番外編2 ”欠伸”
大っっっっ……変! お待たせいたしました!
ヒーローの条件番外編二話目でございます。
待っててくださった皆様、ありがとうございます。それから、すみませんでした。
…本当ならこんなに時間がかかる筈ではなかったんですけど……。
スランプと言いますか、なんと言いますか。
まあ、とりあえず言える事は、使わなかったネタ消化しようとして、新しく没ネタ作ってりゃ世話ねえなあ、と。
…えーと気を取り直しまして…この話は、商店街最後の闘い前の三日間の間に何があったのかなー? っていう話です。
幾つか細かい部分で本編と繋がっていない所がありますが、番外編という事で笑って許してくれると有り難いっす。
それでは、暇つぶしの一助にでもなれば幸いでございます。
…ホント、遅くなってすみませんでした!
決して優しくない午後の陽射しにも負けず、引っ張られるような強烈な眠気が襲ってきた。
がくんがくん頭が落ちながらも、分厚い陽の光が眠りの国への道を塞いでいるのだから、始末に困る。
体の中にはいつまでも睡魔が居座り、その状況に抗議するように欠伸がこぼれた。
「くあ…」
大きく口を開けると、目の端に水気を感じた。
滲んだ視界の向こうに触発されたように口元を押さえるクラスメート達の姿が見える。
欠伸がうつったか、それともただ単に世界史の授業が子守唄の効果を持っているのか…。
―――だって…。
そんな光景のどこかに、閃くように記憶の一つが反応した。
ぼんやりとした頭で正体を探るが、蔓延る眠気の所為でどうにもハッキリしない。
……この声は誰の声だっけ?
全てを包む陽だまりのような優しさ、とは違う………雨?
そう雨だ。
傷ついた部分に柔らかく染み込む、暖かい雨を思わせる落ち着いた声。
―――欠伸って…。
じれったいほどゆっくりと記憶が蘇っていく。
それとは裏腹に、その先にあるものの正体を頭のどこかで解っているのか、現実が一つの光景をずっととらえていた。
そうだ、だったらこいつは何なんだ。
……まあ、その疑問はあらゆる意味でずっと纏わり付いているのだけど。
堪えるように顔をしかめていたそいつが、とうとう諦めたように大口を開けた。
ふあ〜と声を出しながら、情けなく皺のよった顔を晒す。
……まるで人間みたいに。
―――だって、欠伸って…。
…思い出した。
いつだったか、家に祖母さんの昔からの友達だと言う人が来たことがあった。
コレはその人が言っていた言葉だ。
……確か。
―――だって、欠伸って…。
―――敵にはうつらないって言うでしょう。
……この度その説が間違いだと判明いたしました。
黄金週間が明けて初日。
すっかり金色のメッキが剥れて鉛色の正体を見た俺とは違い、クラスメイト達は有意義な休日を過ごしたらしい。
当然のように聞こえて来る、どこそこに行っただの、何それをしただのの、土産話とも自慢話とも取れる話の数々は、俺にとって耳の毒にしかならなかったが…。
中には海外に泳ぎに行ったとかで、綺麗なチョコレート色をしている女子の集団まであった。
わざわざ海を渡ってまで海に入りに行く気持ちは理解できないが、外国の方がきっと海開きが早いのだろう。
……何でもいいけど海海言い過ぎた。
そんな楽しそうな話の輪には加わらず、俺は一人席に着き、分厚い紙の束で顔を仰いでいた。
暑気を嫉妬心ごと吹き飛ばすように必死で風を送りつけるものの、引いていく汗より浮き上がるそれの方が圧倒的に多い。
暦は五月に入ったばかりだというのに、太陽は一足早く夏を先取りしていた。
火の国と言えば熊本だとばかり思っていたが、ここ、映都東も負けないくらい熱い日が続いている。
クラスを見回しても、自主的に衣替えを行っている生徒ばかりだ。
強烈な日光を体いっぱいに浴びている現状では、蝉の声がしないのが不思議なくらいだった。
「はよ〜っす」
外の陽射しと同じくらいのワット数を持つ明るい声が、俺の手から紙の束をひったくって行った。
こちらを窺うような少しの沈黙のあと、
「秋名君…嫉みなんて不幸のもとだよ?」
そう言って、ちゃっかり俺の机の一部を陣取ってしまう。
「弾けて混ざれ」
「要求がエスカレートしてるよね」
鞄を肩に掛けたままの国東が、ご丁寧に空いてる椅子まで引っ張ってきて、俺の前に鎮座していた。
視線はペラペラとめくる課題に落としたまま、楽しそうに口を開く。
「……見る限りじゃあ、充実した休日を過ごしたようだけど」
「うっせ」
「あはは。ごめん、けどよく終わらせられたね〜」
机の上に、厚さ五センチはある紙の束を放りながら、簡単にのたまってくれる。
……本当によく終わったもんだ。
そう思うと嫌でも昨夜の記憶が蘇ってきた。
課題は、そのまま出題者の性格が表れるような底意地の悪さに満ちていた。
口にしたくもないような事情で色々と忙しかった連休中にも、何とか残り数ページという所まで課題を片付ける事が出来たものの、これまた口にしたくないような用事から帰宅した俺は、その残りを開いてみてそのまま固まってしまった。
そこには、小さな字で書かれた無数の数式が、残りの数ページに亘ってひしめき合うようにして存在していた。
ページの隅にいた可愛らしいウサギのイラストが「頑張れ! もう少し!」なんて応援してくれていたが、どう考えてもこいつは出題者の使い魔だ。
心なしか、浮かべる笑顔にも悪意が見え隠れしている気がする。
そのまま、ウサギ型の低級魔族を睨んでいてもしょうがないので、折れそうな心を奮起させて課題に取り掛かった。
始めてみると、問題自体はこれまでの応用ばかりで特に難しいところは無い。
しかし、如何せん量が尋常じゃなかった。
作業は深夜にまで及び、最後にはしばらく滞在する事になった居候まで駆り出しての(と言ってもほとんど役には立たなかったけど)総力戦となった。
ようやくデスマラソンのゴールが見えてきたころには、俺の顔に朝日が降り注いでいた。
この時、頼れる助っ人は課題のあまりの辛さに「故郷に帰りたい」と強烈なホームシックに罹ってしまったあと、いつの間にか隣で寝息を立てていた。
ジリッ…と音を上げかけた目覚ましの頭を叩いて彼女を寝床に運んだあと、救援の期待できない戦いを強いられながらも、何とかなったから現在に至る、という訳だ。
おかげで一睡も出来ていない。
「死人のような顔だね〜」
……それを何故弾んだ声で口にする。
国東はうっすらと隈の浮かんだ俺の目元を見ながら、楽しくてしょうがないって顔をしている。
「楽しそうだな…」
「まあね。うん。実際よくやったと思うしね〜」
「……俺には千葉ちゃんの課題をサボる度胸なんて無い!」
「強い弱気だな〜」
見本市にも並んでそうな虚勢を張る俺に国東は呆れたような声を出すが言葉自体に反論は無いらしい。
コクコクと頷いていたかと思うと、ぽんッと手を打った。
「そうだ、その千葉ちゃんに来る途中会ったんだけど」
表情はどこまでも軽薄で、その癖声には秘密を少しだけ含めながら、国東は小声を耳に寄せてきた。
「なんかウチのクラスに転入生が来るらしいよ」
「転入生?」
うん、と頷いて、途端に表情が崩れる。
作りだけは無駄に良い顔が、頭に花が咲いちゃったように緩んだ。
「どんな娘だろうね。楽しみだね〜」
彼にしか行けない花畑に行ってしまった友人は放って置くとしても……転入生ねぇ。
意識した所為か、他の生徒達の声の中にもその言葉が含まれていることに気付いた。
「転入生だって。女の子らしいよ」
「ふ〜ん。何か事情でもあるのかな?」
「何で?」
「だってこんな時期に転入してくるなんて…」
「二人ともなんでボーっとしてるの?」
「なんでって……………うわあっ!」
驚いて顔を上げると、水城さんがびっくりした様な顔でそこに立っていた。
他の生徒たちと同様夏服に身を包んで、いつものように丁寧に編みこまれた三つ編みを心細げに弄っている。
気持ちを落ち着ける作用でもあるのか、徐々に表情にいつもの平静さが戻ってくる。
「おはよう。何してたの?」
「お、おはよ」
別に後ろめたい事をしていた訳でもないのに、妙に言葉に詰まってしまう。
「い、いや、何かうちのクラスに転入生が来るらしくて」
スムーズに出て来ない言葉で何とかそれだけを伝えると、転入生? と水城さんは首を傾げた。
そのまま考え込むように顎に手を当てていたかと思うと、サーッと顔が青くなっていった。
知らず内だろうが、手がまた三つ編みに伸びている。
「……まさか、あれって…じゃあ、今朝のあれも!?」
「え、あ、あの」
今朝のあれってなんですか?
