人魚姫
正直、その顔にゾッとしたが、「でも、純潔なんてどうやって……?」とすぐに意識を切り替えた。
「そうさね、タイムリミットみたいなものさ。きっと今のあんたのままじゃ、意中の相手は落とせない。人間ってのは、常に駆け引きをして、だましだまされて生きている。時には相手を翻弄させる言葉だって吐く。そのためには汚れが必要になる。だから、あたしの汚れとあんたの純潔を交換するわけだ。汚れがその心に充満するまでに相手を落せなければあんたは消滅する。助かりたければ、自分が消滅する前に相手を殺し別の人生を歩むこと。ただし、またあんたが別の人を好きになればリミットは再発動し、相手を殺すか落とすかしなければあんたは消える。はっきりとしたタイムリミットはないが、あんたの中の純潔・無垢の大きさによって消滅までの時間は左右されるだろう。砂時計が落ちきる前までに、どこまでできるのかやってごらん。ちなみにあんたが来たあの白百合の色でどれほどまでに汚れがきたかがわかるだろう。万一、白百合が何かによって枯れたり、掘り起こされた場合は、あんたの死を意味しているからね。どうだい?身の消滅を覗けば悪くないどころかあんたにゃ
利しかない条件だが。」
「相手を、殺すなんて……出来ませんっ!」
「なら、消滅を選ぶのかい?まぁ、汚れがたまるにつれ、また考えも変わってくるさ。で、やるのか?やらないのか?」
私は唇を噛んだ。
何を悩んでいるのだろう?どうせこのまま名前も知らぬあの人に恋い焦がれて一目だけでも……と思いながら消滅する時を待つだけならば、やるだけやってみればいいじゃないか。消滅するというタイムリミットを入れたって私には利しかない。悩む必要など、最初からありはしない。
この命、少しでもあの人の近くですごせるならば。
「やりますっ!お願いします!」
「……そうこなくっちゃ!」
魔女はまたにやりと笑うと、「さ、これを飲んだら目を閉じてあの家を想像しな。目が覚めたとき、あんたはもう人間だ。」と言って私に蛍光ピンク色に光る液体を渡した。
私は一思いにそれを飲み干すと、酷い味と共に、ひどい目眩に教われ、気絶してしまった。
その後の記憶はないが、目をあけたとき、激しい頭痛とともに、目の前で愛しいあの人が驚いているのを見た。
「うわぁぁ!?君、どこからきたの!?なんで裸なの!いつからここに!?」
「3年前からベランダでお世話になってます」そう言い掛けて、黙り込んだ。そうか、私、人間になれたんだ……。
髪の毛がとてもながく、ほぼ全身をおおっていた。
「とにかく服……僕のだけど、これ。」
「あ、りがとう……ございます。」
自分ではない声がしたけれど、紛れもなくそれは、自分が発した言葉で、間近で聞いた彼の声に感動してただ、ぼろぼろと泣きだしてしまった。
「え、今度は何!?僕、何か悪いことしたかな?ごめんね。」
「ち、がい……ます。ただ、嬉しくて……。」
「嬉しくて……?と、とにかく、着替えようか、男物で悪いけど。」
そうか、今の私の状態は裸なのか、そう思い、鼻をすすりながらかしてもらった服を着た。体が酷く重かった。でも、これが人間になったということなのだと思うと、その重ささえ酷く愛しかった。
「すみません、着替え、おわりました。」
なんとなくその人と同じように渡された布を纏うと、背を向けていたその人はこちらを見て目を見開いてから、「そのかっこじゃ外出られないな……ごめん、今度下着かってくるから……。」と言って顔をそらした。
私はわけがわからずに首を傾げていると、その人は「本題に入ろう!君はどこからきたの?」と声を張り上げた。
「わかりません……酷いめまいがして、気付けばここに……。」
「記憶喪失?君、名前は?」
「白百合です。」
「白百合?へぇ、僕の庭にもあるよ。母さんが好きで何故かもってけって今や花屋敷。食物も多いけどね。まぁでも……植物を育てるのは悪くないよ……。」
ふと見せたやさしい笑顔に私はドキリとした。
「僕のことはどうでもいいね、ごめん。苗字は?」
「苗字?」
私はただ、首を傾げた。
「わからない?やっぱり記憶喪失?」
「あの、私はいつから、どんな風にここにいたのでしょう?」
「僕がそれを聞きたいんだけど……目が覚めたら君が……その、裸でそこに座ってたんだけど。困ったね。家族が心配してるだろうね。警察に届けたほうが……」
私はそう言って立ち上がった彼の服を掴んで首を横に振った。
「あの、よければ……しばらくここにおいてはくださいませんか……?」
「え?」
「ダメ、でしょうか……。」
「い、や……大丈夫っちゃ、大丈夫だけど……いやいや、やっぱ大丈夫じゃないだろ!」
「ダメ、ですか……せめてそこのベランダにでも置いてくだされば……。」
私が沈んだとき、「ベランダはダメだよ!でも、中だって危険だよ、僕、男だし……。」と声がした。
「お慕いしておりました、ずっと。やはり、私がいては、迷惑でしょうか?」
「ずっとって……僕ら会ったばかりだよね……?はは、まいった。そんな必死にうそつかなくてもいいよ、わかった、一緒にくらそうか。君がよければ。」
私は嘘ではないと言いたかったが、ただ黙って頷いた。
「あの、お名前を教えて下さいませんか?」
「え?あ、そっか、僕は江藤 拓よろしくね、白百合……さん?」
「よろしくお願いします。」
ニッコリ笑いかえすと、しばらく拓さんは黙り込んでしまった。
「あ、の?」
顔を覗き込むと、拓さんは小さな声で「まるでエロゲーみたいだ……。」と呟いてそそくさと何かの準備をはじめた。
「エロゲー……?」
首を傾げていると、拓さんは、「知らなくていいよっ!」と焦ったように笑って手を振った。
「君は目のやり場に困るよ……その、いい家の出なんだろうね。」
「……ごめんなさい……。」
「いやいや、君が謝ることじゃないよ。ところで、敬語、やめない?僕ら年、そんなに変わらないでしょ?いくつ?」
「わからない、です……。」
「そっか、ふむ。じゃあ、君が覚えてることは名前だけって事だね?」
ただ、うつむいていると、「ごめん、ごめん、焦る必要はないよ。」と言って拓さんは、困ったように笑った。二年前、この家には女性がいた。拓さんと凄く仲が良かったのに、一年前からぱったりと女性は来なくなってしまった。
拓さんは荒れて、最近ようやく元気になってきたところだ。
私が元気づけられたら、と思ったけれど、元気になってくれたのなら、それでよかった。
百合の花は、ただそこに咲いていた。やはり、私が望んだせいで形は乱れ、花びらが欠けたり増えたり、色が真っ白でなかったりするけれど、でも、醜いというほどの異形はまだ見せていないように思う。
美しくもないけれど。
「白百合、さん?」
「はい?」
「あ、なんでもないならいいんだ。ただ、元気ないように見えたから。」
「元気、です!」
ムンッと力を入れると、拓さんは、ちょっと笑って「じゃあ、朝ごはんでもつくるか。」と言った。