第11話、東方快進劇
薄い日の光が周囲を照らす中、ぱしゃぱしゃという水音が静まり返った空間に溶けて行く。水音の主はエストであった。彼女はアルベルトとの夜間警戒の交代を行い、朝の日差しが訪れようとする時間に衣服を脱ぎ払って水浴びを行っているのだ。夜はスキンダウナーとの戦闘もあり、それで無くても風呂やシャワーを浴びれなかったのは、彼女にとっては耐えがたい事だったようだ。
エストがその小柄な体を湖の水で清めている間にも、休む事無く太陽は上昇を続けている。
「ふぅ……」
エストはそれでもまだ薄暗い空中に向けて、一つ息を吐く。彼女の胸の中には、いくつかの心配事がしこりのように存在しているのだ。先ず一つは、これからの中継地のこと。
先日シャーロットが述べたように、ヴァルコラキ帝国を経由するのは、彼女としては歓迎できる事ではない。短い兵役が終了し、自由を手に入れた彼女であったが、通例、彼女達「鉄后騎士隊」はそのまま兵役を続けるのが慣習となっている。そんな事を気にせず、気ままに吹きすさぶ風のように行動していた彼女にとっては、旧友達との気まずい空気は望みたくないものなのだ。
そしてもう一つは、「全身凶器」アルベルト・ウィンディの存在である。ほんの少しでも武術や戦闘術に心得がある人間ならば確実に知っているであろうその名前は、並みの人間からしたら恐怖の象徴以外の何物でもないのだから。
今は亡き国を魔物から防ぐために修羅道に身を落として鬼神の如く戦い、そして亡国を枕に最後まで戦い、散った……はずだった。そんな男が実際に彼女の前に存在し、そして、あろうことか一人の少女と穏やかに言葉を交わす様は、とても彼女には信じられない事だった。
「アルベルト・ウィンディ……」
彼は一体何物なのだろうか、そんな疑問がエストの頭に、まるで泡沫のように浮かんでは消えて行く。だが、エストは大きく首を横に振ると、自らの頬を両手で軽く叩いた。
「まあ、考えたってどうしようもないわよね」
鋭い眼差しを浮かべ、エストは濡れた髪から水気を取る。そしてぱしゃぱしゃと音を立てながら。服を脱いだ場所へ向けて歩き出す。水面が揺れ、鋭く光を返した。
――――
すっかりと朝日は昇りきり、パーティの全員がすっかりと準備を終えた頃、エストがシャーロットに尋ねる。
「今日はヒューゲントまでが目標だっけ?」
「はい、ここから東に行けば、お昼までには着けるはずです」
地図に目を落としながら応える様子に、思わずエストは微笑む。外見だけでは臆病そうな少女だが、その実、芯は強く、そして何よりも、同年代よりも聡明で勇敢である。一体自らはこれくらいの年頃は何をしていただろうか、とエストは回想し、そして乾いた笑いを一つ落とした。
どう考えても、目の前の少女よりも優れてなどいなかったのだから。
「っていうか、ヒューゲントからヴァルコラキに行くには海路を使わないと駄目よ? 船に乗るだけでも数日かかるだろうし、船の上でも数日かかるから、準備をしておかないとね」
エストの言葉に、先ほどまで沈黙を貫いていたアルベルトが言葉を挟む。
「戦利品は随分手に入ったから、金銭面での心配は当面無いだろう。物資の問題は何とかなるが、それ以上に問題なのは精神面での問題だ」
「うん、それは当然。船酔いは辛いし、何より陸に足をつけられないのが一番辛いかな」
二人の言葉に、とたんにシャーロットは顔を青くする。どうやら、心配なようだ。そんな様子を察したのか、エストはにっこりと、朗らかに笑みを浮かべると、シャーロットの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「大丈夫大丈夫、海が荒れなきゃほとんど揺れないし、ゆっくり休んでられる時間だと思えば辛くないから」
その言葉に、少しは不安を払拭できたのか、シャーロットは頷く。つくづく、浮き沈みは激しい。
「……とはいえ、いつまでもここで休んでいるわけにもいくまい。また魔物が出るとも限らない以上、一つの場所に留まるのは危険だ」