どこまでも不穏な独り言を撒き散らしながら、水城さんは自分の席に向っていった。
何度かクラスメイトと肩をぶつけ頭を下げていたが、やがて発条が切れたようにストンと椅子に腰が落ちた。
「……今朝のあれ」
―――何か事情でもあるのかな?
級友たちの会話の一部が頭の中で再現される。
事情のある転入生と水城家の今朝のあれ、か。
……朧げながら、イコールの先にあるモノが見えた気がした。
嫌な予感ばかり当たるのはどうしてだろう。
チャイムとほぼ同時に現れた千葉ちゃんは、意味深な視線を俺に向けたあと、溜息のような声でこう言った。
「……うちのクラスに新しいお友達が来ます」
言葉とは裏腹にその声に力が無い。
入って、という声に促されて、教室に現れた新しいお友達の姿を見て、教室は水を打ったように静まり返った。
……無理も無い。
あらかじめ予想していた俺だって、実際目の当たりにした光景にはうめき声すら出て来ない。
「只今教官殿のご紹介にあった通り、今日から皆のクラスの一員となる…」
転校生と言えばココッという位置に立った彼女は、カッカッと軽快にチョークの音を走らせて名前を板書していく。
広い黒板を目一杯使って名前を書いた人物が、スカートを揺らしながらクルリとこちらを振り返った。
「如月ハニ子である。以後よろしく頼むのである」
デッカク白い文字で書かれた名前は、何度読んでも、どれだけ角度を変えてみたところで如月ハニ子だった。
加えて、青っぽい髪と、顔の中心で印象強く輝くエメラルドグリーンが、現実に裏づけを与えてくれる。
蘇える東町商店街の悪夢。
自称美少女型アンドロイド、水城さんちの新兵器が、制服に身を包んだ無い胸を反らして腰に手を当てて立っていた。
窓の方に視線を向けると、そこん家の次女が嘆くように頭を抱えている。
「い」
と最初に言ったのは誰だったか。
その一声でタガがはじけ飛んだように、途端に教室内が喧騒に包まれた。
「いいの!? 学校にアンドロイドってっ!?」
この学校に通っているのは殆どが地元生まれの地元っ子だ。
事情通じゃなくたって、商店街の事は知っている。
「あ、じゃあ、やっぱり商店街の子なんだ…」
「まあ、可愛いからいいんじゃない」
大騒ぎしだした生徒達に千葉ちゃんがパンパンと手を打ちながら声を上げた。
「こら、うるさい! 他の教室も朝礼やってるんだから!」
騒がしい中でも簡単にはかき消せないほどの大音声だったが、直ぐに声の渦に飲み込まれて意味をなくしてしまう。
「あ、はーい、如月さん誕生日はー?」
「おととい産声を上げたばかりである」
「じゃあじゃあ、好きな食べ物とか」
「重油」
重油…?
立て続けに起こる質問にハニ子が一々答えていく。
どう見ても機嫌良さそうなのが見ていて解るが、隣に居る千葉ちゃんの怖い顔が気にかかる。
「どうして学校に来たんですかー?」
その質問に思わず顔がハニ子のほうに向かった。
誰かの口から上ったその質問は、意識を向けさせるには十分だった。
見ると、千葉ちゃんも険しい表情を、少しだけ意味を変えたものにしている。
「それは…」
ハニ子が言いかけたとき、ばちっと俺と目が合った。
何事かを考える素振りを見せたあと、弾けたように指を差される。
「あーーーーーーーーーー!」
突然叫び声を上げた転入生に、周囲の耳目が彼女が指差した方向に向かった。
静けさを取り戻した教室でロック・オン・ミーだ。
「き、き、き、き…」
…一生吃ってて欲しい。
急激に注目度を増した俺の背中に冷や汗が流れ始める。
どう考えても、ここからじゃハニ子の口を塞ぐ事はできない。
「貴様! サンレッ……ひだっ」
あわやと言う所で、千葉ちゃんが平手打ちでハタくように、ハニ子の口を塞いでくれた。
据わった目と引き結んだ唇で、怯えるような涙目で見上げられても知らんぷりだ。
「ああーっと…秋名君。今から如月さんと一緒に彼女の机とって来てくれる?」
話の転換としてはかなり強引な気はしたが、俺は椅子を蹴って立ち上がった。
「よ、喜んで!」
この機会を逃してなるものかと、駆け寄ってハニ子を抱え上げ……重っ!
「ごめん、よろしく…」
ハニ子の意外な重さでプルプルなってる俺の耳元で千葉ちゃんが小さく囁いた。
教室を飛び出して俺が向ったのは同じ校舎の一階だった。
このフロアは殆どの教室が倉庫と化していて、入っているクラスは一つもない。
一日が始まったばかりだと言うのに、廊下は放課後のような静けさに包まれていた。
廊下に満ちた静けさを足音で蹴散らしながら、その最奥にある用具室へと飛び込んだ。
「お前何キロあんだよっ!?」
机が乱雑に並んだ室内にサーフボードのように抱えていたハニ子を下ろし、息も絶え絶え開口一番そう叫んだのは、右腕の震えが止まらないからだ。
「八十一キロ」
臆面も無くそう答えられる。
「はちっ……」
思わず右腕を見てしまった。
緊急事態とは言え、よく持ち上げたものだ。
「じゃなくって……貴様!」
絶賛マナーモード中の右腕から視線を上げると、ハニ子に指を突きつけられていた。
どこかの国だと指差しがトンでもない失礼に当たるそうだが、その気持ちが少し解る。
「なんだよ?」
こいつの次の言葉は解っているし聞かれて困る人も居ないから、特に慌てる必要も無い。
余裕を持って答える俺に、ハニ子が少しばかりたじろいだ。
「何って、貴様サンレッドだろう?」
サンレッドだった事なんて一度も無い! と叫びたかったが、雑ぜっ返しても仕方がない。
「もう違う」
「へ?」
あっさり言うと、ハニ子が上擦った変な声を上げた。
口をぽかんと開けたマヌケ面で、指先からもしおしおと力が抜けていく。
「もう違うって言ったの」
「なんで?」
無邪気に聞かれて思わず噴き出しそうになった。
「お前の所為だ」
「…え?……え?」
わざと深刻ぶって言うと、困惑したような表情で目が泳ぎだす。
精神的な打たれ弱さはともかく、そんな人が良さそうなリアクションで果たして悪の組織が務まるのか。
「ぶっ、な、何だその顔は」
笑いながら言った言葉に、一瞬きょとんとした顔を見せたあと、跳ね橋みたいに眉毛が吊り上った。
「貴様騙したな!」
「……いいや、ほれ」
俺はシャツをめくり上げる。
腰に巻かれたのはどこにでも売ってる様な何の変哲も無いベルト。
光を反射する銀色のバックルの、どこにも秘密は無いはずだ。
……というか、あったら嫌だ。
「……あ、あれ? 本当だ」
ハニ子が唖然とした表情で俺の顔とベルトの間で視線を彷徨わせる。
顔全体でなんで? と問いかけていた。
「お前……自分で言ってた事もう忘れたのか」
―――だ、だって、わたくしはそういう目的で造られたのだ。相手が油断し、なおかつ攻撃を躊躇ってしまうようにと。その為可愛らしい容姿をしているらしい。
「……それにまんまと嵌まっただけ」
「嵌まっただけって、だったらベルトは!?」
「今樹がしてる」
「イ、イッチーが?」
だから何故イッチー?
