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番外編1  ”約束”

 ―――これは、東町商店街にアーケードが出来る前の話。



 月が夜空の表情を変えるように、太陽は世界の表情を変える。

 朝には東の空を紫に染める朝日陰あさひかげ

中天に昇れば恵みと災厄をもたらすお天道様。

そして今、赤く黒く町を染め上げながら、夕陽が架椙(かすぎ山に連なる小山の向こうへと落ちていこうとしている。

 腕に女の子をぶら下げて、善一郎ぜんいちろうはそんな光景に見入っていた。

(あー沈んでいく)

 今日が終わるというどうしようもない寂寥感に、歩いていた足を止めた。

突然立ち止まった彼に対して、腕を絡ませている女の子が不満そうな声を上げた。

「どうしたの?」

 溶けたミルクキャンディのような声だ。

殊更に制服に包まれた体を押し付けては、善一郎の意識を自分に向かせようとする。

「あ、いや……好きにできるのも今日までだなって」

 頭の中とは違う事を答えて、笑って見せる。

 覗きこむように彼女が視線を合わせてきた。

「おじさん達どこに行ってるんだっけ?」

「横浜」

 大切な商談がある。

と、聞いている。

 親の仕事について、善一郎は何も知らなかった。

知りたいとも思っていない。

だから淡白にそう答えたのだが、彼女には伝わらなかったのか、それとも、伝わらなかったフリをしているのか。

とにかく続けて訊ねてきた。

「仕事ってどんなことしてるの?」

「さあ?」

「そうなの? でも、いいな、夫婦揃って横浜かぁ。……そだ、今度中華食べに行こうよ」

「……機会があればね」

 それだけ言って、善一郎は再び歩き出す。

「えー」

 と、ぼやいて見せたものの、彼女は善一郎の肩に頭を預けて素直に歩き出した。

景色は人通りの少ない裏道から、人目の多い商店街に変わっていた。

周囲には善一郎達と同じ学生の姿もあったが、彼女に気にした様子は無い。

 しな垂れる彼女の髪から、シャンプーの良い匂いが香ってきた。

「ねえ」

 それを見越したような声で、彼女が口を開く。

「今日泊まってっていいでしょ」

「ダメ」

「どうして?」

 立ち止まった彼女に合わせて、善一郎も足を止める。

「今日の夜中に帰ってくるんだって、だから無理」

「そっか」

 特に頓着することなくそう言って彼女は体を離した。

夕陽をバックに細い体のシルエットが映える。

「じゃあ……」

 善一郎のほうを振り返って、彼女が何か言いかけた時。

「おかえりー!」

「がほっ」

 突然背中に受けた衝撃で、善一郎は顔から地面に倒れこんでしまった。

転んだ際口の中に大量に砂が入ってしまい、何だかジャリジャリする。

うつ伏せのまま動かない彼の背中には、クッキリと小さな靴跡がついていた。

「このくらいで倒れんなよ。相変わらずヒョロいな善一郎は」

 呆れたような声でそう言って、襲撃者は小さな体で胸を張る。

 善一郎を蹴倒したのは、小学生くらいの子供だった。

「む、無茶苦茶言うな! どうせい言うんじゃ!」

 がばっと勢い良く立ち上がると、善一郎は砂を吐きながら叫んだ。

 その姿が面白かったのか、ケタケタと笑い声が聞こえて来る。

「あはははは! す、砂吐いた! お前は砂漠製のマーライオンか!」

 耐えられないと言うように、その場を転げまわる。

善一郎も言い返したかったが、口はペッペッと砂を吐き出すのに使われていた。

「えっと、水城君?」

 善一郎が声の方を向くと、呆気に取られている彼の連れの姿があった。

彼女は突然現れた子供のほうに、疑問の矢を向けている。

 子供の方も彼女の存在に気付いたのか、笑うのをやめて立ち上がった。

「なあ、この人誰?」

 そう言って、真っ直ぐな目で彼女の方を見てくる。

 砂を吐くのに必死の善一郎を見て、彼女は自己紹介の必要を感じた。

屈んで、目線を合わせる。

「私は水城君と同じクラスの綾峰あやみね晴子はるこ。よろしくね」

 彼女は名前のように晴れ晴れと笑って見せた。

その笑い顔につられたか、襲撃者の方も子供らしい笑顔を返す。

鼻の頭を掻きながら、照れ臭そうに笑うのが可愛くて、思わずその頭を撫でてしまう。

「それにしても、水城君にこんな可愛い弟が居たなんて知らなかった」

「ぶっ、ぶわっはっはは」

 善一郎がひときわ大きく砂を吐いて笑い声をあげた。

晴子が、何? と思う間もなく、機嫌よさ気に撫でられていた子供の笑顔が凍った。

 撫でている晴子の手を外すと、一言も口を利かないまま、善一郎の前に立った。

「…………えい!」

 子供は可愛らしい声を出して、躊躇うことなく思いっきり善一郎の脛を蹴りあげた。

「――――」

 一気に表情を青くしながら、声にならない悲鳴を上げてその場に蹲る善一郎。

 蹴ったのはつま先。蹴られたのは弁慶の泣き所である。

それも、十年に一度当たるか当たらないかという位の激痛ポイント、言わば弁慶のスイートスポットに当たったのだから、目に涙が浮かんでいても仕方がない。

脛を高速でさすりながら、それでも無言でもがき苦しむ。

