第6話 美桜式メイク地獄サバイバル
翌日から美桜による特訓地獄が始まった。
「まずは基本的なメイクから」
美桜の部屋は化粧品で埋め尽くされていた。ドレッサーの上だけでなく、床にまで化粧品が散乱している。
「こんなに道具が必要なの?まるで理科室の実験器具だな……」
美月が呆然とする。そこには見たこともない謎の化粧品がずらりと並んでいる。部屋を見回すたびに、新たな謎の器具が目に飛び込んできた。
(これが女の世界か……)
美月は心の中でつぶやいた。男の世界では、髭剃りと整髪料があれば十分だったのに。
「これでも基本セットよ。プライマー、コンシーラー、ファンデーション、パウダー、チーク、アイシャドウ、アイライナー、マスカラ、眉毛用品、リップ……」
美桜が指差しながら説明するが、美月の頭は完全にオーバーヒート。聞いたことのない単語が次々と飛び出す。
(もう最初から誰かに任せたい……)
「ちょっと待て!プライマーって何だよ!車の塗装かよ!」
美月の突っ込みはあながち間違いではない。車の塗装でも、プライマーは金属表面に最初に塗る下地塗料として使われる。車体の防錆や上塗り塗料の密着性を高める重要な役割を果たすのだ。化粧におけるプライマーも、それと似たような位置づけなのである。
「肌の下地よ」
「コンシーラーは隠蔽工作?」
「欠点を隠すものよ。シミとかクマとか、ニキビ跡とか」
「やっぱり隠蔽工作じゃねえか!」
「男の骨格を隠すのは大変なのよ。特に眉毛!男性の眉毛は太くて濃いから、女性らしく整えるのが一苦労」
美桜が美月の眉毛を見つめる。その視線が段々と険しくなっていく。
「うわあ……ボーボーじゃない。これは大工事ね」
「大工事って……俺の顔はビルの建設現場かよ。ヘルメットが必要か?」
「しかもこの骨格……男性特有の角ばった輪郭をどうやって女性らしく見せるか……」
美桜が美月の顔を様々な角度から観察する。まるで彫刻家が大理石を見定めるような真剣な眼差しだった。
「あ、でも目は大きいから有利ね。昔のあんたが活躍してた頃の面影が残ってる。もしかして前世は女性だったのかも」
「前世って何だよ!スピリチュアルかよ!やめろよ、そんな昔の話……」
◆
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まずファンデーション選びから苦戦が始まった。
「肌色に合わせて……美月の肌は結構色白ね。でも男性の肌は女性より脂っぽいから、パウダーファンデーションの方がいいかも」
「脂っぽいって失礼な」
「これは化粧学における基本常識なの。男性は皮脂の分泌量が女性の約2倍なの。あなたの顔、特にTゾーンがテカテカ光ってるじゃない」
「化粧学って学問かよ!そんなこと言われても……生まれつきなんだよ」
(俺が悪いんじゃない。皮脂腺が悪いんだ)
美月は心の中で皮脂腺に謝罪を求めた。生まれつきの体質に文句を言われても困る。
美桜が複数のファンデーションを美月の頬に塗って色を比較する。
「うーん、これだと少し暗いかな。これは明るすぎる。あ、これなら自然ね」
10種類以上のファンデーションを試した結果、ようやく肌色に合うものが見つかった。
ファンデーションの厚塗りで顔が不自然になってしまう。
「俺の顔、どこ行った……まるで証人保護プログラムだ」
鏡に映る自分を見て絶望する美月。確かに元の顔が全く分からない。別人どころか別の生き物になった気分だった。
「厚塗りしすぎよ。薄く、薄く、均等に伸ばすの」
美桜が手本を見せながら教える。
たかが肌、されど肌。肌をよく見せることがこんなにも難しいものとは、美月は思い知らされた。
男は肌なんて洗顔料で洗って終わりだと思っていた。しかし女性の世界では、肌は芸術作品のキャンバスだったのだ。
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「眉毛カットは私がやるから動かないで」
美桜が眉毛用のハサミとピンセットを持ち出す。
「痛っ!いだだだだ!拷問だ!自白します!何でも自白します!俺がやりました」
「一体何をやったのよ!美は我慢よ。それより動くと怪我するから静かにして」
眉毛を整える度に美月が「痛い痛い」と騒ぐ。痛みで意識が朦朧としてきた。
「昨日コンビニで立ち読みしました!」
「そんなことどうでもいいから動かないで!」
「あ、あと中学の時、給食のパンを一個多く取りました!」
「だから関係ないって!」
「男性の眉毛は毛が太くて根深いから、抜く時に痛いのよ。でもこの形を維持するには必要な痛みなの」
「拷問かよ...」
30分かけて眉毛を整えた結果、確かに女性らしい形になったが、美月の額は戦場のように真っ赤になっていた。
「お疲れ様!眉毛完成よ」
「俺の額、まるで梅干しみたいに真っ赤じゃねえか」
「冷やせば治るから大丈夫よ」
美月は額を押さえながら鏡を見た。確かに女性らしい眉毛にはなったが、代償が大きすぎる。
「これで眉毛完成。次はアイシャドウ」