未だにそのあだ名は良く解らないが、俺は頷いた。
ただ、ベルトを託した頼れる助っ人は、今頃布団の中で故郷の夢を見ている。
「…何で解った?」
「何がだ?」
「何がって、その、俺の、正体」
何となく言葉が詰まってしまうのは、正体なんて単語を使う日が来ようとは思ってなかったから。
気恥ずかしさ全開の俺とは対照的に、ハニ子は鼻を鳴らしてふんぞり返る。
「それくらいわたくしにとっては朝飯前なのである。この体に内蔵されたありとあらゆるセンサーが貴様をサンレッドだと雄弁に物語っていた」
「お前がそんな事出来るわけないだろう」
「貴様、わたくしを何だと思って…」
……言っていいの?
俺が真剣に驚いていると、ハニ子が悲しそうな顔をしていた。
……話を変えよう。
「んで、そのお前が何しにこんな所に来たんだよ?」
「……こんな所って、貴様が担いで来たんだろう」
違ーう。
何故か可哀相なモノを見る目で見られながら、額に手を伸ばされる。
「い、熱なんかない! そうじゃなくて、何で学校なんかに来たんだって聞いてんだよ」
「何だそっちか」
伸ばしかけてた手を引っ込めて、それをそのまま腰に持っていく。
「まあ、貴様などに聞かせてやる理由は全く、これっぽっちも無いのだが、どうしてもと言うなら…いいだろう教えてやる」
そう言って、これでもかという位にふんぞり返られた。
しかし、そんな態度を取るんなら、まずその嬉しそうな顔を引っ込めろ。
ハニ子はキラキラ輝く瞳で、入学理由を話し出した。
「それは勿論わたくしに課せられた任務だからである」
「に、任務って、お前ここで何かやらかすつもりなのか?」
「……何かって、何をだ?」
知るわけ無いだろう。
まさか真顔でそんな返しをされるとは思わなかったから一瞬言葉に詰まる。
てか、なんだか話がかみ合ってないような。
「な、なあ、任務って何?」
「決まっている。学生の本分とは学業を修めることだ。それ以外に何がある」
またも真顔。それに若干の軽侮が混じっている気が。
…もう何て聞けばいいのか解りません。
「えぇえっと、じゃあ…えーと、あ、わかった! 何て言われて学校に来たんだ!?」
これだ! これならハニ子の向こうにいるヤツの意図がわかる。
あの蝶々女の意図が。
うーんと顎に手を当てたハニ子が、抜群の再現度でプルームの口調を真似た。
「こんな所に閉じ籠もってても退屈でしょう、学校にでも通ってなさい。って言われた」
ここは託児所か。
耳に慣れた声音を聞いた途端、膝から崩れ落ちそうになった。
…まさかの丸投げだ。
まあ、昨日の暴走を思えば、放逐したくなる気持ちも解らないではない。
「ど、どうした? やはり熱があるのか? そう言えば顔色が悪いのである」
それは徹夜による寝不足の為だ。
倒れてしまうとそのまま起き上がれない気がするので、何とか踏ん張る。
「いや、大丈夫。それより大体解ったから、とっとと机選べ」
頭がクラクラするのは果たして眠気の所為だけだろうか。
近くにあった机に手をつき、しっしっとハニ子に手を振る。
極めて不満そうな顔をしながら、机の森に入っていくハニ子の背中が、何故か休日のお父さんのそれとダブって見えた。
幸い、と言うかなんと言うか、一時間目は千葉ちゃんの数学だった。
授業終わりに課題を回収する手伝いを兼ねて、職員室まで帯同する。
「……もの凄く本当っぽいんだけど」
用具室でのやり取りを話し終えての、千葉ちゃんの第一声がこれだった。
「笑えないのが、多分本当の本当だって所なんすよね」
職員室の千葉ちゃんの机の上は相変わらず混乱を極めていた。
(これどこに置いたらいいんだろ?)
手荷物をどうしていいか解らないまま、机の周りをうろうろしていると、さっと横から掠め取られた。
そのまま、詰みあがった書類の上にポンと投げられる。
……何でも良いけど扱いが軽いぞ。
「私もそう思う」
答えながらも、次の授業の準備なのか、器用に机の上から必要な教材だけを取り出していく。
「学校の手続きとかってどうなってるんですか?」
あった、と呟いてでかいコンパスを取り出した千葉ちゃんは、それが、と頭を掻いた。
「上からの直々のお達しでね。あ、本業じゃない方のね」
て事は学校の?
「なんでも理事長の知人の娘さんを預かるって事になってるらしくて、それ以外は何も情報は無し。ま、あるわけ無いんだけど」
更に何冊か教材を掘り当てた所でチャイムが鳴った。
片付ければいいのにと思うものの、本人に不便そうな様子も無い以上何も言えない。
「だから、悪いけど、あの子の事君が面倒見てよね」
「そう俺が…………………なに?」
微妙なバランスで揺れている書類タワーに目がいってた為、反応が遅れた。
「だって、君意外に本当の意味で頼める子っていないんだもん」
何て嬉しくない言葉だろう。
一瞬脳裏に水城さんの顔が浮かんだが、千葉ちゃんは彼女の家の事を知らない為当てにはできない。
他に良い言い訳はないものかとまごまごしている内に、千葉ちゃんが立ち上がった。
「秋名君が闘うわけじゃないっていうのは聞いたけど、情報は多いに越した事ないでしょ?」
ポンと肩に手を置かれる。
何かとんでもないものをタッチされた気がして、慌てて手を伸ばすが、千葉ちゃんの姿はいつの間にか職員室の出口付近にあった。
「じゃ頼んだね。あ、それから、顔色があんまり良くないよ。辛かったら保健室でちゃんと休みなさい」
急に教師らしい事を言ったかと思うと音を立てて扉が閉まり、千葉ちゃんはとっとと出て行ってしまった。
「……なんか…余計やることが増えた気がする…」
しかも既に両立出来そうもない。
人の居なくなった職員室の中で、眠りながらどうやったら人の面倒をみれるか、割りと真剣に考えた。
「やっぱり私も何か手伝うよ」
申し訳無さそうにする水城さんに、俺は首を振った。
「いや、俺一人の方がいいと思う。一緒に居たら水城さんはともかく、ハニ子が何言うか解んないし。だいいち千葉ちゃんに見つかった時の言い訳が思いつかない」
言いながら、自分の立ち位置がメチャクチャ複雑になってることに気が付いた。
しかもどの陣営でも極めて末端にいる気が……止めよう。
考え始めたら泣いてしまいそうだ。
「でも…」
なおも何かを言おうとする水城さんを手で制して、俺はストローを銜えた。
昼休みの屋上は日差しを嫌ってか人の姿はまるで無かった。
空を見上げると、旅人のコートを脱がそうと太陽が必死で頑張っている。
級友達が外に出たくなくなる気持ちも解らないではなかったが、屋上の出入り口になっている建物の壁際には日陰が出来ていて、意外なほど涼しかった。
安全策として周りを金網で囲まれてはいるものの、開放感は教室内とはまるで比べ物にならない。
温くなった乳酸飲料をズルズル吸っていると、大人しくしていたはずの眠気が頭をもたげてきた。
横を見ると、水城さんの膝を枕に、ハニ子が寝息を立てている。
省エネ対策のスリープモードと本人は言っていたが、どう見てもただの熟睡だ。
これで鼻ちょうちんがあれば完璧。
「ふあ……ああぁ」
そんな妙に長閑な光景と、食後で体もあったまっていた所為か、抑えていた眠気が欠伸になって表れた。
一緒に背筋を伸ばすと、バキバキッと大きく鳴き声を上げる。
「……眠いの?」
ハニ子の頭を撫でていた水城さんが俺の様子に気付いて声をかけてきた。
「あ、うん。ほら課題で徹夜して。……最後でっかい落とし穴があったし」
暗い顔で答えると、水城さんは目を細めて口元に手を当てた。
三つ編みを微かに揺らしながら、確かに、と小さく口にする。
……そう言えば、水城さんも課題出されてたな…。
その割には血色も良いし、課題もきちんと提出していた。
色々あったとは言え、増援を繰り出してまで徹夜した俺とは大違いだ。
「だから結局昨日から起きっぱなしで」
なんだか急に情けなくなって、頭を掻いてしまう。
「……じゃあ……」
視線をハニ子に落としたまま、水城さんがボソリと呟いた。
「………………使う?」
「…な」
何を?