口を開くとそのまま泣いてしまいそうだった。

 そんな姿を見て少しは気が晴れたのか、仕方がないか、というような顔で晴子の方を向いた。

「あのさ、お姉ちゃん。私一応女の子なんだよね」

 そう言った少女は、申し訳無さそうに頬を掻いた。

「え、あ、ごめん」

 その言葉に慌てて晴子は頭を下げようとした。

しかし、少女が手の平を見せて、それを止められる。

「いいっていいって」

 あっけらかんとした声で彼女は笑った。

「こんなナリしてんだもん。間違ってもしょうがないって」

 そう言って自分の着ているものをつまんだ。

 彼女が着ていたのは着古した道着だった。

所々ほつれている所を見ると、随分長いこと使っているもののようだ。

そう言えば、善一郎に喰らわせたあの飛び蹴りは見事だった。

「だから気にしなくていいよ。よく間違われるからさ」

 また、大声で笑う。

 自棄でもなんでもなく、本当に気にしていないのが伝わる声だった。

 晴子は笑っている少女の方に近づいていって地面に膝をついた。

そうして、真っ直ぐに彼女の目を見つめる。

綺麗な眼だと思った。

「えっと……」

「薫。秋名あきなかおる

 はきはきと名乗る彼女に、思わず笑みがこぼれる。

……賢い子だ。

「じゃあ、薫ちゃんでいい?」

「うん」

「薫ちゃん。貴方みたいな女の子を男の子と間違えてごめんなさい」

「だからそれは……」

 唇に人差し指をあてて、黙らせる。

 フワリと良いにおいがして、薫、何故かどぎまぎする。

「私の目が悪かっただけ、だからごめん。……うん。薫ちゃんは将来絶対美人になる」

 自信に満ちた声でそう言った。

今だってとっても可愛いけどね、と付け加えてから、ニッコリと笑った晴子は、薫の頬を抓んだ。

 薫の心音がラテンバージョンにアレンジされる。

「ふえぇぇ〜〜?」

 顔を真っ赤にして、晴子を見つめる。

「私の事許してくれる?」

「ゆ、許すも何も、別に姉ちゃんの事怒ってないし……」

「じゃあ、お友達になってくれる?」

「な、なるなる」

 水飲み鳥のようにヒョコヒョコ首を動かして薫は頷いた。

 可笑しそうに手を口元にあてながら、スッと晴子は反対の手を差し出す。

 顔を真っ赤にしたまま、その意図を悟って薫は直ぐにそれを握り返した。

「じゃあこれで私達友達ね」

 握手を交わして嬉しそうに笑った晴子の顔を見て、何だか可笑しくなって薫も笑った。

「ああ、そうだな!」

 くすぐったそうな二人の笑い声があたりに響いた。

 そんな二人を見守るように、ゆっくりと夕陽が沈んでいく。

 町全部がその光景を眺めていた。

 ―――今日も今日が終わる。

 皆の胸にそんな気持が訪れる中。

……善一郎は完全に忘れられていた。




 その後、二人は再会を約束して別れた。

 帰っていく晴子の背中を見送りながら、彼女が全く善一郎に触れなかった事に薫は気付いた。

多少は哀れな気持になったが、直ぐに稽古があることを思い出して、結局放っておいた。

……いつまでもそんな事にかかずらってはいられない。

 自宅に帰って道場の方に行くと、既に稽古は始まっていた。

師範である父親のはじめには叱られたが、薫はスッキリとした気分で稽古の列に加わった。

 物心付いた時から、周りには男の人のほうが多かった。

 母親は薫を産んだ時に亡くなっていて、道場経営をしている父親の手一つで育てられてきた。

 少しずつ大きくなるにつれ、薫は門下生に混じって武術を習うようになり、物心ついた頃には既に道着はぼろぼろだった。

始は娘が武術を習う事を賛成せずに彼女を説得していたが、少しでも長く父親と一緒に居たかった薫は、頑として首を縦には振らなかった。

 髪も格闘技に向くように短く切り揃え、周りの影響から口調も自然と男っぽいものになっていった。

 それが、所謂”普通の女の子”とは違うと言う事に気付いたのは、薫が小学校に上がった時だった。

周りを見回しても自分以外の女の子達は、何だかナヨッとしていて頼りない。

押せばすぐに倒れそうだし、蹴れば何もかも壊れてしまいそうだった。

きっと彼女達は、近所の人に男の子と間違われることもないのだろう。

 そんな事を幼馴染の善一郎に話すと、それが普通だ、と言われた。

しかし、男の癖に誰よりも頼りない彼に言われても、何だかピンと来なかった。

だから薫は気にしないことにした。

 相変わらず男子に混じって遊んだし、武術の方も本格的に習いだした。

始はやはり良い顔はしなかったが、善一郎は、良いんじゃないか、と笑っていた。

薫自身もそれで良いと思っていた。

 そして今日。

 薫の耳に晴子に言われた言葉が蘇ってくる。

 ―――薫ちゃんは将来絶対美人になる。

 自分でも意外なくらい嬉しかったらしい。

(そりゃあ、最初は男と間違われたけどさ)

 それでも、あの言葉は途方もない力でもって、薫を、薫の意識を変えていった。

まるで月にかかった雲を吹き払う風のように、冴え冴えとした光を薫に与えてくれた。

(綺麗で、柔らかくて、優しくて、良い匂いで、いいよなあ晴子姉ちゃん)

 ボーッと動きを止めた薫に、師範の叱責の声が向けられた。

(いけね)

