番外編3 ”希望” 1
ごめんなさい、続きます。
八月も半ばをすぎると、東町上空は健康的な表情を取り戻していた。
先ごろの春の狂躁が嘘のように、今では例年通りの気温を示している。
それは、すなわち。
「暑い」
という事になるのだが。
かんかんに照り付ける太陽の下、誰の所為でもないのに迷惑そうに額の汗を拭うと、渡康平はベンチに腰掛けた。
彼が今いるのは映都東町にある、東公園だ。
敷地だけがやたらと広く、特に楽しめる遊具もなし。
広場としても大半を大きな池として水族に提供しているため、陸上歩行生物にはあまり人気がない。
体裁を整えるようにしてある遊歩道 (のようなもの)にも人の姿はなく、脇に設けられたベンチの一つを悠々と占拠し、康平はだらしなく背もたれた。
ミンミンとうるさい夏の沈黙に顔を顰めながら、ジットリと汗の浮かぶ腕にはめられた時計に目をやる。
針は一時五分を差していた。
「一時間、か」
それを確認しても、彼の表情に変化はない。
一々怒る余裕もないのか、今にも口の端から舌が出てきそうな酷い有様である。
それでも、ここは木陰になっていて他よりは幾分涼しかった。
この季節蝉がうるさいのは日本国内どこでもだし、暑い事さえ除けば……。
「いや、除けんな、やっぱり」
溜息が暑気に溶けていく。
待ち合わせ時刻は十二時ちょうどだった。
合流後、昼食をとって行動を開始する予定だったのだが、待ち人である少年二人はいまだもって姿を現さない。
「先にどっかで食べてるってことはないよ…な」
口にしてみて、首を振った。
あの子たちはそういう人間じゃないよなあ、と一人ごちるが、それなら、遅刻をしているのも変な感じである。
何かあったかと少し嫌な想像をしつつ、ケータイを取り出してみた。
もっと早くに使っていても良さそうなものの、康平はあまりこのコンパクトな家電が好きではなかった。
なにしろ邪魔くさいのだ。
こちらの都合などお構い無しでプップカ鳴っては、「今暇ー?」とか能天気な声で訊ねられると、ぬええーーい! と遠くに投げてしまいたくなる。
そういう気持ちがあったから、康平はなるべくコレを使わないようにしているのだが。
流石に一時間も音沙汰がないと心配になってくる。
アドレスから秋名大地の名前を見つけると、うーんと唸ってから、ダイヤルしてみる。
少ししてコール音が聞こえてきて、相手が出る。
それと同時に、目の前に影が差した。
「なんすか?」
ケータイを耳に当てた大地が、不思議そうに康平を見下ろしていた。
彼の隣に立っている少年も、怪訝そうに呆然とする康平を見つめている。
「あ、いや、随分遅いような気がしたから」
気まずい照れ臭さを感じながら、康平は腕時計を示した。
キョトンとして、顔を見合わせる少年二人。
「時間通りっすけど?」
そう言って、大地は開いていたケータイの画面を見せてくる。
デジタルで表示された時刻は、十二時二分。
「あれ?!」
あたふたと二つの時間を見比べた。
視線を往復させると、一時間のずれがある。
「壊れてるんじゃないデスカ?」
顔の近くにずいっと出てきた眩しい色に、大地が目を細めた。
康平の目の前に現われたのは金髪碧眼。
どちらも天然ものである。
少年らしいテノールが奏でる日本語は流暢に流れていたが、幾らか言葉の端々に違和感もあった。
「そうかも」
あははと笑って誤魔化すと、二人は再び顔を見合わせて首をかしげた。
「それより俺腹減ったんですけど。……おごりなんすよね」
にこりと微笑んで、大地が白い歯を見せた。
なんだかんだで最初に会ったときより、図太くなっている。
「それは勿論」
気持ち良く奢り宣言をすると、初来日の少年が嬉しそうにバッと両手を上げた。
「ボクお寿司が食べタイ」
「回るやつ?」
「ウウン、下駄はいてるヤツ」
どこでそんな言葉を覚えたのかはともかく、財布との緊急会議の結果満場一致で否決。
次善策を問うも。
「スキヤキ」
パス。
「テンプーラ」
パス。
「……ゲイシャ?」
パス。
康平の経済状況を鑑みるに、どれも昼には(←つよがり)食べられないものばかりである。
と言うか、最後のは食べ物ですらないし。
単純に、日本と言えば、というモノを挙げていっているだけかもしれないが、外国人が軽々しく口にするものは何故かどれも軒並み高い。