と俺が続ける前に、水城さんが、がばっと顔を上げた。
眼鏡が微妙にずれて、目が真ん丸になっている。…何故俺より驚いた表情をしているのかは解らない。
その顔が超スローカメラで撮影したように、ゆっくりと赤くなっていく。
こちらはこちらで、何を? なんて思ったものの、視線が先程から気持ち良さそうに寝息を立てているハニ子に釘付けになっている。
もっと言えば彼女が枕にしているもの。
……使う、って言うのはつまり…。
なんだか急に気温が二度くらい高くなった気がする。
「え、ええっと…」
こ、言葉が続かない。
じゃあ、失礼して、何て言えるわけないし、それ以前に勘違いだった場合、俺はヘイソウ送りでグンポウカイギだ。
い、いや、違う、多分何か違う。
熱を持った脳みそとまとまらない思考が、もう一度「何を?」と口にさせようとしたところで、
―――ガチャン…。
扉が開いた。
「あ、居た、秋名〜先生が…」
「ふん! と、あーちょっとスライス気味か」
「……ふぁ、ふぁ〜〜」
グッジョブだ。
座ったままの水城さんが控えめながらノッてきてくれる。
屋上で不自然なゴルフ場コントを繰り広げる俺たちの姿を見て、現れた人影、国東が「あ〜」と言って額を手で押さえた。
こいつにしては本当に珍しい真剣な声で「しまった」とかなんとか呟くのが聞こえた。
空手でフルスイングをした俺の視界の隅で、申し訳無さそうに扉の隙間から退散していく。
「何か用事があったみたいだけど、代わりに僕が聞いとくね〜」
扉が閉じる寸前、隙間から手を合わせる姿が見えた。
―――カチャン…。
「……」
「……」
………。
「はあああぁぁ〜〜〜」
扉が閉まった瞬間、緊張と驚きから固まっていた筋肉が一気にほぐれた。
コンニャクかトコロテンか、とにかく煮て固める系クニャクニャ群よろしく、体が地面とこんにちわする。
水城さんも同様のようで、脱力から肩を落とした姿が小柄な体をいつもより一回り程小さく見せていた。
「び、びっくりしたー」
灰色のコンクリートを見ながら呟くと、一緒に汗が零れ落ちた。
小さく歪んだ円の分だけ灰色が濃くなる。
「うん」
顔を上げると、こくんと水城さんが頷いた。
数秒前の名残が微かに頬を赤く染めていて、つられるみたいにして体温が上がるのを感じた。
照れ隠しから、俺は口を開く。
「眠気、飛んじゃったな」
ボンッと音を立てそうなくらいに赤面したのを見ると、どうやら失言だったらしい。
いつもの帰り道に、二つの長い影が伸びている。
一日を季節に例えるなら、さしずめ今は秋だった。
景色を赤く染め上げ、食欲が増し食事がおいしく感じる時間。
あちこちにオレンジの手を伸ばしている夕焼けを眺めながら、俺は溜息をついた。
「はああ〜〜」
結局解消される事のなかった眠気もさることながら、一日中どこかしら緊張していた所為で、体にもの凄い疲労感がある。
なし崩し的にお騒がせポンコツロボの学校での保護者になった俺は、今日一日をハニ子の行動に目を光らせて過ごした。
特に大きな問題は無かったものの、頻発する小トラブルの所為で俺のMPは一日の終わりを前にして既にエンプティゾーンに差し掛かっている。
そんな疲れる学校を出て、大通りを商店街の方向へと歩いていた。
架椙川に架かる橋を渡り、道が細くなり景色に住宅が目立ち始めると直ぐに、遠景に東町商店街のアーケードの丸い頭が見えてくる。
そこを抜けて、道を左に折れれば暖かい我が家が待っているのだ。
「なあ、おい」
……待っていると言うのに。
ついついとシャツの裾を引かれて、そちらに顔を向けた。
俺の肩より少し低いくらいの高さに青い頭がある。
自分をアンドロイドだと言い張る少女(手が取れるからって何だ)が、エメラルドグリーンの瞳を近くの公園に向けていた。
そこは、今はかなり寂れていて、人気もなく、鉄棒とブランコ意外公衆トイレしかないような場所だった。
「……どうした?」
終礼のあと、主に周囲の護衛としてハニ子と帰るように命じられた。
どうして学校の外まで、と食って掛かった俺に、笑顔を向けながら「帰るまでが遠足」と千葉ちゃんは一言で説明してくれた。
それならバナナくらい出せと、愚痴っていた所での、ついつい、だ。
当然声にもトゲが生えている。
しかし、そんなもの微塵も気にした様子の無いハニ子が、スッと手を上げ「あれ」っと公園内を指差した。
銀色の凶器を隠した食指が、鉄棒付近に居た学生服を着た集団に向けられていた。
全員男のようで、彼らの制服を見たところ、俺も通っていた近くの中学の生徒のようだ。
その様子がおかしい。
一人の男子を、数人――六人ほどか――の他の男子が半円を作って取り囲んでいる。
最近ローティーンの間で流行ってる新しい遊び、なんて穿った見方をしなければ、何か揉めているように見えた。
「なんか、揉めてんな……って、おい!」
「ぐえっ」
いきなり現場に走っていこうとしたハニ子の襟を掴んで止めた。
潰れた蛙みたいな声を出したハニ子が非難の眼差しを向けてくる……まあ、当然か。
「何する気だよ?」
「助太刀するに決まっているだろう」
決然とした眼つきと、迷いの感じられない声が返ってくる。
「加わってどうするんだよ! もし喧嘩とかだったにしても、止めるだけで良いの! あとは警察かなんかに言えば…」
「はああ〜〜〜」
…溜息を吐かれた。
「それでは、今は良くても問題の解決にはならんだろう。問題が噴出した時に突き詰めて事に当たらねば抜本的な解決にはならないのである」
「………………」
…ちょっと、驚いた。
果たして意味が解って言ってるんだろうか?
それ以前にその常識力を商店街で発揮しろ。
「…という訳で行くのである!」
「……え、ああ……じゃねえ! 待て!」
「ぐええっ」
再び蛙の断末魔を披露したハニ子が、涙目で俺に向かって臨戦態勢を取る。
……右手を外すな右手を。
「何かわたくしに恨みでもあるのか貴様…」
それは有るけど…。
「そうじゃないって。お前手加減なんか出来るのか?」
こいつを初めて見たときの光景がリプレイされる。
満足そうに笑うハニ子の傍らで、ボコボコにノサレタ男達が山積みにされていた。
後から人づてに聞いたところ、彼らはナンパ君たちだったらしい。
……流石に後輩達をあんな目には合わせられない。
「……う…」
自覚はあるのかハニ子は口を噤んだ。
いきなり凶器を使おうとするような身では無理もない。
「お前が行ったらややこしくなるだけだろ。……話しに行くだけだったら俺が行くから、とりあえずここで待ってろ」
ハニ子は頷く代わりに、静かに腕をはめた。
そのあと、思い出したように「それなら」と言って鞄から何かを取り出した。
手渡されたそれを見て、俺は言葉を失ってしまった。
「ま、待てえぇーーーい!」
やけにくぐもった声が、公園内に響き渡る。
この時、事態はいくらか進行していた。
中心に居た男の子が、取り囲んだ内の一人に胸倉を掴まれている。
待ったのタイミングとしてはばっちりだ。
「だ、誰だ!」
一瞬体をびくりとさせた中学生達だったが、直ぐに気を取り直して誰何してきた。
ただ、相手が警察官だった時の事を考慮してか、いつでも逃げられるような姿勢は取っていた。
「何処だ! 出て来い!」
そう声を張り上げたのは、胸倉を掴んでいた、中学生たちの中でも特に目立つ髪色をしたヤツだった。
なんて言うか、ちょっとでも森の深い所にいたら、鞭を持った考古学者に狙われそうな感じの黄金色。
「こ、ここだ!」
そんな最後の秘宝に、俺はまだ吹っ切れていない叫び声を返した。
轟いた声の後を追って中学生達の目線が上がっていく。
やがて、公衆トイレの屋根の上に視線が届くと、見ていた全員が言葉を失った。
胸倉を掴まれてる子まで目を丸くしていたのが悲しい。
「……お前正気か?」
トイレの屋根の上で、腰に手をあて仁王立ちになっている俺に、いち早く自分を取り戻した最後の秘宝が失礼な事を聞いてくる。
「正気に決まってるだろ!」
だからこんなに恥ずかしいんだよっ!