 薫は慌てて気を引き締め直す。

 まだ稽古は終わっていない。


 この日秋名薫に三つの重大事があった。

 一つは、綾峰晴子という友人を得た事。

もう一つは、彼女の中に初めて意識コンプレックスが芽生えた事。

……そして最後の一つは、彼女が夕食をとっていたときに起こった。




 父親と二人きりの食卓は、いつも賑やかだった。

 食事の用意をするのは、いつからか薫の仕事の一つになっていた。

小学校から帰ってきて、稽古に参加し、台所に立つ。

大人でも大した重労働だ。

 にも拘らず、薫が作る料理について、始は彼是あれこれ文句を言った。

「何だかお前の母さんの味と違う気がするんだよな」とチクチクチクチク地味に不満を言ってくる。

薫も負けずに「じゃあ、もう食うな」と言って食事を下げようとする。

慌てて父親が平身低頭で謝って、渋々薫が食事を元に戻す。

男所帯であるため、こういう時飛び交う言葉は品を欠いている事が多いが、それなりに楽しい食事風景である。

 この日も始は味噌汁が辛いと文句をつけた。

「そんな事ないだろ」

 薫は味噌汁に目を落とした。

 揚げと豆腐のオーソドックスな味噌汁。

作る際に味見はしているが、一口啜ってみて、薫は顔をしかめた。

「……なんだこれ?」

 始の言う通りいつもより辛かった。

恐らく、また晴子の言葉でトリップしている内に、煮立たせてしまったのが原因だろう。

ダシの風味がとび、塩気が強くなっている。

 自分で作っておいてそんな事を言う薫に、父親は鬼の首を取ったように笑ってみせる。

「ほら見ろ! 辛いだろう!」

 嬉しそうな彼の顔に、薫もカチンと来た。

確かにいつもより大分辛かったが、作って貰っておいてその態度はないだろう。

「なら食うなよ!」

 いつもの様にそう言われて、父親の表情が情けなく変わった。

自分の前に置かれた食事を抱え込むようにして、「いや、食う、食う」と連呼する。

こうなるのが分かっていて、何故か文句を言うのをやめない。

コミュニケーションの心算つもりかも知れないが、だとすれば不器用を通り越して救えない馬鹿である。

 それにしても、最近「なら食うなよ」が飛び出すのが、どんどん早くなってきている気がする始だった。

「ったく」

 顔をしかめつつも席について箸を手に取る薫に、始がホッと息をついた時、部屋の外で電話の音が鳴った。

「こんな時間に誰だ?」

 怪訝な顔をしながら、始は席を立つ。

不安そうに部屋を出て行ったのは、夜の電話には厭なものしかないと彼が思っているからだ。

 あまり気にする事もなく薫が食事を続けていると、直ぐに父親が戻ってきた。

珍しく青い顔をして、呆然と薫を見ている。

「誰からだった?」

 そんな父親の様子に、薫も箸を置いた。

どうやら、厭なニュースだったらしいと気付いたのだ。

「あ、ああ」

 はっとしたように呟いて、父親が口を開いた。

「電話は善一郎君からだった」

 そう言った声が、震えている。

「善一郎?」

 その名を聞いて、薫は首を傾げた。

「善一郎がどうかしたのか?」

「あ、いや、彼自身はなんともないんだが」

 言葉を選んでいるような父親を見て、薫は善一郎が今一人で居る事を思い出していた。

……嫌な予感がする。

「彼の両親が」

 善一郎の家は、薫の家から道を挟んで直ぐ隣に建っている。

敷地の広い家の多いこのあたりで、唯一秋名家と交流があるのが、水城家だった。

 薫はもどかしいような思いで父親の言葉を待った。

彼の態度に、知りたくもない言葉の先を感じた。

……無いのは確信だけである。

 一刻も早く善一郎のもとに駆けつけたかった。

「出先から帰ってくる途中、車で事故に合われた。市内の病院に運ばれたらしい」

 その言葉を聞いた途端、薫は席を立って駆け出した。

部屋から出ようとする所で、始に手を掴まれる。

「待ちなさい、薫」

「……放せっ!」

「今お前が行っても迷惑になるだけだ」

「そんな事……いいから放せよ!」

 パチン。

遠くで乾いた音が聞こえた気がした。

頬が痛いことに気付いて、自分が殴られたことに気付く。

「良く考えろ。今お前が行ったら、善一郎君は気を使ってしまう」

 厳しい顔つきなのに、父親の声は落ち着いていた。

そのアンバランスさが薫の視界をにじませた。

行った所で薫には何も出来ることが無い。

そう言われている様だった。

 寂しい。悲しい。悔しい。

 ―――優しかった水城のおじさん達が、居なくなるかもしれない事が寂しい。

 ―――きっとそれ以上に、寂しい思いをしている善一郎が悲しい。

 ―――それなのに、何も出来ない自分が悔しい。

 歯を食いしばり薫は痛いくらい拳を握り締めた。

どうして自分は子供なんだろう。

 そんな姿を見て、父親が優しく頭を撫でてくれる。

「お父さんは今から善一郎君を連れて二人が運ばれた病院に行って来る。お前は辛いだろうが、留守番していてくれ」

 痛む頬を押さえて、薫は頷いた。

「……分かった。お父さんも気をつけて」

 なんとかそれだけ言う事ができた。

 ポンッと優しく薫の頭を叩いて父親は笑って見せた。

「分かってる。なに、行ってみると大事無かったって事もある。あまり気を張らずにお前は寝ていなさい」

 そう言って始は出かけていった。

父親の言葉が気休めだとは分かっていたが、おかげで何とか薫は眠ることが出来た。

今の自分にできる事は周りの邪魔にならないことだけ。

無理矢理にそう言い聞かせて薫は目を瞑った。


 果たして、翌日目を覚ました薫は、水城夫妻の死を知らされた。




 二人の葬式は、人の多さに反して涙の少ない静かなものとなった。

 その大きな理由として、喪主を務めた息子、善一郎の態度がある。

彼は、式の間中むっつりと押し黙ったまま、ジッとどこかを見つめていた。

その目に涙はなく、その口に嗚咽はなかった。

力なく口を閉じて、真剣とも空虚ともいえない視線で、どこか遠くの景色を捉えていた。

 訪れた弔問客たちは、彼を差し置いては泣くに泣けない。

”お通夜のような”という比喩がここでは正しいかどうか。

とにかく皆が声を失ったような、静かな時間が流れて行った。

 そんな善一郎の姿を、遠くから弔問客の一人として薫も見ていた。

親戚や親の会社の人間に囲まれて、彼らの放つ言葉に時折思い出したように視線だけを向ける善一郎の姿を見ていると、涙が出てきた。

 車での衝突事故だったにも拘らず、二人の遺体に目立った損傷はなかったらしい。

 打ち所が悪かった。

そう父親は言っていた。

 白い装束を着て、綺麗になって棺に横たわる二人。

それを目にしたとき、薫は衝撃からその場にへたり込んでしまった。

足に力が入らず、普段涙を止めている何かがその機能を失って、赤ん坊のように声をあげて泣いた。

 薫は母親を亡くしてはいたが、目の前に死を突きつけられたのはこれが初めてだった。

この時初めて、生と死の曖昧で強烈な違いを思い知った。

その感覚を彼女は生涯忘れる事はないのだが…………それはいい。

 そんな薫にも、善一郎は無感動な視線を向けていた。

他人を見るような、それどころか、初めて目にする人間を見るような目で、善一郎は泣きじゃくる薫の姿を見ていた。

 視線には力がある。

その力に引かれて目線を動かした薫は、後悔とともに顔を俯けた。

そこには彼女の知らない善一郎が居た。

 俯いたまま震える体を抑え、泣き声を噛み殺した。

胸の前で手を組み、心の中で祈りの言葉を吐く。

(おじさん、おばさん……お母さん。どうか善一郎を元に戻してください。あんな目で私を見させないでください)

 父親に抱え上げられて席に戻る間中、葬儀が終わるまでの間中、薫は祈り続けていた。


 その祈りが届かないまま、三日が経っている。




 薫は道場があるだけの、何の色気もない庭で、善一郎の家を見上げていた。

そこはまるで、人が住んでいないかのような風情で静かに佇んでいる。

小さな物音すら聞こえてはこない。

 毎日様子を見に行っている始が言うには、食事だけは彼が無理矢理採らせているらしいのだが、それ以外、善一郎は全く動く事がないのだという。

両親の部屋の中に座って、一日中窓の外の景色を見ているらしい。

 あの日以来、薫は善一郎には会っていない。

恐くて会いに行けないというのが正しい。

何度か家を訪れようとはしたのだが、その度に葬式の時の善一郎の目が思い出されて、足がすくんでしまう。

 道一本隔てただけの隣同士。

三日前までは誰よりも近かった距離が、今はこんなにも遠かった。

 この日も学校から帰ってきて、着替えもせずにずっと水城家のほうを見つめていたのだが、どうしても踏ん切りがつかずに薫は溜息をついた。

 もう直ぐ稽古の時間だった。

着替えなきゃと呟いて、薫は自分自身をぶん殴りたい衝動に駆られる。

(何が着替えなきゃだ。恐くて会いにいけないだけの癖に)

