第一章 勝利の残骸
第一章 勝利の残骸
魔王が死んだとき、世界は拍子抜けするほど静かだった。
終焉とは、本来、もっと暴力的で、もっと無慈悲なものだと俺は信じていた。天が引き裂かれ、大地が軋み、積み重ねられてきた憎悪や呪いが、音と光と痛みを伴って清算される――そうした破壊の果てにしか、終わりは訪れないはずだった。
だが実際には、何も起こらなかった。
叫びもなく、爆ぜる気配もなく、断末魔すら与えられなかった。ただ、長いあいだ張りつめていた何かが、誰にも聞こえない音で切断された。それだけだった。
空は青かった。
雲は、戦争という言葉を知らないかのように、ゆっくりと形を変えながら流れていた。
その光景が、ひどく現実離れして見えた。数え切れない死の上に成り立っているはずの平穏が、まるで最初から用意されていた背景画のように、無傷でそこにあったからだ。世界は、犠牲の重さを一切背負おうとしなかった。
俺たちは剣を下ろした。
刃についた血はまだ乾いておらず、指先には戦闘の震えが残っていた。それでも、勝利という言葉は喉を通らなかった。口にすれば、何か取り返しのつかないものを確定させてしまう気がした。
誰も「終わった」と言わなかった。
それは安堵ではなく、拒絶だった。
世界のほうが、先に終わったのだ。
俺たちを置き去りにして。
城下へ戻ると、すでに祝福が始まっていた。魔王城で何が起きたのかを知らない人々は、結果だけを受け取り、それを祝う準備を整えていた。終わりの理由ではなく、終わったという事実だけが、彼らには必要だった。
酒は絶え間なく注がれ、肉は裂かれ、英雄の名が何度も呼ばれた。その声には感謝よりも安堵が混じっていた。自分たちはもう恐れなくていいのだと、誰かに保証してほしかったのだ。
人々は俺たちを見ていた。だが、その視線は俺たち自身ではなく、俺たちの向こう側にある「安心」を見ていた。血に濡れた剣も、震えの残る手も、選択の重さも、そこには映らない。
彼は、その輪の外側にいた。
柱にもたれ、竪琴を抱え、騒音から半歩退いた場所で、人々の表情を一つ一つ確かめるように眺めていた。歌い手としての位置取りとしては正しかったが、そこには観察者の距離があった。
吟遊詩人。剣も魔法も持たない、戦場では役に立たない存在。だが同時に、戦場のすべてを見届ける立場に立たされた男だった。
彼は戦わなかった。その代わり、逃げなかった。誰かが倒れる瞬間も、誰かが目を逸らした瞬間も、そこに立ち、記録する役目を引き受け続けた。
祝宴の三日目、彼は歌った。
六人の仲間が力を合わせ、正しい選択を積み重ね、犠牲を出すことなく魔王を討った物語。血の匂いは消され、恐怖は整えられ、後悔は存在しないものとして扱われた。
それは、人々が安心するために必要な形を、寸分違わずなぞった物語だった。
最後の一節。
――そして彼らは、生きて帰った。
拍手が起き、歓声が湧いた。その音は祝福というよりも、確認に近かった。もう終わったのだと、何度も自分たちに言い聞かせるための音だった。
その中で、彼は一瞬だけ呼吸を止めた。まるで、その一文を吐き出すことで、何かを体内に押し戻したかのように。その言葉は、喉に異物として残ったままだった。
四日目の朝、彼は死んでいた。
宿屋の裏手、使われなくなった礼拝堂。かつて祈りが集まり、救いを信じる声が満ちていた場所は、今では形だけを残し、意味を失っていた。湿った木材の匂いと、長く放置された埃が、空気に重く沈んでいた。
梁から下がる縄。その先に、彼はいた。
不思議なほど静かな姿だった。暴れた形跡はなく、拒んだ痕跡もない。恐怖に抗った兆しすら見当たらなかった。ただ、自分がそこへ至るまでの時間を、すべて引き受けたように見えた。
彼は、追い詰められたのではなかった。
選ばされたのでもなかった。
そこに至った――そう表現するほうが、近かった。
自殺という言葉が、その光景に貼り付けられた。原因と結論を一息に片づけてしまう、都合のいい言葉だった。その便利さが、この死から考える時間を奪っていくのが、俺には耐えられなかった。
聖女は膝を折った。癒やしの言葉を知り尽くした口で、何も言えず、ただ彼の名を繰り返した。祈りは、ここでは役に立たなかった。
剣士は梁を睨みつけ、拳を握りしめていた。怒りの行き場を探すその視線は、やがて自分自身に戻っていくように見えた。
魔導士は一歩下がり、目を伏せた。その沈黙は、無知のものではなかった。知っている者が選ぶ沈黙だった。
盗賊は反射的に笑い、すぐに口を押さえた。それは生き残った者が、死を前にしたときに無意識で行う、防衛の表情だった。
俺だけが、動けなかった。
なぜ死んだ。
なぜ今だ。
魔王は死んだ。世界は救われた。そのはずなのに、ここには終わりの感触がなかった。
彼の荷物に、遺書はなかった。責める言葉も、助けを求める痕跡もない。
一冊の手帳だけが残されていた。革の表紙は何度も触れられた痕があり、角はすり減っていた。持ち主が迷ったとき、無意識にそこに指を置いていたことがわかる。
中身は、驚くほど淡白だった。日付、場所、起きた出来事。それだけだ。感情を示す言葉は意図的に避けられており、評価も感想も一切ない。
だが、違和感は量ではなく、選択にあった。書かれているのは起きたことすべてではない。迷った瞬間、誰かが目を逸らした瞬間、取り返しのつかない選択が確定した瞬間――そうした「戻れなくなった点」だけが、正確に記されていた。
それは記録ではなく、切断線の一覧だった。
最後のページには、紙が一度だけ強く押さえつけられた痕とともに、一行だけが残されていた。
――「物語は、ここで終わる」
それは嘆きではなく、逃避でもなかった。続きを書けなかったのではない。あえて、ここで線を引いたのだ。
それは嘆きではなく、線を引くための言葉だった。
葬儀は簡素だった。国は英雄の仲間としての式を提案したが、俺たちは断った。彼はそういう人間だった、と誰かが言い、誰も反論しなかった。
棺が土に覆われる音を聞きながら、俺は理解してしまった。
誰も、理由を欲していない。理由は勝利を汚し、理解は英雄を壊す。
だが、俺は知っている。彼は弱くなかった。むしろ、生きる理由を持ちすぎていた。
だからこそ、この死は選択だった。逃げでも敗北でもない。誰かのために行われた、処理だった。
俺は決めた。この死を歌にはしない。英雄譚にも組み込まない。理解できないまま、理解したふりをすることもしない。
理由だけを掘り起こす。誰かを救うために隠された理由を、誰かが背負うことで保たれた沈黙を。
たとえそこから現れるのが、世界の闇ではなく、俺自身の名前だとしても。
勇者の物語は、ここで終わった。
――そして、語られるべきでなかった物語が、静かに、確実に、息を始めた。