半ば自棄気味に叫びながら、羞恥心が掻かせた汗を握り締めて中学生達を指差す。
「イジメカッコ悪い! イジメやめる!」
何故かネイティブ訛りの俺の言葉に、ギャーギャーなんか言い出した中学生達を無視して、これでいいのか? という意味を込めて振り返った。
トイレの裏の茂みの中に隠れていたハニ子が、満足そうに頷く。
ハニ子の鞄から取り出されたのは、何の変哲もない安っぽいお面だった。
縁日で売っている様なそれは、何の皮肉かヒーローをモチーフにしていた。
……ちなみに色は紅一点のピンク色。
それを手渡されて絶句してしまった俺にされた説明が。
「いざという時、特に顔を隠したい時に使うようにと、ょ…プルーム様に渡されたものである。仮にもわたくしの敵だった男へのせめてもの武士の情けだ」
どんないざ? 何の情けだって?
困惑しきりで固まっていた俺の背中を強引に押して、しかも登場くらい凝った方が良いとアドバイスまでよこしたハニ子は、俺がトイレの屋根に上るのを態々待ってから茂みに隠れた。
そこでしばらく途方に暮れていた俺だったが、最後の秘宝が何か言いながら男の子に掴みかかった為、已む無く最初の叫びに繋がったというわけだ。
「とーお!」
掛け声だけは格好良く、実際はズルリって感じで屋根の上から飛び降りる。
着地した際の足の衝撃を思えば、こちらを選択して正解だった。
着地の時の屈んだ姿勢のまま、足の状態をチェックする。
……うん、どこも問題ない。
「だ、誰だてめえ」
立ち上がった俺に、最後の秘宝の隣に居た、船の前、みたいな髪型のヤツが、おっかなびっくり聞いてくる。
「…………ど、どうしても言わなきゃだめか?」
お面に開いた除き穴から、潤んだ目を彼に向ける。
「こ、こっち見んな!」
…ビビられた。
オールドヤンキー風のファッションに身を包んだ後輩たちにビビられる我が身の哀しさを思いながらも、その態度に密かに覚悟が決まった。
「なら後悔するなよお前ら……俺の名前は……正義のヒーロー紅戦士サンレッド!!」
吹っ切れた叫び声に鋭角なポージング。
それを見て茂みの中から拍手が起こる。
これで赤い爆煙でも起これば完璧なのだが、背中にあるモノを思うと結果は只の大惨事だ。
「て、てめえ、どピンクじゃねえか!」
お面を差して最後の秘宝がいいトコに気づく。
けど、そういうのは公園の外で既に散々ハニ子とやった。
「うるさい! そこはもう良い! そんな事より大人数で一人を取り囲むというのは感心しないぞ!」
線の切れた精神と睡魔に侵されて良い具合に発酵した脳が、スラスラと口から言葉を吐き出す。
「何か事情があるなら話してみろよ。いきなり胸倉掴むってのは………って、おわあっ」
「ウルセエ! この変態野郎!」
掴んでいた男の子を突き飛ばして、最後の秘宝が殴りかかってきた。
「ま、待てって、まずは話し合いを………っあぶねっ!」
只のヤンキーのものとは思えない蹴りをしゃがんでかわすと、最後の秘宝が舌打ちをした。
「チッ、お前只の変態じゃねえな…」
「最初っから変態じゃない!」
微妙にかみ合ってない会話を交わしながらも、最後の秘宝の手は止まない。
…もとい、足だ。
考えてる間に、基本に忠実なローキックが放たれる。片足に体重をかけてそれを受け止めると、続けざまに頭を狙ってハイキックが飛んできた。教科書にお手本として載っていそうな連続攻撃を、両手で防いで何とか受けきる。
不本意ながら、毎日毎日祖母さんや良く解らないモノの相手をしている身としては、流石にまだ子供の体をしている中学生に負ける気はしなかった。
が、それだけに反撃をするのが難しい。
……一体どの程度、加減をすればいいのか。
(今まで全力でいける相手ばっかりだったからなあ)
そんな風に余裕ぶっていると、思い出したように残りの面子が駆け寄って攻撃に加わってきた。
「待てっ、い、いっぺんに来るな……いたっ」
背後から蹴られて、前につんのめる。
解っていた事だけどお面を被っていると視界が極端に狭い。
呼吸もしづらいし、こめかみの辺りから後ろは全くの死角といって良かった。
そんなお面越しに、近い距離で最後の秘宝と目が合った。
意外と力強くしっかりした目をしている。
……しかし、一対一で闘う気も他の奴等を止めるつもりも無いらしい。
唐突に目の前に繰り出された正拳突きを受け止め、相手の体を軸にして外側から背後に回りこむ。
がら空きの背中を蹴ってやると、手をワタワタさせながら夕焼けに溶けるような頭がこけそうになっていた。
「はあ、はあ……し、しんどい」
目の前に対峙している中学生達を見ていると嫌になってくる。
どいつもこいつもピンピンしていて、体力も有り余っている。
対してこちらは、徹夜明けの寝不足に今日一日の精神的疲労が重なって、心身ともにレッドゾーンに突入していた。
「は、はなして! はなして下さい!」
いい加減とっとと片付けるかと考え始めた時、背後で甲高い声がした。
「あ」と反応するように、最後の秘宝が俺の後ろを指差す。
「その手に乗るか!」
叫びながら後ろを振り返った。
……もう色々と限界らしい。
狭い視界の中に、いつの間にか茂みから出てきていたハニ子が立っていた。
「…こいつが逃げようとしていたのである」
俺と視線を合わすと、言い訳をするようにそう呟く。
先程までオールドヤンキーズに胸倉を掴まれていた少年が、今度はハニ子に襟首を掴まれていた。
抜け出そうと必死でもがいているが、いかにも華奢なあの体では体重八十キロを跳ね返すのは無理だろう。
しばらく頑張って動いていたが、諦めたのかやがてグッタリと静かになった。
…力尽きたのかもしれない。
突然現れた美少女(見た目だけは)に、呆けている後輩たちは放っておいて、俺はハニ子のほうに駆け寄って行った。
「逃げようと、って、うわっ」
近づいていった俺に放り投げるように少年を寄越す。
条件反射的に腕を掴んでしまう。
「捕まえておけ。逃亡者である」
…今度はお医者のハリソンさんだ。
顔を見ようとすると、力のない瞳が逃げるように逸らされた。
「で、お前はどうするんだよ?」
「五分で片付けるのである」
視線を上げて訊ねると、ハニ子が嬉しそうにそう言った。
不穏な言葉に声を上げかけるが、俺の体力も限界だ。
「手加減な手加減!」
そう妥協しておいて、ぐったりしてる少年と事の成り行きを見守る事にする。
「解っている」
……果たして…。
五分も必要なかった。
目の前に立った美少女に最初はヘラヘラしていた中学生たちだったが、ハニ子が一暴れすると途端に悲鳴を上げて逃げ出した。
唯一最後まで粘っていた金髪が、今は地面で伸びている。
「お前手加減しろって言ったろ!」
お面を外して怒鳴りつける俺の声にも、運動後の満足そうなハニ子の返事は軽い。
「したのである」
それでこれか。
仰向けに気絶している最後の秘宝の姿を見る。