 家の壁に拳を打ちつけようとしたとき、薫の耳にその音が聞こえてきた。

 ガラガラガラ……。

 隣から聞こえてきた、玄関戸を開く音。

 弾かれたように薫は駆け出した。

頭の中は真っ白で、何を話すかも考えてはいない。

あれだけ怖がっていた気持ちも、どこかに吹き飛んでいた。

 二十メートルもない距離を全速力で走る。

クラスで一番速いはずの足が、今は絞め殺してやりたくなるくらいに遅く感じた。

永遠よりもゆっくりと進む時間、実際は十秒も掛かってはいないだろうが、ようやく、薫は善一郎の家の前に着いた。

「薫ちゃん?」

 そこに居たのは、綾峰晴子だった。



 晴子は善一郎の家から出てきたところらしく、後ろ手に扉を閉めながら、驚いた顔で薫を見ていた。

「晴子姉ちゃん……」

 薫。脱力して地べたに座り込んでしまう。

「ちょっと薫ちゃん大丈夫?」

 突然力を失った薫に、慌てて晴子が駆け寄った。

「大丈夫大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから」

 そう言って、情けない笑顔を作ってみせる。

それが可笑しかったのか、晴子はクスッと笑うと、薫を立ち上がらせてくれた。

「薫ちゃんは水城君に会いにきたの?」

 スカートに付いた砂を払ってくれながら、晴子が聞いてくる。

されるがままになりつつも、薫には答える事ができない。

……そう言えば何しにきたんだっけ?

 戸の開く音が聞こえたときには、一も二もなく駆け出していた。

その時何も考えていなかった事に、薫は気付いた。

冷静になってみるとココにいること自体が酷く滑稽に思える。

 何故か、あの時の善一郎の目が頭にちらついた。

「いや」

 と、だけ答えて、上目遣いで晴子のほうを見た。

一旦手を止めた彼女は、不思議そうに首を傾げながら、薫の言葉を待っている様子だった。

「は、晴子姉ちゃんこそ、そんな格好でどうしたんだ?」

 彼女は、前に会った時と違い私服姿だった。

可愛らしい服のすそを揺らして、再び薫のスカートのクリーニングに掛かる。

ついでに、他の乱れているところも直してやっていた。

「今日学校が創立記念日で休みだったから、水城君のお見舞いにね……よしっと」

 そう言って満足げな声を上げた。

どうやら、薫のスカートは完璧にもとの姿を取り戻したらしい。

「……善一郎は、どんなだった?」

 身綺麗になった薫が、彼女らしくない元気のない声で尋ねた。

 その事を不思議に思いながらも、晴子は答えた。

「どうって、そうだなぁ。……くっらーくて、ジメジメしてたけど」

「そ、そっか」

「うん。一回もこっちを向いてくれなかったしね」

 言葉と違い、晴子の声は明るい。

「それで? あれから薫ちゃんは水城君に会った?」

 薫は黙って首を振った。

会うのが恐いなんて、自分の情けない気持ちを見透かされそうで、何だかそのまま顔を俯けてしまう。

「会うのが恐い?」

 ズバリ指摘されて慌てて顔を上げる。

 晴子は笑っていた。

馬鹿にするでなく、只、ひたすらに優しく。

 その顔を見ていると意地を張って嘘をつく気にはなれなかった。

黙ったまま正直に首をたてに振る。

「……そうだよね」

 小さく零して晴子はゆっくりと歩き出した。

 地面を踏む音が、薫の背後で止まる。

 沈黙。

 黙っている晴子を、薫が振り返ろうとしたとき。

「えい!」

 突然晴子が可愛らしく声を上げた。

体を押し付けるようにして、背後から抱きつかれる。

「は、晴子姉ちゃん?」

 肩から伸びてきた手に力が込もる。

ギュ〜と抱きしめられて、彼女の良い匂いが鼻をついた。

顔が熱くなるのが分かった。

 晴子、薫の髪の匂いを嗅ぎ出す。

 薫、何故かまたどぎまぎする。

「ちょ、ちょっと姉ちゃん止めてくれって」

「あのね」

 髪の中に顔を埋めたまま、晴子が声を出した。

直接息がかかって、旋毛の辺りがくすぐったい。

「将来薫ちゃんが美人になるときは、私の千倍綺麗になっててね」

 千倍って……。

何だか頭の悪い数字である。

 それは無理なんじゃないかなーっと、頭の天辺がくすぐったいまんま、薫は冷静に思った。

「……じゃないと悔しいから」

 聞き返す間もなく、薫の体が解放される。

振り返ってみると、そこには、初めて見たときと同じ笑顔があった。

「会っておいで」

 笑ったまま晴子は言った。

「………………でも、大丈夫かな?」

 不安そうに薫は言った。

 晴子はそんな薫を見つめる。

大丈夫かなんて、神様じゃないんだから分かるわけがない。

でも、神様にはきっと分からない部分で、大丈夫だと確信できた。

「大丈夫」

 だから、そう請け負う。

 晴子はニッコリ笑って、薫の背中を押してくれた。

勇気を奮って、薫は先程晴子が閉めた戸に手をかけた。




 ガラガラガラと音を立てて、戸が開いた。

恐る恐る家の中を窺う薫の背中が可愛い。

家に入る直前足を止めて、こちらを振り返る。

「晴子姉ちゃん。ありがと」

 照れ臭そうに鼻の頭を掻き、返事も待たずに戸を閉めてしまう。

 可笑しくて晴子は笑った。

「……さてと、帰るかな」

 ひとしきり笑った後、目尻に浮かんだ涙を払って、晴子は歩き出した。

暖かい滴が夕焼けの中に散っていく。

涙の正体には興味がなかった。

 家路を歩き、商店街に差し掛かった時、晴子は声を出す。

「あ」

 赤く染まりかけている空を見て思い出した事があった。

「……中華食べそびれちゃった」

 …………。

 …………まあいいか。

 一度だけ心底残念そうにため息をついて、エビチリのような空の下を晴子は帰っていった。




 家の中は夜よりも暗かった。

灯りが全て消され、窓から差し込む夕陽が、影を一層濃いものに変えていた。

 シンと静まり返った廊下を薫は恐々(こわごわ)歩く。

壁に手をつき、キョロキョロと視線を動かしながら、目的の部屋を探す。

そうして歩いていると、何だか泥棒か幽霊にでもなった気がしてくる。

そのどちらでもないと思い知らされたのは、声を掛けられたからだ。

「薫か?」

 善一郎の声だった。

小さな足音が聞こえたのだろう、疲れたような声が、薫の目の前にある襖の向こうから響いてきた。

「うん。薫」

 小さな声でそう答えると、「入って良いよ」と言ってきた。

 少し考えた後、思い切って襖を開けた。

部屋の中を見て、薫の足がまた震えだす。

(おじさんとおばさんの部屋)