「もう回る寿司でいいじゃないの?」
空腹に耐えかねたのか、めんどくさそうな顔で大地が呟いた。
「うーん、分かりまシタ」
どこか不服そうではあったものの、となりの少年が頷くのを見て、康平はホッとした。
「良し、それじゃあ行こうか」
ズボンの尻をたたきつつ、ベンチから立ち上がった。
近くの回転寿司屋を目指して、先頭きって歩き出す。
内心で、高いものを回避できた安堵でいっぱいになるが、康平には一つ忘れている事があった。
この時、高校生男子のほとんど無尽蔵とも言える食欲の事を思い出すには、この日は暑すぎたのだ。
康平が、お寿司の回るベルトコンベアの前で、ちびりそうな位散財している間に、時間は二日ほど戻る。
ベタなくらい散らかっている仕事机を前に、千葉玲子はうーんと背筋を伸ばした。
椅子の背もたれが、突然かかった負荷に不満そうにきしんだ声を上げた。
夏休み真っ最中の映都東高校。
校舎内のほとんどが静かな代わりに、朝から部活の声が盛況である。
遠くから聞こえるような吹奏楽部の演奏の音、野外クラブの応援の声、誰かが冗談でも言ったのか、楽しそうな笑声。
そんな声達を、クーラーの効いた職員室で聞いているというのは、特権のようでもあり、どこか寂しいような気もする。
ビミョ〜に感傷的な気持ちになりながら、玲子はコーヒーを入れるために立ち上がった。
夏休みと言えど、教師に仕事がないわけでは、勿論ない。
康平などはその辺り誤解して単純に羨ましがっているが、机の上の書類と同じようにやる事は山積していた。
特に、クラスの担任を受け持つ身として、そろそろ生徒たちの進路の事なども考えなくてはならず、中々悩ましい日々を送っているのだ。
給湯器の前で、インスタントコーヒーの粉をカップに入れ、ポットからお湯を落としていく。
極上の香り、とは言わないまでも、嗅ぎ慣れた馴染みのある香りには、疲れた気持ちから目を逸らさせる位の効果はあった。
カップを手に机に戻り、さてもう一頑張りするかと気合を入れたところで、その電話は鳴った。
出端を挫かれた形となり、思わず眉間に皺がよっていく。
この間の悪さは、と、能天気な同級生の顔を思い浮かべるが、液晶に表示された名前を見て、玲子は素っ頓狂な声をあげた。
「あれ、那乃川さん?」
彼女のケータイを鳴らしていたのは、上司の名前だった。
と言って、学校関係者ではない。
彼女のもう一つのお仕事の方で、立場の近い上役をやっている人物だ。
基本的に、教師は副業を禁止されている。
ただ、どちらかと言えばこちらが本業であるし、本業の方には教師を副業にしてはならないという決まりがない。
そんな妙な図式を勝手に成り立たせているため、校内であるにもかかわらず悪びれる様子もなく玲子は電話に出た。
「おはようございます。珍しいですね、今時分に掛けてくるなんて」
多少声を落として言いながら、チラリと時計を見る。
時刻は十時十八分。
那乃川からの電話は、大抵昼休みや帰宅後にかかることが多く、午前中に連絡が有る事はほとんどない。
そこから考えても、ただ事ではない事がわかった。
コーヒーで口の中を湿らせると、玲子は言葉を待った。
直ぐに渋みのある声が返ってくる。
「おはようございます」
落ち着きを感じる男の、カフェイン以上に目覚めの効果のある声だ。
久しぶりに聞いた、とそんな雑感を抱きつつ、沈黙。
「実はお仕事の話です。報告し難い事なんですが……」
それは確かにただ事ではなかった。
段階で言うと、青赤白。
見る見る顔色を変えながら、あんぐりと口が開いていく。
「……と、言うわけなんですが」
相手の声に変化はあまりない。
自分の顔色を見せてやりたいと、ちょっと現実逃避。
「……ご、ごめんなさい。え、えと、それじゃあ」
ごくりと喉が鳴った。
「……本当に、アレ、盗られちゃったんですか?」
「はい」
あっさりした、微塵も申し訳なさを感じさせない返答に、ピキッと、額に三叉路が浮き上がる。
隠し通路に流れるは、沸騰間際の赤い血潮だ。
「いや、まあ、あはは、うーん…………うん。……またぁっ!?」
一歩手前 (ブチギレ)の叫びは、溜息に良く似た音色にのって響いたとか。
まだまだ暑い日の続く、八月十二日の事であった。