第二章 剣が折れる音
剣士は、朝になると必ず刃を拭いた。
血は落ちている。油も差している。だが彼は、布を当てる角度と力を毎日変えた。昨日と同じやり方をなぞることを、避けているように見えた。
「刃は正直だ」
かつて彼はそう言った。だが正直なのは刃ではない。刃を使う人間が、どこに力を入れ、どこで躊躇したか――それが残るだけだ。
礼拝堂の梁を見上げたあの日から、彼は一度も上を向いていない。視線は常に水平より下。床、影、剣。世界を切り分けるための線だけを見ていた。
夜、俺は彼の部屋を訪ねた。ノックに返事はない。だが、逃げる音もしなかった。鍵は掛かっていなかった。
部屋は整いすぎていた。戦いを終えた男の部屋ではない。何かを終わらせる前の部屋だ。
剣が、壁に立てかけられていた。
魔王の城で、最後に振るわれた剣。その刃先に、微細な欠けがある。ほんの髪の毛一本分。だが、見逃せない。
「……それ、いつのだ」
俺の声に、剣士は背を向けたまま答えた。
「魔王の、直前だ」
直前。
魔王を斬った剣は、欠けていない。つまり、この欠けは――その前。
「誰を斬った」
沈黙。
彼は、剣を取った。握りが強すぎて、革が軋んだ。
「斬ってない」
否定が、即座に出た。考える前に出る言葉は、いつも一番危険だ。
「斬ろうとした」
俺は言い直した。
剣士の肩が、わずかに下がった。
魔王城の最上階。転移陣の前。魔王の間へ至る、最後の通路。
そこに、子どもがいた。
魔王に従う眷属ではない。武器も持たない。逃げ遅れた、城下の子どもだ。震えながら、通路を塞ぐように座り込んでいた。
「どけ」
剣士は言った。
子どもは、首を振った。
後ろには、転移陣。作動させれば、魔王の間へ行ける。時間はなかった。魔導士は魔力を溜め、聖女は祈りの準備に入っていた。
剣士は、剣を振り上げた。
そのとき、吟遊詩人が歌った。
戦場では不釣り合いな、静かな旋律。意味のない歌詞。だが、その声は確かにそこにあった。
剣士の腕が止まった。
止まった刃が、石壁を掠めた。その欠け。
子どもは、逃げた。
その数秒で、魔王は覚醒した。
「結果は同じだ」
剣士は言った。
「勝った。世界は救われた」
正しい。正しすぎる。
「でも、俺は」
彼は言葉を探した。剣を振るよりも、難しい動作だった。
「俺は、あのとき」
――斬れなかった。
その言葉は、声にならなかった。
吟遊詩人は、見ていた。
斬らなかった英雄と、斬られずに生き延びた子どもと、そのせいで生じた数秒の遅れと、その遅れがもたらした犠牲を。
誰も責めなかった。
誰も称えなかった。
ただ、歌われなかった。
剣士は、剣を壁に戻した。
「強い剣は、迷わない」
彼は言った。
「でも俺は、迷った」
迷いは、罪ではない。
だが、迷いを英雄譚に乗せないと決めた瞬間から、それは誰かの中で腐り始める。
吟遊詩人は、その腐敗を、全部見ていた。
「……だから、あいつは」
剣士の声が、初めて震えた。
「俺の代わりに、終わらせた」
自殺ではない。
処理だ。
剣士は理解した。理解してしまった。
そして、その理解に、耐えられなかった。