 室内は大方片付けられていた。

親戚の人か、もしかしたら始が片付けたのかもしれない。

人の暮らす部屋でなくなった空間に、思い出の欠片みたいにして薫達が付けた柱の傷などが見て取れた。

 寒々しい印象を受ける部屋の中央で、善一郎は胡座あぐらをかいて座っていた。

訪問者に背を向け、窓の外に意識を飛ばしている。

「よう」

 しばらくの沈黙の後、善一郎がゆっくり顔だけ振り返った。

 薫は思わず下がりそうになる足に力を込める。

 あの目だった。

知らないものを見る目で、善一郎は笑っていた。

「何やってんだ? 座れよ」

「……うん」

 言われて、薫は躊躇いながらも善一郎の背後に座る。

彼はまだ体を窓の方に向けたままだ。

座るのを確認してから、またゆっくりと視線を窓の外に戻した。

「えと、げ、元気だったか?」

 言って馬鹿な質問だったと反省する。

「いやーあんまり」

 予想通りの答えが返ってきて、薫は首を縮めた。

「そっか、あー……飯は?」

「おじさんに無理矢理食わされてる。……あの腕力は犯罪だぞ多分」

「そっか……犯罪か」

 薫の脳裏に腕力で犯罪者にされた父親の顔が浮かぶ。

そう言えば、稽古があることをすっかり忘れていた。

怒っているだろうか?

「それで? お前の方は?」

「私も……あんまり」

「そっか……」

 それきり、薫は言葉を見失う。

正直、善一郎には会えたものの、まだ何も考えてはいなかった。

それどころか、糸が縺れ合っているかのように思考が混乱している。

 恐くて会えなかったのは事実。

 でも、会いたかったのも事実。

 晴子に背中を押された勢いでここまで来たのも事実。

 でも、最後の一歩は自分の意思で踏み出したのも事実。

 ……結局、今の善一郎に何をしてあげれば良いのか分からないのが、一番大きな事実だった。

「薫さあ」

 善一郎が体ごと振り返る。

頭がこんがらがっていた薫は、虚を突かれて何も答えられない。

「人が死ぬって知ってた?」

 少しだけ、善一郎の空っぽだった目に、影のようなものがぎっていった。

 薫はその質問に黙ったまま首を振った。

 言葉として……知識としては知っていた。

人だけじゃなくて、生き物全部は生まれたら死ぬ。

善一郎も薫もいつか必ず死ぬ。

そこに例外は無い。

 頭の中では、多分二人ともそう思っていた筈だ。

 でも、実感したのはあのお葬式の時が初めてだった。

眠るように横たわっていたおじさんとおばさん。

目立った傷もなく、立っている自分と何にも変わらないように見える二人。

 薫はあの時、悲しいのと一緒に、恐くて泣いていた。

二人の死体と生きている自分。

確かな違いは感じる事ができても、その間にあるモノはどこまでも曖昧だった。

 そのときに彼女は悟った。

人はいつか死ぬんじゃない。

人はいつでも(・・・・)死ぬんだ。

 その事に気付いた時、薫は恐くなって大声を上げて泣いた。

 悲しかったのは事実。

 けれど、それ以上に恐かったのが本当の事実。

 薫は薄情な自分を思う。

でも、人は死ぬ、なんて、只の空っぽの言葉だった。

 だから、薫は目を瞑って、黙って、必死で首を振った。

「俺も」

 それを見て自嘲気味に善一郎は笑ってみせる。

「多分知らなかったんだろうな。知ったらどうしようもなく恐くなっちゃってさ。それが悲しいに勝っちまって。お前葬式の時俺のことチラチラ見てたろ? だから知ってると思うけど……俺未だに泣けないんだよな」

 善一郎は振り返って窓の外を見た。

 薫は悲しくなってきた。

「自分が大した事ない人間だってのは知ってたけど、まさか、ここまで冷たい人間だとは思ってなかったな」

 自分と善一郎の違いを思う。

子供だから泣く事を許された薫。

子供じゃなくあろうとしたから泣く事を許さなかった善一郎。

 それはきっと、ちょっとしたきっかけから、無理を通せてしまっただけの事。

「そんな事ない」

 薫の声に振り返って、善一郎は驚いた。

 薫が涙を流していた。

彼女自身も意外だったのか、その事に気付いて服の袖で涙を拭うが、拭っても拭っても、止まることなく溢れてくる。

やがて諦めた。

「善一郎は優しい……多分」

 涙目で善一郎を見据えて、しっかりした声でそう言う。

「多分かよ」

 小さく笑った善一郎の前に泣き顔のまま薫が立った。

 すっと腕が伸びてきて、善一郎は頭を抱え込まれる。

「薫?」

「お前が泣けないのは、きっと心がまだ気付いてないからだよ」

 善一郎の望むもの。

 薫はそれに気付いた。

そんなの考えるまでもなかった。

 それは、死んでしまった両親を生き返らせる事。

残念だけど薫には叶えてやる事ができない。

だから、代わりに自分がされて嬉しかった事をすることにした。

 お葬式で泣いた時、始に抱え上げられると、とても心が落ち着いた。

抱きしめて背中を撫でてくれた手から「大丈夫だよ」という彼の気持ちが伝わってきた。

嬉しくて、安心した。

「無理して泣かなくても良いよ」

 だから、小さな手で、善一郎の頭を撫でてやる。

 大丈夫だよ、大丈夫だよ。

「……だから、安心して泣いて良いんだぞ」

 一生懸命気持を込めて、何度も何度も。

「お前……」

 善一郎の悔しそうな声。

「……不意打ちは汚ねーぞ」

 そう言って、抱き返すように薫の背中の服を掴む。

 少し痛かったが、何でも無いように薫は頭を撫で続けた。

 大丈夫だよ、大丈夫だよ。

「…不意打ちは…あ…っく、……くっ、そ……な、んで…………死んじゃうんだよ……」

 薫のお腹の辺りから、善一郎のくぐもった嗚咽の声が聞こえてきた。

吐く息と涙が熱く、一緒にジンワリと暖かくなった。

「うん」

「……言いた、い事とか、言ってやりたい、事とかあったのに……」

「うん」

「……父さ……ん……かあ……」

 最後は言葉にならなかった。

後は嗚咽が漏れるばかり。

 薫も黙って泣いた。

善一郎が泣き続けている間ずっと、大丈夫だからと、彼の頭を撫でていた。




「あぁぁぁぁ」

 なんか凄い泣いたなあ。

善一郎は窓の外の、炎のような色で燃える空を見ながら、ボンヤリとそんな事を考えていた。

水泳の後のような倦怠感が体中を支配していた。

「……この野郎」

 呟いて視線を下げる。

 薫は、泣き疲れて寝てしまっていた。

床にそのまま寝かせておくのも可哀相だったので、仕方なく自分の膝を枕として提供している。

善一郎の膝の上で、気持良さそうに寝息を立てている薫。

その顔を随分久しぶりに見た気がした。

「…………」

 鼻を抓んでみる。

苦しそうにジタバタし、ぶはっと口を開いて息をついた。

また直ぐにスースーと、安らかな寝息を立て始める。

「……っ……」

 善一郎。口を押さえて笑いを堪える。

 笑いを堪えつつ、今度は頬っぺたを引っ張ってみた。

「んー……?」

 眉を顰めて、フラフラと両手をさまよわせる薫。

どこが痛いのか分からないのだろう。

やがて、ふらついていた手がサッと動いて……。

 ぺちん。

何故か自分の太ももを叩いた。

(いや、遠っ!)