着ている物は砂埃でうす汚れ、あちこちがほつれたり破れたりしていた。
顔を覗き込むと、微妙に色んな所が腫れていて、鼻からは血が流れて既に乾いた色をしている。
「あ、あの、死んでないですよね?」
「え?」
俺の隣で四つん這いになって一緒に顔を覗き込んでいた少年が、不安そうに聞いてきた。
「ああ、うん。骨も折れてないみたいだし、気ぃ失ってるだけ」
「そうですか」
そう答えると少年はあからさまにホッとしたような顔で胸を撫で下ろした。
胸倉掴まれていた相手に対する態度にしてはオカシイ気がして、脊髄を嫌な予感が駆け抜ける。
「えっと、何か揉めてたんだよね?」
窺うようにそう訊ねる。
不謹慎にも、そうであってくれと心のどこかで願っている自分が嫌だ。
「あ、多分、はい。別に虐められてた訳では無いですけど」
少年ははにかんだ様な笑顔で頬を掻いた。
まだまだ若さを羨む歳でもないが、純真そうな笑顔がとても眩しい。
…その輝きが、お面を外した俺には強すぎる。
「だったら何をやっていたんだ?」
制服に付いた埃を払っていたハニ子が、そう言いながら少年の隣に腰をおろした。
はしたないにも程が有るヤンキー座りで、思春期真っ只中の男二人は思わず視線を逸らしてしまう。
「え、えっと、出来ればその前に座り方を変えて欲しいんですけど」
「むー」
不満そうにしながらも、座り方を……胡坐に変えた。
地べたに胡坐もどうかと思うが、一応危険地帯は隠れている。
「そ、それで?」
「あ、はい」
気を取り直して聞くと、少年は一瞬だけ迷ったような視線を金髪の方に向けてから、腹を決めたように顔を上げた。
橘海斗と名乗った少年は、何でか苦悶の表情を浮かべている最後の秘宝を気にしながらも、事のあらましを語りだした。
「大宮…こいつ、大宮浩次って言うんですけど。大宮とは中学に入ってから知り合ったんです」
シャツにインクを落としたみたいな顔で、それでもハキハキとしっかりした喋り方で彼の口は言葉をつむぐ。
それなのに、聞いてる俺は気も漫ろ、言葉も殆ど耳に入ってこない。
涼しくもない風に煽られた少年の顔に、浮かんだ疑問をそのまま投げかける。
「ちょ、ちょっと待って。名前なんだって?」
「え? 海斗…」
「上の。苗字は?」
「はあ…橘ですけど」
そう言って海斗は首を傾げた。
「兄弟っている?」
「上に、姉が一人…あ」
何かに気付いたように、ハニ子に視線を向ける。
「そう言えば、同じ高校の制服ですね」
振り返った海斗に俺は頷いてみせた。
「君のお姉さんって、美晴って名前じゃない?」
「はい!」
……やっぱり。
元気いっぱいで答えて、海斗が大きく頷いた。
橘って苗字自体そうそう聞くモノじゃないし、まさかとは思ったけど…。
「知ってるんですね」
「…お世話になってる先輩だよ」
こんな所で弟さんに出会おうとは……性格はまるで違うが、言われて見れば目元とか似てるような気がするから不思議だ。
……まあ、取り敢えず裸を見られた事は黙っておこう。
へーっと感心したような声を出していた海斗に、ハニ子が横槍を入れてくる。
「そんな事どうでも良いのである」
さては放ったらかしで寂しくなったか。
裾を引っ張られて、「そうでした」と彼は頬を掻いた。
「大宮は入学した当初からこんな感じだったんですけど、同じクラスになって席も隣同士でしたから、何度か話す機会があって」
喋ってみると、この金髪の少年は案外人当たりもよく、海斗とも不思議と馬が合ったらしい。
「今年のクラス替えでクラスは別々になっちゃたんですけど」
それでも二人は仲良くやっていた。
……それが。
「一週間くらい前に、大宮のお祖父さんが亡くなって、それで実家に帰ってたんです」
大宮浩次の実家は県外に有るらしい。
ゴールデンウィーク前の事で、彼は忌引きを取って学校を休んだ。
「次の日帰ってきて学校に来たんですけど、何だか態度が妙によそよそしくて」
「どんな風に?」
「えっと、話すとき目を合わせなかったりとか、何だか避けられてるみたいで」
それでも、お祖父さんが亡くなったばかりだったし、落ち込んでいるのかもと考えて、海斗は気にしなかった。
「根が真面目なヤツですから、遊んで気を紛らわすみたいな事も出来なくて。それでゴールデンウィーク中も放って置いたんですけど」
連休が明けて初日。…つまり今日だ。
気になって様子を見に行くと、彼の態度は連休前と同じで、それどころか頑なにさえなっていた。
これはオカシイと、公園で仲間と屯していた大宮の所へ行って、事情を聞こうとした。
「……そこに俺たちがしゃしゃり出て来たわけか…」
「あ、いえ、そういう風に見えても仕方なかったですから」
胸倉を掴まれたのは、しつこく自分が理由を聞いた所為だ、と海斗は説明した。
「全部勘違いかよ…」
大きく溜息をついて、思わずハニ子のほうを見てしまう。
今回は早とちりした俺も悪いとは解っていても、視線が勝手に向いてしまうのだから仕方がない。
「ふん、所詮は逃亡者の言う事である」
居心地悪そうにツンとそっぽを向いたハニ子に、海斗が言いづらそうに訂正を入れる。
「あ、あれは逃げようとしたんじゃなくて……そ、その……だ、誰か人を……」
「うん。解ってる。マジでごめん」
尻すぼみになっていく言葉後を引き取って、俺は頭を下げた。
友達が急に現れた仮面……いや、お面の男と争い出したら、そりゃ心配で警察にも駆け出すだろう。
目線を逸らすのも無理のないことだ。
軽挙妄動した自分にかなり落ち込みかけたものの、申し訳なさからもう一度頭を下げようとした俺に、海斗は顔の前で手を振った。
「それはもういいんです。それより…あ、えっと」
「ああ、悪い。…こいつが如月ハニ子で、俺は秋名大地」
「えっ……!」
ハニ子を見て驚きの声を、と思いきや、見開いた目を向けられたのは俺だった。
「……先輩が…あの?」
…どの?
一体何をどんな風に聞いてるのか、海斗の表情に微妙な色が浮ぶ。
好奇心と同情が徐々に興奮に変わって頬を染めていた。
「ま、まあ、いいや、で?」
「え、あ、はい」
海斗は何か聞きたそうな顔をしていたが、先を促がすと気になることを口にした。
「秋名さんは、昔……多分僕らのお祖父ちゃん達くらいの代の頃に、商店街で何かあったの知ってますか?」
「商店街で?」
それは、うちの祖母さん達の事だろうか?
自然に、殆ど伝統芸能並みに続いている水城さんの祖父さん達と戦ってる事か、訊ねていた。
もちろん固有名詞は省いて。
海斗は多分違うと首を振った。
「ここで問い詰めた時に、大宮が言ったんです。何だかお祖父さんが言ってた事らしいんですけど、商店街の連中とは仲良くするなって、特に橘とは口も聞くなって」
「はあ〜ぁ?」
思わず声が裏返ってしまう。
どういう意味か全く解らない。
大体何でそんな事を他人に決められなきゃいけないんだ?