「それはいかにもだわ。っていうか、マールが黙りっぱなしなのが余計に不安なんだけど」
エストはシャーロットの腰の鞘に視線をやりながら、悪戯っぽく言う。すると、その鞘、マーレボルジェは不満そうに言葉を紡ぐ。
「失敬な、儂とて喋るのは疲れるのじゃ。というか、マールと言うのは儂の銘かえ?」
「そ、マーレボルジェだから、マール。良い愛称でしょ」
エストの言葉に、マーレボルジェはからからと笑うが鞘は微塵も震えない。まるで傍に見えない人間がいるようだ。
「んむ、悪くない、じゃがそれなら初めから儂の銘はマールで良いのではないか?」
マーレボルジェの言葉に、エストは大げさに、呆れたようなジェスチャーを浮かべる。
「あなたはどう転んでも『悪の嚢』なのよ。第一印象が重要だって言うのが嫌って言うほどわかったわ」
「あらやだ、言葉責めってやつ? おねーさん新しい刺激に興奮気味」
あまりにも場違いなその言葉に、にっこりとエストは笑みを浮かべる。虚空に炎が咲く。
「それ以上言ったら鋳溶かして海に沈めてあげるわよ?」
「ごめん、本当にごめん。さすがの儂もその刺激はレベル高い」
エストとマーレボルジェが寸劇を繰り広げ、シャーロットがおろおろと慌てている間にも、アルベルトはテントを畳んで背負っていた。
「っと、こんな事してる場合じゃないわよね。さて勇者ちゃん、出発の号令をかけてくれるかな? こういうのはやっぱり勇者ちゃんじゃないとしっくり来ないわ」
空中で燃える炎を消すと、エストはハルバードを右手に持ち、言う。シャーロットは軽く頷くと、息を吸い込んだ。
「それでは、ヒューゲントへ向けて、出発しましょう!」
シャーロットが高らかに宣言すると、おー、女性の声が青空に溶ける。アルベルトはそんな様子を一瞥するだけで、特段の反応は示さない。
「おい色男、主も鬨の声を上げんか。はーい色男だけやりなおしー」
マーレボルジェが不服そうな声色で言うと、呆れたようにアルベルトは息を吸い込み、そして一つ、声を落とした。
「応」
――――
「……ということは、魔法とは強固な想像力と精霊の力を利用して発現するわけですか?」
「おお、完璧! そういう事、だからすべての属性を学ぶよりは一つか二つの属性に手を出して、それからキャパシティを広げていくって感じかな。っていっても、私は凡才だから3属性がやっとだけどねー」
さくさくと草を踏み分けながら、一行は東、ヒューゲントへと向かう。行軍を開始してはや一時間が経過しようとしているが、幸いにもまだ魔物には遭遇していない。さすがに精神を張り詰めるのも疲れたのか、エストはシャーロットに魔法についての講義を行っている。
「勇者ちゃんは魔法を使いたいのかな?」
「はい。その……アルベルトさんの怪我が心配なので、回復系の魔法だけでも」
エストの問いに、一段声量を落としてシャーロットが答える。その回答に、エストは目を丸くして前方を歩くアルベルトを見つめる。そしてくすくすと笑うと、シャーロットの頭をわしわしと撫でる。
「やっぱり勇者ちゃんは勇者ちゃんだねぇ。よし、私が持ってる魔法知識は全部あげるから、一人前の回復術師を目指してみようか?」
エストのその言葉に、シャーロットの瞳が輝く。そして、力強く、何度も首を縦に振った。
「ほう、主は回復魔法にも通じておるのかえ?」
マーレボルジェはそう呟くと、エストはふふん、と鼻を鳴らし、自慢げに目を閉じた。
「それは当然! なんと言っても私はエリート部隊の後方支援の要! 敵の前線へ飛ぶ火球や氷の飛礫の破壊力たるやそれはまさしく――」
言葉を紡いでいる最中だが、ぴくりと体を震わせると、エストは目を開けて前方のアルベルトを見つめる。それと同時に、アルベルトは軽く体を開き、戦闘体制を作る。エストも背負っていたハルバードを手に持つと、アルベルトの横へと駆けだす。
「魔法の破壊力、とくと見せてもらおうか」
「あちゃあ、聞こえてた?」