「く、つっ…ぷふ………」

 そんな薫に、善一郎、涙目で床を叩く。

堪えるのに必死である。

 キョロキョロと辺りを見回して、他に悪戯する為の道具がないか探す。

視線の先、部屋の片隅に何故か習字セットがあった。

 にやりと口元が歪む。

何だか無性に、額に肉と書かなくてはいけない気がしてきた。

 薫を起こさないよう、上半身を伸ばしてそれを取ろうとする善一郎。

 が。

「善一郎!」

「は、はいぃぃ」

 突然名前を叫ばれて、弾かれたように姿勢を正す。

 調子に乗りすぎた。

そう思って、恐る恐る視線を下げるが、未だに薫は目を瞑って善一郎の膝の上から動かない。

寝言のようだった。

「は……脅かすなよ」

 ホッと息をつく。

「うー、善一郎」

 どうやら夢の中の相手は自分らしい。

今度は静かに名を呼んで、薫は顔をしかめている。

「はい、はい」

 ため息の様に答えて、善一郎は続きを待つ。

寝言と会話をしてはいけない、と何処かで聞いた気がしたが、気にしなかった。

それよりも、夢の中で自分達がどんなやり取りをしているかの方が気にかかる。

 返事があったことに少し満足したような顔をして、薫は口を開く。

「善一郎」

「なんですか?」

「うー」

「いや、なによ」

「…………な……」

「ん?」


「泣くな」


 …………。

「ぶっは、あはは、お前、ぶふっ」

 今度は我慢できなかった。

 声を立てて善一郎は笑う。

言っている事が百八十度違う。

 言った薫自身は何だか威張ったような顔をしていた。

「あは、く、はは……ったく、どうしろっつうんだよ」

 小さく呟いて、薫の寝顔を見つめる。

重なるように、さっきまでの泣き顔が浮かんできた。

「…………気付いてないだけ、か」

 考えてみると、人はまず心で泣くのかもしれない。

 だから、涙を流すのを堪えたり、堪えられなかったりするのだろう。

 けれど、我慢をしてしまうと、心はいつまでも泣き続ける。

(……俺がそうだったみたいに)

 笑い顔を浮かべたまま、薫の髪に指を入れる。

梳くようにして頭を撫でてやった。

気持良さそうに笑う寝顔。

(多分、人は心で泣き止む為に涙を流して、大きな声で泣き声をあげるんだろうな)

 薫の幸せそうな寝顔を見ていると、素直にそんな風に思えた。

「そうだな……」

 悲しさから色をなくしていた世界が、本来の姿を取り戻していく。

涙で灼けた声が、赤い世界に溶けていった。

 悲しみがなくなったわけではない。

でも、それ以外のモノにも気がついた。

気がつかせてくれた。

「そろそろ俺も、泣きやむかね」

 いししと笑ってから、もう一度薫の鼻を抓んだ。

「……何やってんだお前?」

「いいいぃぃぃ!?」

 しかし、今度開いたのは、口ではなく目だった。

意志の強そうな黒色とばっちり目が合ってしまった。

 子ウサギくらいだったら、それだけで射殺せそうな視線が善一郎の顔を射抜いている。

「なんか、さっきから寝にくいと思ってたら」

「いや、ちょっと待て、ほ、ほら、俺ずっとお前の事膝枕してやってたんだぞ」

「そんなの……」

 薫から、ゆらりと立ち上がる闘気。

「知るかああああああああ!」

「ぐえええええええええ」

 それはもう酷い暴力だったと言う。








 ―――問。


 最近貴方に気になっている事はありますか?


 誰かにそう聞かれれば、秋名薫は黙って頷いた後、むっつりした顔のまま、ピースサインをそいつに向ける事だろう。

 戦争が何時まで経っても世界から無くならない事に対する無言の抗議ではない。

 ―――二つある。

という事である。

 一つはここ最近、善一郎が夕飯を秋名家でとっている事にあった。

いつだったか、薫の父親の始が、彼を夕食に招いた時から始まった。

一人では味気ないだろうと、父親がそれを毎日続けているうちに、何だか当たり前のように、いつの間にか食器棚に善一郎の茶碗があった。

……それはいい。

 一人増えた所為で、食費がかさむと言う事もない。

善一郎がいつも食材を持参してくるからだ。

困窮している秋名家では、逆に助かってるくらいだった。

……いや、それもいい。

 問題は、ここの所彼からの注文が多くなってきたという事と、とにかく食卓が煩くなったという事だ。


 自宅の庭にある小さな道場の中で、他の生徒達に混じって呼吸を整えていた薫は、昨日の夕飯時のやり取りを思い出していた。




 最初は、善一郎が味噌汁を辛いといった事から始まった。

「そうか?」

 一口啜ってみて、薫は眉を顰める。

「普通だと思うけど」

「いや辛い」

 そう言って、椀を置いてしまう。

「……普通と思うんだけどな」

 もう一口啜ってみて首を傾げる薫。

 どうでも良いことだが、何でこいつらはこんなに味噌汁の味にうるさいんだ、と思う。

(飲めりゃあ良いじゃねえか飲めりゃあ)