嫌う相手くらい自分で決めればいいものを。
寝ている金髪に目を下ろすと、ピクリと瞼が動いた気がした。
「だから、商店街でのドタバタとは関係ないと思います」
うちはあんまり関係ないですから、と小さく呟く。
そんな彼の父姉が祖母さんの強力な支持者だと知ったらどんな顔をするか。……知らないみたいだから言わないけど。
それにしても、友達の事で頭が一杯になっているとは言え、ドタバタとは随分本音が出たもんだ。
ドタバタやらされてる当の本人としては更に落ち込みそうになるが、隣に目をやってもハニ子はキョトンとしていたので、俺も気にしないことにする。
「悪いけど心当たり無いな」
「そうですか」
そう言うと海斗の表情に翳がさした。
冬の日に太陽にかかる雲みたいに、不安な寒さを瞳に湛える。
「…えっと、じゃあ、悪いけど俺たちもう帰るな」
少しばかり不安は残るものの、俺はそう言って立ち上がった。
「あれ? いいのか?」
珍しく気を使ったようにハニ子が言うが、俺は彼女に頷いた。
「うん」
…だって邪魔になるし。
「そうか」
ハニ子も立ち上がって、スカートについた砂を払う。
「仲直りできる事を祈ってるのである」
綺麗にし終わると海斗の方を向いて、満面の笑みでそう言った。
「ありがとうございます」
返す笑顔も、ピカピカの向日葵みたいな笑顔だ。
無垢な人間しか出来ない笑顔をかわしあう二人に眩しい思いをしながらも、俺は二人に声をかける。
…海斗と、後ろで寝たふりをしているその友人に。
「ホントに悪かったな。何か引っ掻き回すだけ引っ掻き回して」
「いえ、おかげでちゃんと話しができますし。……嫌われるんならちゃんと嫌われたいですから」
変な言い回しだったが言いたい事は分かる。
後ろの狸の瞼がまたピクリと動いた。
「そうだな」
じゃあ、あとは若い者同士で、なんて間違った座の外し方をしつつ、俺たちは出口に向って歩き出した。
「あ、あの!」
躊躇いがちにかけられた声に、足を止めて振り返った。
「なんだ?」
海斗は黙ったまま真剣な顔をして、曲げた指を口に当てて何事か考え込んでいた。
迷ったように首を振りつつしていたが、やがて決意したように顔を上げる。
「その……秋名さんが、熊と戦った事があるって言うのは本当ですか?」
ずっと何が気になってたんだお前は…。
まったく、姉ちゃんに何を吹き込まれたか知らないが、そんな事あ……本当です。
トラウマを刺激しないように、俺は小さく頷いた。
公園を出てしばらく歩いていると、ハニ子の足が急に止まった。
この辺りになると流石に人通りも増えていて、通り過ぎる中には遠慮がちにこちらに視線をやる人もいた。
「ほら、ハニ子、今こそあのお面の出番だって…あ、いや、待て。あれって余計に視線を集めるんじゃ…!」
お面で顔を隠す作戦の構造的欠陥に気付いた時、既に隣にハニ子の姿は無かった。
正面から歩いてきた親子が、ママあれー、ほら見ちゃいけません的なやり取りをしながら通り過ぎていく。
顔を真っ赤にしている自分を思い浮かべつつ、それを後ろに振り向ける。
直ぐ近くの狭い路地の前に立ったハニ子が、呆れたような表情で俺を見ていた。
「な、なんでそんな所で止まってんだよ!」
逆切れ気味に駆け寄ると、心底嫌そうな顔でしっしっと手を振られる。
「近寄るな。わたくしまでスベッたみたいに思われるのである」
「ネタじゃねえよ」
疑わしそうな視線を送ってくるハニ子を無視して、路地に目を向けた。
人一人がやっと通れるくらいの狭い道幅の、常用者は猫やせいぜい子供だろうという隙間だ。
薄暗く、視界一杯の赤と相まって、妙な雰囲気を醸し出していた。
「何か、雰囲気あんな。ちょっと、怖いって言うか」
「貴様のスベリっぷりの方が怖い」
…それはもう良いって。
「こんなトコで止まってどうしたんだよ」
「どうって帰るのである」
相変わらず話の繋がりが解りにくい。
「ここから?」
コクンと首肯する。
「流石に人目が多くてあそこは歩けないのである」
家々の屋根の隙間から、少しだけ見えるアーケードの屋根を指差した。
「けどここから家まで帰れるのか?」
「近道がある」
そう言って婀娜っぽく笑う。
雰囲気に当てられてか、人ならざるモノの美しさをその時改めて感じた。
「秋名大地。今日一日世話になったのである。……ありがとうございました」
ハニ子がバカ丁寧なお辞儀をしてみせた。
「重ねて明日からもよろしく頼むのである」
顔を上げたハニ子の表情に、夕闇を吹き飛ばすような笑顔があった。
思わず「ああ」と言いかけて慌てて口元を押さえる。
…まあ、押さえた所でどうなるものでもないか。
「それじゃあ、イッチーによろしく言っといてくれ」
そう言って、ハニ子は路地に飛び込んでいった。
しばらく呆然とした後、何気なく見上げた空に、置いてけぼりを食ったような雲がプカリと一つ浮かんでいた。
体の中で静かにしていた眠気が、家に帰った途端突然発光した。
白い視界とふらつく足取りで、とっくに起き出していた樹の言葉にも適当な返事を返しつつ、部屋に入って直ちに意識を手放した。
果たしてきちんとベッドに着地出来たのかどうかも解らないまま、心地よい脱力感が体を包んだ。
「なんですか、だらしない顔をして」
…だからこれは夢だ。
部屋から出てきたばかりの寝起きの俺に、祖母さんの声がかかった。
夢だと解っているのに、祖母さんからそんな事を言われると、条件反射的に背筋が伸びてしまう。
現実の世界で痙攣した体が、なにかを叩いた感触があった。
どさっとモノが落ちる音がする。
……何となく、ベッドへの着地は失敗した気がする。
不思議そうに手を見つめる夢の中の俺に、祖母さんから声がかかる。
「どうかしたんですか?」
「…いえ、何だか急に手が痛くなって」
しかも、何でか微妙にリンクしてるし。
夢の中での光景には見覚えがあった。
俯瞰で俺自身も捉えている光景は夢ならではだが、祖母さんの後ろに家人のものではない人影があるのは、一昨年の光景を基にしている為だろう。
祖母さんの後ろで控えめに頭を下げた麗人が、一瞬で俺の視点を中学三年生の主観にする。
「こんにちわ」
目の前で頭を下げられて、俺は戸惑った表情を見せた。
「こ、こんにちわ」
目顔で誰か訊ねると、祖母さんが喜色を表した。
「私の昔からのお友達で、大畠晴子さんです」
「大畠晴子です」
ニコリと笑った顔が少女めいていて、瞬間ドキリとしてしまう。
……いやいや。
流石に祖母さんと同年代の人にときめいてる場合じゃないから、これは単純に意外な表情を見た反応だろう。
…いくらなんでも年上趣味過ぎる。
ただ、綺麗な人というのは間違いなかった。
背筋が伸び佇まいは凛としていて、いかにも清潔そうな風情が年をあまり感じさせない。
小さな顔に濁りの無い大きな瞳、丁寧に結い上げられた髪は白というより銀色で、降り注ぐ陽光を煌めく様に反射していた。
ウチの祖母さんも大概綺麗な人だとは思うが、この人には落ち着いた静かな美しさがあった。
ふと、当時の意識から出て思う。
(……なんか……ハニ子に似てるような……)
……いや、どこが!?
自分の直感に直ぐに自分で反問してしまう。
まあ、どこが、と改まって聞かれると答えることは多分出来ないのだろうが、チラリと覗く、言ってしまえば気のせいの様な段階で、何かが重なって見えたのだ。
「ぇ、いってえぇっ!」
「ご・あ・い・さ・つ・は?」
太ももに激痛を感じて俺は飛び上がった。
アホのように呆けていた俺の太ももを、笑顔のまんま祖母さんが力いっぱい抓っていた。
「秋名大地です!」
それこそ夢から醒めるような思いで名前を叫んで、直角に腰を折る。
―――くすくすくす…。
起き上がり小法師のように姿勢を戻すと、晴子さんが口に手をあて控えめに笑っていた。
「…ごめんなさい」
細めたままの目をこちらに向け、とんでもない事を口にする。
「仲がよろしいのね」
「「気のせいでしょう?」」
異口同音で思わず顔を見合わせた俺と祖母さんに、余計に肩を震わせた。
それを見て赤面した祖母さんが、理不尽にも俺の頬を抓った。
「…ふぉれのせいれふか?」
「当たり前です」
痛い思いをしながらも、何だか妙に子供っぽい祖母さんを見ていると、ああ本当に昔からの友達なんだと実感できた。
出来れば痛みを伴わない実感の方がよかったけど。
「本当にごめんなさい。さあ、いつまでもこんな所にいないで」
ようやく頬っぺたを解放してくれた祖母さんは、まだ笑いの火種がくすぶっている晴子さんを促して、この場を後にしようとした。
――どうぞごゆっくり。
横を通る晴子さんに、そう言おうとした時だった。
「ど……ふぁ…」
ヤバイと思ったときにはもう遅い。
散々痛い目に合わされて目は冴えていた筈なのに、ホッとした所為か欠伸が口から出て行った。
「ふぁあぁ……ああぁぁぁ」
後半は嘆きになっている。
溜息をつくと幸せが逃げるというが、この場合、欠伸をすると日本刀がやってくる。
ある程度覚悟を決めつつ顔を上げると、祖母さんがまた赤い顔をしながら、俺の方を睨んでいた。
無言のまま近づいてきて、ぎゅううぅぅぅっと頬を抓られる。寸分たがわず同じ場所だ。
「…あの、もの凄く痛いんですけど」
それでも無言の祖母さんの目元に、微かに涙が浮かんでいるのが見えた。
……ああ、欠伸がうつったんですね…。
完全に目が覚めた俺の耳にくすくすとまた、笑い声が聞こえてきた。
泣きそうな目で見ると、晴子さんがバツが悪そうに首をすくめる。
「ご、ごめんなさい。でも、良い事じゃない…?」
この状況がですか!?