くすくすと喉を鳴らし、エストはおどけたように言う。アルベルトもわずかに笑みを浮かべると、前方に鋭い視線を向けた。
前方にいたのは、なんと言う事は無い、ただの八体のゴブリンだ。しかし、問題はその武装であった。どこから調達したのか、傷ついた鎧甲冑に鉄の弓を引っさげ、草の中から鏃と少しだけの体を出して、一行を狙撃する腹積もりのようだ。
エストとアルベルトの額に汗が伝う。
「参ったなぁ……遠距離の相手は苦手なんだよなぁ……」
「近づければ確実に討てるが、近づくまでが鬼門か」
二人は身動きする事は無く、策をめぐらす。ゴブリンもそれを理解しているのか、やすやすと弓を引いたりしない。そうしてしまえば、確実に戦闘が始まり、攻撃されるのだから。
一種の膠着状態に陥るかと思われた瞬間、マーレボルジェは朗らかな声を発する。
「やあやあ、お困りか、ならば年の功をお見せしよう。おい娘っ子、剣には触れんでくれや?」
あまりにも場違いな声色に、アルベルトとエストは軽く苛立ちを覚える。しかし、続いて彼らに起こった変化は、驚愕するに十分な事であった。
柔らかな風が一陣吹きぬけると、エストとアルベルトは驚愕の表情を浮かべてマーレボルジェを見る。その視線に気付いたのか、マーレボルジェはからからと笑いながら言葉を紡いだ。
「骨董品のような魔法じゃよ、体を羽の軽さにする魔法じゃ」
マーレボルジェが解説を行っている間に、既にアルベルトは笑みを浮かべて敵陣に矢のように突っ込んでいた。
突然の行動に対処できなかったゴブリンが慌てて矢を放つが、矢は空中で破壊音を立てて地面に落ちる。アルベルトは黒い影と化して、ゴブリンの群れに突き刺さった。
肉を打つ音と悲鳴が空気を震わせ、そして静寂が訪れる。八体ものゴブリンは、ほんの一瞬で死肉の塊へと変貌していた。身につけていた鎧は無残にもひしゃげ、弓もいくつかはへし折れてさえいる。
「……儂の魔法は速度強化だけじゃったはずじゃが」
あまりの惨状に、マーレボルジェは不思議そうに言葉を紡ぐ。すっかりと出番を無くしたエストは、軽く息を吐くとハルバードを背負う。アルベルトは、戦利品の回収に忙しいらしい。
「あの人を常識に捕らえないほうがいいわ。全然底が見えないもの」
エストはちらりとシャーロットの方を振り向き、軽く息を吐く。
「なんだかんだで、このパーティも結構バランス良いんじゃない? 近接火力特化に遠距離魔法展開、そんで補助魔法使い。勇者ちゃんが回復術師になってくれれば、もう怖い物は何も無いわね」
ふっと穏やかな笑みを浮かべ、エストは言う。柔らかな風が、一陣駆け抜ける。
「……それにしても、彼は本当に規格外だわ。鎧ごと体を砕くなんて、帝国の座学なら零点の回答よ?」
エストの呟きが聞こえたのか、アルベルトは両手を血でぬらしたまま、くるりと振り返り、言葉を紡いだ。
「小細工は必要ない。ただ己の拳足を以って障害を貫くだけだ」
その言葉に、むっとしたようにエストは質問を続ける。
「そのご自慢の手足で倒せない敵が現れたらどうするつもりなのかしら?」
その質問に、アルベルトは至極当然、と言った様子で言葉を返す。
「何、ゴーレム程度の硬さなら削り取れる。それに、生物であるならば急所が存在するはずだ。そこを打ち抜く」
なんとも出鱈目な回答に、エストは思わず、深くため息を吐いた。
「あなたみたいな人が帝国の武術教官じゃなくて良かったとつくづく思うわ」
「武術は人を選ぶものだ。私はこの戦い方がしっくり来るからこの戦い方をしているだけさ」
その言葉に、思わずエストは言葉を詰まらせる。そしてアルベルトも、物色を再開した。二人の空気を険悪なものと受け取ったのか、シャーロットはおろおろと二人を交互に見ているが、それに気付いたエストは微笑むと、シャーロットの頭を撫でる。
「まったく、つくづく規格外ね、あの人は」
呆れたような顔で、エストはアルベルトを見つめる。ハルバードが鈍く陽光を返し、潮のにおいを乗せた風が、徐々ににおいを強めていた。