 べらんめえ口調でそう思うものの、全員が美味いと思うに越した事はない。

「わかった。じゃあ、明日からもうちょっと薄味で作ってみるよ」

 薫が言うと、善一郎は嬉しそうに笑って頷いた。

しょうがないヤツだ。

私より子供だな。

 薫が呆れたようにそう思って、話はそれで終わるはずだった。

「俺は今日の味噌汁ちょっと薄い気がしてたんだが」

 と、始が言い出したから、ややこしくなってしまった。

「えー、そんな事ないですって」

 そう言って、厭そうな顔で味噌汁を口に運ぶ善一郎。

「んっ、ほらーこんなに辛いのに」

 ベーっと舌を出してアピールする彼に、始が反論する。

「いや、薄いって……ほら、こんなに薄い」

 そう言って凄くおいしく無さそうにする始。

 そんな態度を見て、怒りに震える薫。

 しかし、目を瞑ってぐっと堪える。

何も、自分からこいつらと同じレベルに落ちてやる事はない。

「……何でも良いけど、私は味噌汁二つも作るのなんかだぞ」

 アホらしい喧嘩を始めた年上ばか二人に、薫は冷たい声で言う。

 それを無視するように。

「辛いですってこれ」

「いや、薄いって」

 平行線のまま(好みの問題だから交わりようがないのだが)、それでも二人の喧嘩は続く。

「どう考えても薄いだろう善一郎君!」

 バンッと卓を叩いて立ち上がる始。

「わっかんねえ、おっさんだな! こんな辛い味噌汁初めてだって言ってるでしょ!」

 つられる様に立ち上がる善一郎。

「こ、こいつら……」

 額のバッテンを大きくしていく薫。

「表に出たまえ善一郎君」

「お断りだよ! あんた強いもん!」

「くっ、卑怯な」

「どっちがだ!?」


「もういい! お前らどっちも食うんじゃねえ!!」

 薫が叫んだのは、それから二分後のことだった。




 道場では、型の稽古が始まっていた。

 追憶から戻ってきた薫は型の練習に加わる。

そして、ため息をつく。

 確かに、夕飯時に毎回のように起こるゴタゴタは鬱陶しかったが、今薫の頭を悩ませているのはそちらではない。

(くっそ)

 目の前に善一郎の顔が浮かんでいる。

 あの日、二人で大泣きした時以来、何故か、ふとした拍子に善一郎の顔が現れては、薫の目に張り付いて中々消えなくなっていた。

幾ら振り払おうとしても、しつこく頭の中に浮かんでくる。

 これがもう一つの気になっている事。

 先程から、型の練習にかこつけて幾度も拳を打ちつけているのだが、気が晴れるどころか、余計にイライラが募ってくる。

「はじめ!」

 父親の声がかかり、体の動きが型の練習へと移行する。

 打つ。捌く。たいをいれかえ、もう一度打つ。

これの繰り返し。

打撃の向く先は、全てぜんいちろう人中きゅうしょである。

 打つ。捌く。体をいれかえ、もう一度打つ。

 …………。

 …………。

 ……蹴ってみる。これは型には無い。

蹴る。蹴る。更に打つ。膝。頭突き頭突き頭突き……。

「薫?」

 このあたりで流石に見咎められ、父親に止められた。

気付くと他の生徒達も、何事かと薫の方を見ていた。

突然何も無い空間で頭を振り出したのだから無理も無い。

「調子でも悪いのか?」

 心配そうに聞いてくる始。

顔を上げて首を振った。

「いや、大丈夫。……けど、ちょっと風に当たってくる」

 そう言って薫は道場を出た。

そのまま家の敷地内からも出て、当所あてどなく歩き始める。

 一度、この事を晴子に相談してみたことがあった。

しかし、彼女は意味深に笑うばかりで、結局要領を得なかった。

 薫は晴子とよく会っていた。

下校時に待ち合わせをしては、帰り道にある児童公園で、小一時間ほど話をするのが日課になっている。

 何時いつだったか、そこであの約束について薫は懇願した事がある。

「なあ、晴子姉ちゃん。千倍って言うのはどう考えても無理だから、一・二倍位にしてくんねえかな?」

 情けない顔で薫がそう言うと、彼女は大笑いした。

 結局ダメだ、という事だった。

 顔を上げると景色が変わっていた。

 架椙山に続く山道。

「よし」

 頷いて薫はそこを歩き出した。

 ここには、彼女のお気に入りの場所があった。




「ちわーっす」

 善一郎が秋名家を訪れると、庭でクールダウンしている始がいた。

他に生徒達がいないから、稽古は終わったのだろう。

こちらに気付いて「やあ」と手を上げてくる。

それに軽く頭を下げて、持っていた包みを掲げてみせる。

「今日はすき焼き用の肉もって来ました」

 始の目の色が変わる。

大好物の内の一品である。

「いや、おっさん涎涎」

「お、すまん」

 そう言ってジュルリと口元を拭う。

まんま肉食獣である。

「で、薫は?」

 辺りを見回してみても、姿が無かった。

「飯の準備もう始めてました?」

「いや」

 始が首を振った。

「稽古中にふらっと何処かに行ったきり、帰ってきてないな」

「こんな時間までですか?」

 胸ポケットから懐中時計を取り出す。

見ると時刻は七時に差しかかろうとしていた。

「どこ行くって言ってました?」

「うん。……風に当たってくるって言っていたな」

 腕を組んで記憶を探る始。

「…………分かりました。ちょっと心当たりあるんで俺探してきます」

 そう言って善一郎は駆け出した。

「おっさん肉先に食ってんなよ!」

「わかじゅるてる」

 ……釘を刺しておいて正解だったらしい。

 善一郎は急ぎ足で架椙山にむかった。




 架椙山の中腹辺り。

 開けた視界に町が一望できる場所に、薫はいた。

「……やっぱココに居たか」

 乱れた息を整えて、善一郎は薫に近づく。

 少しは鍛えた方が良いのかもしれない。

「探したぞ」

 そう思いながら、その場に腰を下ろして彼女に声を掛ける。

足に乳酸が溜まっていた。

 疲れた声に、驚いたように薫が振り返った。

 ……そこからの一連の薫の行動は、後々になっても善一郎には良く理解できていない。


 振り返って善一郎の顔を見る。

 見る見るうちに情けなく表情が変わっていく。

 泣きそうな目で、口をへの字にした後、俯いて深くため息をつく。

 しばらく肩を落として、不幸のどん底みたいな空気を漂わせる。

 諦めたように顔を上げると、ブンブカ腕を回し始める。

 静かに善一郎に近づいていって、至近でジーっと顔を見た後。

 もう一度、今度は諦観の混じったため息を吐く。

 フウッと強い呼気が流れ、次いで腕を振りかぶった。

 善一郎の視界で拳が大きくなっていく。


「ぐあああああああああああああああああ」

「あ、あれ?」

 鼻と唇の間を押さえて転がる善一郎。

「な、何で手ごたえがあるんだ?」

 薫は不思議そうに自分の拳を見ている。

 善一郎はそれ所ではない。

 死ぬほどの痛さではなかった。

 死ぬ痛さだった。

「ぐあああ。なに? なにこれ? 何でこんなに痛いの?」

 ごろごろと転げまわっている善一郎は、何故か笑顔だった。

「……しかも何でか俺ちょっと笑ってるし」

 あまりの痛さに神経伝達が上手く行かなかったらしい。

笑いながら痛みを訴えている姿はかなり不気味だった。

「あれ? 善一郎?」

 今気付いたと言わんばかりの薫の声に、痛みを堪えて善一郎は立ち上がる。

「そうだよ! いきなり何しやがんだ!」

 そう喚き立てる善一郎を、要領を得ない顔で薫が見つめる。

「なに? お前本物?」

「俺の偽者がいたらつれて来い! 真っ先にお前の危険性を説いてやる!」

「あ、あはは」

 誤魔化すように頭を掻きながら、薫が笑う。

「いや、悪い悪い」

 まさかそれで済ませる気だろうか?

