
「あー、えーえーそうでしょうよ」
どうせ、ここでの話もあと数秒の事である。
いじけたように呟きながら、康平はブレーキに右足を乗せた。
滑るように、車は目的の家へと横付けされた。
「ふふふ……いや、良い言い種でした」
二日酔いのように衝動は抜けきっていないようで、呼気からは微かに笑いの香りが漂っている。
「もういいですよ! それより、水城善一郎の協力は得られたんでしょうね!」
シートベルトを外しながら、康平は赤い顔で叫んでいた。
「ふ、いやいや、うん。勿論です。……さあ、では、君の言う、明るい未来への悪巧みといきましょうか…………ぷふ」
そう言って車を降りた那乃川のあとで、悔しそうに康平が降車した。
そんなおかしな二人の来訪にも、水城家は動揺することなく、そこにジッと佇んでいた。
お待たせしました、お久しぶりでございます。
今回は出来上がり次第、投稿 (あっぷ?)して行きたいと思っているんですが、このペースは恐らく保たれないでしょう(笑)いえ、勿論努力はしますが。
そんなわけで、何でこんな不定期なんだ、と叱られつつでも、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
それでは失礼致します。