第15話、海上の霧
「見えた! 見えた見えた見えた! あの濃霧だ! あの濃霧だ!!」
兵士の一人が高らかに叫び、船の上の冒険者五人組を見遣る。その肝心の冒険者と言えば、シャーロットとエレノアは船酔いで甲板に倒れこんでいるという散々たる状況である。
「私達の仕事はここまでです! なにとぞ、討伐を!」
兵士は背筋を伸ばして敬礼をすると、船の管理に専念するように号令を下す。どうやら。戦闘は五人に任せるつもりらしい。
「……シャーロット様とエレノア様は船室に運んだほうが宜しいでしょうか?」
「ん、そうしてもらえるとありがたいわ」
号令を下した兵士の提案に、エストは朗らかに微笑む。兵士は再び敬礼を行うと、いわゆる「お姫様抱っこ」の状態でシャーロットを抱え上げ、その様子を遠目に見たもう一人の兵士もエレノアを抱え上げて船室へと向かった。
「うぅ……こうも足場が揺れてると……」
「ふ、ふん……情けないですわね……。これだから田舎者は……」
エレノアとシャーロットが仲良く運ばれているうちにも、戦闘員の三人は凛とした眼差しで前方の霧を見つめていた。
「……どう思うね、アイギス」
「どうもこうもあったものじゃないわよ。本当に攻撃が効かないなんてことを確かめるまではどうしようもないわ」
「はは、これはなんとも頼もしい」
三人は思い思いの言葉を口にすると、それっきり無駄口を叩く事は無かった。既に船はすっかりと濃霧に覆われ、船上の視界すら満足に確保出来てはいない。
まるで白の絵の具を滅茶苦茶に塗りたくったようなその光景の中で、突然アルベルトの体から血が噴出した。エストとゴリアテは驚愕の表情を浮かべ、急いでアルベルトに駆け寄る。アルベルトは右の脇腹と首筋にまるで抉られたような傷を負い、血を流している。幸い傷は深くないようだ。
「な、何が起こったの!?」
アルベルトは冷や汗を流しながら、脇腹を押さえている。動脈までは切断していないのか、赤黒い血が流れるだけである。
「見えなかったが、感触はあった。何かに噛みつかれたか、切り裂かれたような……」
「どっちにしろ、俺には見えなかったぞ? これは本当にやばそうだな」
ゴリアテは盾を体の前面に構えたまま、わずかに顔を出して前方を見つめる。そして何か気付いたのか、耳を澄ます。
「……何だこの音は? 羽音?」
その言葉に、エストは何かを思いついたのだろうか、両手に炎の球を浮かべ、それをぶつけて一つの球にすると前方に射出しようとしている。
突然おぞましいほどの羽音が響き渡り、エストは両腕から血を流した。苦痛に顔をゆがめるが、それでもエストは気丈に笑う。
「思った通り……! こいつらきっと『レギオン』だわ!」
タネを看破したのか、エストは血の流れる腕の先の火球を前方に射出する。拳ほどの大きさだったそれはあっという間に膨張し、空気を焼き払った。キイキイという甲高い悲鳴が海に響き渡る。
「レ、レギオン?」
「その通り。蟲の群れよ。座学を真面目に受けておいて良かったわ」
エストは両手から血を流したまま、次の魔法発動のための詠唱を行う。ゴリアテはそれとなく前に歩み出ると、エストを守護するための陣形を作った。
「あら、ありがとう」
「重騎士の本懐は守護にあり、というからな。それよりその傷は大丈夫か?」
ゴリアテが前を見つめながらエストを気遣うが、エストは柔らかに一回だけ笑うと、「何も問題ないわ」、とだけ答えた。
アルベルトは細かく状況を観察する。現在戦力は三人、そして魔物の正体は蟲の群れ。自らの攻撃ではとてもすべてを駆逐する事は出来ないだろう。そもそも、アルベルトの攻撃は精密精と破壊力はあるのだが、範囲となるとどうしても武器や魔法に劣ってしまう。となれば、どうするか? その答えは既に決まっていた。
レギオンは初弾の炎から脱出し、全身が粟立つような羽音と共に黒い霧の様に三人を包み込む。白い霧と黒い影が混ざるが、決して灰色になる事は無い。
ゴリアテが巨大な盾を軽々と振り回してエストや自らにレギオンを近づけまいとする時に、パンッ、と何かを叩くような音が響く。その「音」にゴリアテとエストは不思議そうな顔を作るが、アルベルトは狂気に満ちた笑みを浮かべながら、拳を高速でレギオンの群れに突きいれていた。その度に音が響き、レギオンが数十匹単位でばらばらになって行く。