そう目で訴えると、晴子さんは悪戯っぽい笑顔を浮かべてこう言った。
「だって、欠伸って敵にはうつらないって言うでしょう」
「それ、間違ってるんじゃ……ああ…夢か」
目を覚ますと、予想通り俺は床に転がって寝ていた。
上半身を起こす。誰かがかけてくれたのか、シーツがしゅるっと床に落ちた。
ぼーっと部屋を眺めながら頭を掻いた。
昨日から着っぱなしの制服が汗に絡んで気持ち悪い。
シャワーでも浴びるかと、立ち上がって、時計を探した。
「……何故そんなところに転がっているの?」
いつもはベッドの枕元に置かれているはずの目覚まし時計が、同衾するように俺の隣に転がっていた。……しかも。
「……何で、電池が外に出ているの?」
小さな単三電池を吐き出して、時計は冷たくなっていた。
拾い上げて見る限り、死亡時刻は二時二十五分頃。
落ちた衝撃で針が動いたりしていなければ、これでほぼ間違いないだろう。
「……どうして、起こしてくれなかったの?」
(……それはね……電池が抜けていたからサーー!)
何てやってる場合じゃない。
「くっそ今何時だ!?」
一気に醒めた目で、慌てて腕時計に目をやると。
――八時十二分。
「とっ、えっと、ギリギリ?」
何にしてもゆっくりしている暇はない。
この際、制服を着たまま寝たのが幸いした。
下着だけ替えて鞄を引っつかんで部屋を飛び出すと、朝稽古終わりの樹が道着姿で庭に姿を現した。
「よ、おはよう」
「全然おはようじゃねーよ」
「そう言えばそうだな。今から朝ご飯らしいけど、どうする?」
「食ってる暇無い」
「そうか。じゃあ、気をつけてなー」
暢気にそう言われては、八つ当たりの一つもしたくなってくる。
「そういやお前の好きな食い物って聞いてなかったな」
――ぴく。
「……お前何が好きなんだ?」
かたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかた……。
「…な、なにって、こう…こうっ! いや、ち、違う……こうか! ……違う……」
何でか空中に四角を書き出した樹を見ても全然気が晴れない。
それどころか、二分も時間を無駄にした。
「おはようございます大地さん」
「うわあああああ!」
後ろから声をかけられて、俺は飛び上がった。
突然現れた祖母さんが不思議そうに樹を見ていた。
「お、おはようございます御祖母様」
「はい。それで樹さんはどうしたんですか?」
「ちょ、ちょっと、自分探しの旅に」
そう答えると、もの凄く怪訝そうな顔を俺に向ける。
「あ、あの、ちょっと、遅刻しそうで」
また何か言われるかと思ったが、祖母さんは「そうですか」と言ったあと、直ぐに樹の方に寄って行った。
「ああ、大地さん…」
「な、何ですか?」
駆け出そうとしたところを呼び止められて、コケそうになってしまう。
庭に下りた祖母さんは、考え込むような顔をして見せて、しかし小さく首を振った。
「……いえ、いってらっしゃい」
………。
何となく言いたい事は解った気がしたから、俺はただ頷いた。
「いってきます」
顎をつたう汗を拭って、俺は立ち止まった。
「こ、ここまで、来、りゃあ、も、う、大丈夫だろ」
学校はもう目の前まで迫っている。
時計を見ても、始業までまだ後十分くらいあった。
五分弱でここまできたのは、これが初めてだ。
……人間って凄い。
なんとか息も整い、再び歩き始める。
空を見上げると、暦を勘違いした太陽が、相変わらずの過剰なテンションで人類に汗をかかせていた。
自業自得の状況とは言え、文句の一つも言いたくなってくる。
「…もうちょっと冷えてください」
「誰と話してるんだ?」
「ひぃぅわあああ!」
路地から急に現れたハニ子が……って、何でどいつもこいつも突然現れるんだ!?
頼むから、もうちょっとゆっくり現れて欲しい。
朝から暴れまくる心臓に手を当てていると、ハニ子に続いて路地からは水城さんも姿を現した。
「あ、あれ? 秋名君?」
「……どっから出て来てんの?」
おはようも無いままそう聞くと、水城さんが「あはは」と笑う。
誤魔化すように頬を掻いて、別にずれてもいない眼鏡を押し上げた。
「い、いやー、きょ、今日も暑いねえ」
な、何てお茶を濁すのが下手な子なんだ。
なんだか可哀相になって、白々しくそれには気付かないフリをしてしまう。
「……そうだね」
「なあ、誰と話してたんだ?」
しつこいっつーの。
なんだか、ここまでだけでもう一日分の体力を使った気がして、グッタリと屈みこんでしまった。
「あの顔色がよくないけど」
その一因であろう水城さんが心配そうに覗き込んでくる。
「だ、大丈夫」
そう答えるが、覗き込む会にハニ子も入会してきた。
「顔色より、寝癖が酷いのである」
そう言って、鞄から取り出した小さな手鏡を渡してくれる。
「うわーホントだボッサボサ……じゃねえよ! お前なあ! 一応敵対してるんだから…「ふあああぁぁ」……聞いてくれる?」
その前にどういう原理で欠伸なんかしてるんだお前は。
はしたなく大口を開け、目元に涙のオプションまで付けたハニ子が、なぜか晴子さんの顔とダブって見えた。
(だから似てないんだってば)
首を傾げていると、脳に行った分だけ体が酸素を求めてきた。
「くふ、ふああぁぁぁ」
釣られるみたいにして欠伸を浮かべた俺に、水城さんが笑いながら言った。
「あは、ハニちゃんの欠伸がうつったね」
「ふが」
「えー」
ハニ子が嫌そうに顔をしかめる。
……こっちの台詞だこのやろう。
――だって、欠伸って……。
耳の奥で晴子さんの言葉が蘇えってきた。
――敵にはうつらないって言うでしょう。
……絶対間違ってますよそれ。
「…あれ!? つうか時間もうヤベえ!」
「え?」
「貴様がとろとろしてるからだろう」
ハニ子がそう言ったのをキッカケに、二人は駆け出した。
うつるはずの無い欠伸が、陽射しに当てられ渇いた空に溶けていく。
蒸発していった疑問を目で追うと、世の中の全部の答えみたいな顔をして太陽が輝いていた。
「……どうでもいいけど、やっぱ似てない」
頭では、どうせ今日も一日暑いんだろうなあ、とか思いながら、俺は二人の後を追って走り出した。
お疲れ様でした。
いかがだったでしょうか?
番外編という事で変身はあんなで、バトルもあんなで、話もこんなでしたが、楽しんで欲しいなあと思いながら書かせていただきました。
えーと、次で一応最後です。
番外編でチラチラッと出て来たちょっと意味の分からない部分を解消して終わりたいと思ってるんですが、どうにもまだ固まっておりません。
今回ほど間は空かないと思いますが、気長に待っていてくださると嬉しいです。
本当にお付き合いどうもでした。
それじゃあ失礼します。