「俺はお前に殺されかけたんだぞ!」

「もう大袈裟だなー。ほら、ま、ココに座れ」

「おい!」

「まあまあ、ほら見ろよ夕陽が綺麗だぞ」

「とっくに沈んでるだろ!」

 いきり立つ善一郎の頭上に、星空のカーテンが引かれていた。




 夜の帳が下りた山の中。

緑が謳歌するそこに風が吹いた。

山の空気をたっぷり掻き抱いた風は、心を落ち着かせる匂いを纏っていた。

「だから謝ってるだろー」

「反省が足らん。急所にいきなり拳を叩き込むってのはどういう了見だ」

 親の顔が見て見たい、と思い、直ぐに始の顔が浮かぶ。

妙に納得してしまう善一郎である。

「……こんな所で何やってたんだよ」

 隣を見ながら言うと、薫はバツが悪そうに頭を掻いている。

「いや、ちょっと考え事を……」

 要領を得ない薫の物言いに、善一郎は首を傾げる。

 薫はというと、三角座りでやけに心細そうにしていた。

「それで? なんか分かったんか?」

 静かに首を振った。

「ううん。しかもお前の所為で余計わかんなくなった」

 なんだとこのやろう、と思うものの、膝に顔を埋めて沈んでいる薫を見ると何も言えなくなる。

は〜と大きくため息を吐いて、善一郎は胸ポケットを探った。

中のものを取り出す。

「……何これ?」

 それを薫の前にぶら下げると、怪訝そうな声を出した。

「時計」

 それは懐中時計だった。

 大航海時代ヨーロッパで作られたもので、キャプテンウォッチとかいうらしい。

細い金鎖に同色の本体、蓋は開いていて、デュアルタイムの装飾自体はシンプルな文字盤が、薫の方を向いていた。

「くれんの?」

「だっ、やるか! お前意地汚いぞ」

 ちぇッと言った薫が両手で受け皿を作ったので、そこに落としてやる。

じゃらっと音を立てて、鎖が手の上でとぐろを巻いた。

「お前のか?」

「いや」

 首を振った善一郎を、薫が見つめる。

「父さんの」

「え?」

 驚いた顔で、時計を見る薫。

難しい顔をして、どうやら記憶を探っているらしい。

「家のもの整理してたら見つかった」

「……そうか」

 善一郎は立ち上がった。

大事そうに時計を触っている薫の頭をクシャリと撫でる。

不思議そうに見上げる視線と指の隙間から目が合った。

「薫のおかげだよ」

「……なにが?」

「……これ見つけたの。お前が一緒になって泣いてくれただろ。おかげで、ちゃんと片付ける(・・・・)気になれた。……ありがとな」

 照れ臭くなって、そっぽを向いてしまう。

「そっか……」

 チラッ、と薫の方を窺うと、嬉しそうに時計を撫でていた。

「なあ」

 急にこちらを向く薫。

 慌てて前を向く善一郎。

「これ一日貸してくれねえかな?」

「ん?」

 見ると、真剣な眼差しで、善一郎を見つめる薫の顔がある。

「うーん……」

 顎に手を当てて考え込む。

 正直言うと、あげて良いとも思っている。

遺品は他にも残っていたし、父母が可愛がっていた薫に、何か形見分けしたいとも思っていたからだ。

 只、薫の真意が気になった。

時計を一日借りたところで、どうするというのだろう。

よっぽど気に入ったという可能性もあるが。

「……いいけど、なんでだ?」

 だから素直にそう聞いた。

「……私だけのおかげじゃないからだよ。おじさんとおばさんに、まだちゃんとお礼言ってないからな」

「はあ〜〜〜?」

 そう言ってニッコリ笑う薫だが、善一郎にはサッパリ分からない。

おじさんおばさんって言うのは、自分の父と母のことだろうか。

「あ〜、なんか分かんねえけど。いいよ。つうか、やる」

「え! いいのか!?」

 驚いて顔を上げた薫に笑って頷いてみせる。

「ありがとう!」

 すっかり元気になっている薫に苦笑が漏れた。

「ああ。……あ〜けど、それが無いと、俺、時間が分かんねえや」

 だから意地悪でそう言ってみた。

「そんならさ」

 大事そうに時計を見つつ、薫が笑いながら言う。

「ずっと一緒にいれば良いじゃん」

「は?」

 驚く善一郎の前で、時計を持ったまま頭の後ろで手を組む薫。

「そしたら、いつだって時間教えてやるからさ」

「そりゃそうだろうけど……じゃ、なにか? お前が行くところに俺は付いて行かなならんのか?」

 そんな事を言いながらも、何だかくすぐったくなって、善一郎は笑ってしまう。

 それにつられる様に、薫もより一層笑顔を深くする。

「当たり前だろ。どこに行こうとだよ。アメリカだろうと、インドだろうと、マーライオンだろうと」

「マーライオンは場所じゃない」

 そう言った善一郎に、少しだけ笑いを引っ込めた声が向けられる。

「嫌か?」

 善一郎の目に映る、ちょっとだけ不安そうな笑顔。

「………………わかったよ! 付いていけば良いんだろ! ハワイだろうがガンジス川だろうがマチュ・ピチュ遺跡だろうが八甲田山だろうが! どこだって付いていってやるよ!」

 自棄っぽくそう叫んだ善一郎に、びっくりしたような顔をした後、薫が大きく笑い声を上げた。

 町には明かりがともっていた。

 夜空の星が湖に写ったような町灯りが見える場所で、二人はいつまでも笑いあっていた。



 その頃。

「じゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅる……」

 すき焼きの肉の前で、始の涎がガンジス川にも負けない勢いで流れてい…………いや、それは、まあいい。






 ―――これは、東町商店街にアーケードが出来る前の、二人が初めて約束を交わした時の話。

読んでいただいてありがとうございました。

お久しぶりでございます。

ヒーローの条件、番外編でございました。

えー、いかがだったでしょうか?

少しでも楽しんでいただけたなら良いのですけど。


他の二話。

年内には無理かもです(笑

すいません。

なるべく早く書き上げますんでその時はまた読んでください。

感想お待ちしています。

それでは失礼させていただきます。

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