「っっしゃぁぁぁぁぁ!!」
無数に乱打を見舞った後に控えていた最後の一撃では、空気の塊が拳圧に押されてさながら空気砲のように前方に射出される。その射線上のレギオンは、須らく羽をちぎられて海中や船上にボロボロと墜ちる。
「噂以上の男だなぁ、あの人は」
「もうあの人一人で良いんじゃないかしらね。っと、それじゃあ最後の一撃! しっかりと味わいなさい!!」
その言葉にすばやくゴリアテは飛びのき、アルベルトの前で盾を構えて立つ。両手を広げて天を見つめたエストは巨大な火球を生んだ。
「秘術『必殺』! パイロキネート!」
巨大な火球はゆっくりと船の先端、いや、海上へと向かい、そしてエストは再び魔力を集中させると最後の詠唱を呟いた。
「イグニッション!!」
大気が燃え上がる。それは比喩でもなんでもなく、確かに船を避けるように、いや、「味方」を避けるように大気が炎に包まれたのだ。てっきり周囲が炎に包まれると思ったのか、盾を構えていたゴリアテは呆けたように盾を脇へと除け、背後のアルベルトを見つめた。
周囲の霧は徐々に薄まり、そして霧の向こう側へと船が抜けた。炎の渦巻く船上の戦場をなんとか生き抜いた兵士達は顔を見合わせるとゆっくりと笑みを浮かべる。
「抜けた……! 抜けたぞ! 魔の霧を抜けた! これで交易が出来るはずだ!!」
船の操縦を放り出して、兵士達は高々と手を掲げ、目に涙をにじませるものさえもいる。アルベルトとエスト、そしてゴリアテは互いに顔を見合わせると、息を吐きながら温和な笑みを浮かべた。
――――
「しかしまさかレギオンとはねぇ」
領主邸の食堂にて、エストは一人呟く。なぜ彼女達がこんな場所にいるのかと言えば、魔物討伐の際の感謝の気持ちをありがたく受け取ったから、としか言いようが無い。魔物討伐の報告を行ったシャーロットとエレノア(こういう報告は自分達よりも手馴れているだろう、と半ば押し付けられた)に、領主は諸手を握って深く頭をたれ、報酬さえも用意していたのだ。それは現金ではなかったが、無期限、回数制限なしの乗船券という、冒険を行う上では大変便利な代物である。加えて領主は晩の寝床と、船が出るまでの食事さえも面倒を見てくれると言うのだから、シャーロット達はその提案に甘える事にしたのだ。
シャーロットとエレノアは今までの冒険談を兵士達に聞かせ、互いに無邪気に笑いあっている。どうやら、船酔いで二人ともダウンしている間に何かあったようだ。エストはわざと人の群れから離れ、極力目立たないような場所で一人ワインを飲む。彼女には、何かが引っかかっているのだ。
「(レギオンが海上に現れるなんて聞いたこと無いわ。あいつらは本来森とかに生息しているはずなんだけど)」
エストはアルコールが脳を侵す状況で、考えをめぐらせる。何回考えても、答えは一つしか出てこない。
「(魔王がまた動き出してるのかな)」
視界がくらくらと揺れる中、エストはグラスに残るワインを飲み干すとふっと穏やかな笑みを浮かべ、大きく息を吸って人の群れの中に歩み寄る。どうやら、今晩は宴を楽しむようだ。
そして、人の群れから離れていたのはエストだけではない。アルベルトとゴリアテも、その生来の性格からか人の群れから離れ、黙々と食事を愉しんでいた。
「……貴殿はこの後どうするつもりだ?」
アルベルトはシャーロットとエレノア、そしてエストを遠目に見ながら尋ねる。ゴリアテも女性三人を見つめたまま、回答を導いた。
「さて、どうするかな。エレノアの気分次第、というところだ」
グラスを傾け、ゆっくりとゴリアテはワインを呷る。互いに顔を見合わせる事は無い。
「ところで、貴方は先ほどからワインを飲んでいないように思えるが……もしや下戸か?」
「いや、筋肉と判断力が鈍るから好まないだけだ」
その回答に、ゴリアテはワイングラスをテーブルに置くと、大きく息を吐いた。
「根っからの武人だな、貴方は」
「境遇が境遇故に、だ」
ぶっきらぼうにアルベルトは呟き、料理を口に運ぶ。そんな様子を横目に見ながら、ゴリアテは再び、ゆっくりとワインを呷った。