第三章 等価の夜
魔導士は、眠らない。
正確には、眠る必要がなかった。魔力の循環を維持するため、浅い休息を断続的に取るだけでよかった。その代わり、思考は止まらない。止め方を、彼はとっくに忘れていた。
魔王討伐の夜、彼は一人、転移陣の制御核の前に立っていた。刻まれた術式は完璧だった。誤差も、無駄もない。人が設計したものではなく、世界そのものが要請した形だった。
魔法とは、願いではない。
交換だ。
力を得る代わりに、何かを差し出す。その比率が狂えば、術は暴走する。だから魔導士は、感情を排除する。迷いは誤差を生むからだ。
吟遊詩人は、後ろにいた。
彼は何も言わない。ただ、音を立てずに呼吸していた。その存在は、計測不能な変数だった。だが、排除できない。彼はいつも、そこにいた。
転移陣を起動すれば、魔王の間へ直行できる。その代償として、陣の外縁に設定された安全域は消える。術式は告げていた。境界に残ったものは、魔力の奔流に呑まれる。
境界に、影があった。
剣士が斬れなかった、子どもだ。
魔導士は計算した。距離、魔力量、発動までの時間。救出は不可能ではない。だが、成功率は七割を切る。その場合、転移そのものが失敗する確率が跳ね上がる。
魔王が目覚めれば、被害は拡大する。城下だけでは済まない。数千、数万という単位になる。
魔導士は、術式を書き換えた。
境界を一歩、内側に寄せた。
その変更は、誰にも気づかれない。気づかれないように、設計した。
子どもは、境界の外に残った。
転移陣は起動し、魔王は討たれ、世界は救われた。
等価だ。
誰もがそう言える。誰もがそう言わなければならない。
吟遊詩人だけが、書いた。
――境界が、動いた。
それだけを。
祝宴の席で、魔導士は酒を飲まなかった。酔いは判断を鈍らせる。だが本当は、酔えなかった。計算は終わっている。結果も出ている。なのに、どこにも終わりがない。
「正しかったんだろ」
誰かが言った。
魔導士は、頷いた。
正しかった。だからこそ、誰も責任を取らない。
四日目の朝、吟遊詩人は死んだ。
魔導士は理解した。
あの男は、境界の外に残されたものを、全部引き受けたのだと。
歌にしなかった剣。
動かされた境界。
祈りに含めなかった死。
それらを束ね、物語の外へ運び出した。
等価ではない。
そんな交換は、本来、成立しない。
だが、成立してしまった。
魔導士は、その事実だけを、否定できなかった。
否定できないものを前にしたとき、人は理屈を失う。
魔導士は初めて、魔法ではない震えを知った。