「まだあるのかよ……」
◆
「目を大きく見せる技術よ。男性の目は女性より小さく見えがちだから、アイシャドウで錯覚を作るの」
美桜がアイシャドウパレットを開く。そこには20色以上の色が並んでいる。
「こんなに色があるの?まるで絵の具セットだな。俺の顔に絵を描く気か?」
「失礼ね。これは芸術よ。基本は3色使い。ベースカラー、ミディアムカラー、ダークカラーを組み合わせるの」
「芸術って……俺はキャンバスかよ」
美月は自分の顔を触ってみた。確かにキャンバスのように真っ白になっている。
アイシャドウを塗る時、美月の目がピクピク動く。
「目をつぶって!動かないで!」
「怖いんだよ!目の近くで筆を動かすなんて」
「大げさね。赤ちゃんみたい」
「筆が目に刺さったらどうするんだよ!失明したら責任取れるのか!」
「そんな大事にならないから。筆先が目に入らないように注意してるから大丈夫よ」
「でも怖いものは怖い!」
美月は完全にビビっている。目の周りに何かが近づくと反射的に顔を引いてしまう。
美桜が慎重にアイシャドウを塗っていく。
「次はアイライナー。これが一番難しいの」
「もっと難しいのがあるのかよ...」
アイライナーを引く時、美月の目がさらにピクピクする。
「目を開けてて。瞼の際に線を引くから」
「無理だって!反射的に目をつぶっちゃう!」
美月の目がピクピクと痙攣する。
「ほら、また瞬きした!線がガタガタになったじゃない」
「生理現象なんだから仕方ないだろ!」
「はい、やり直し」
結局、アイライナーを引くのに15分もかかった。美月はすでにぐったり。
「毎日やってれば慣れるから」
「15分は長すぎるでしょ...」
◆
リップを塗る段階で、美月はすでにぐったり。
「まだ終わらないの?」
「最後にリップよ。これで完成」
美桜がリップブラシにリップを取って、美月の唇に塗り始める。
「なんか変な感じ……唇がべたべたする。これ食べ物食べられるのか?」
「慣れるわよ。男性の唇は女性より薄いから、少しオーバーリップ気味に塗って厚みを出すの」
美桜が堂々と言い切った。美月は舌で唇を舐めそうになって慌てて止めた。
「ようやく基本メイクが完成よ」
時計を見ると、2時間が経過していた。
「2時間もかかってるじゃねーか!」
「慣れれば30分でできるようになるから」
「30分でも長すぎる...」
美月が鏡を見ると、確かに女性らしい顔になっているが、本人には違和感しかない。
「俺って……こんな顔だったっけ?誰だこいつ」
美月が鏡の中の自分を指差す。鏡の向こうから知らない美少女が見つめ返してきた。
「メイクって魔法みたいでしょ?」
「魔法っていうか……詐欺だろこれ。完全に別人じゃねえか」
「失礼ね。テクニックよ、テクニック」
◆
◆
翌日、メイクの練習2日目。美月の手つきは相変わらずぎこちない。
「ファンデーションは薄く伸ばすの。厚塗りは不自然に見えるから」
美月がファンデーションを塗ろうとするが、手が震える。
「緊張で手が震えてる……」
「落ち着いて。深呼吸して」
しかし、深呼吸した瞬間にパウダーが舞い上がってくしゃみが連発。
「ハックション!ハックション!ハックション!」
「あー、せっかく塗ったファンデーションが……」
ファンデーションが飛び散って、美月の顔がまるで迷彩服のようなまだら模様に。
「俺の顔、戦場じゃねえか」
「もう、鼻水も出てるし。ティッシュで拭いたらさらにファンデーションが取れるし……」
美桜が頭を抱える。
「やり直しね」
振り出しに戻る美月。努力が水の泡になった瞬間だった。
「俺には向いてないんじゃないか?メイクの才能皆無だわ」
「慣れよ、慣れ。毎日やってれば絶対上達するから」
「毎日って...あと何日これが続くんだよ」
「1ヶ月は見といた方がいいかしらね」
「1ヶ月!?それ懲役1ヶ月じゃねえか!」
美桜が励ますが、美月の憂鬱は深まるばかりだった。カレンダーを見ると、まだ29日も残っている。
「でも美月、昔の写真を見たけど、子役時代はメイクされてもちゃんと女の子に見えてたわよ」
「あの頃は他の人にメイクしてもらってたからな……」
美月の頭の中に、子役時代の記憶が蘇る。メイクさんが優しく顔を整えてくれた日々。あの頃は何も考えずに任せていればよかった。
「じゃあ、メイクの感覚を体で覚えるまで、私がやってあげる。でも最終的には自分でできるようにならないとダメよ」
美桜が美月の肩をポンと叩く。その手が妙に重く感じられた。
「大丈夫、大丈夫。私が責任持って美少女に変身させてあげるから」
「その自信はどこから来るんだよ……」
「プロの意地よ」
美月は長いため息をついた。この先の特訓がどれほど大変か、想像するだけで胃が痛くなった。まだ始まったばかりなのに、すでに心が折れそうだった。
「明日は下着の練習よ」
「下着って……」
美月の顔が真っ青になった。メイクで青ざめた顔も隠せないレベルの恐怖を感じていた。
メイクですら2時間かかるのに、下着なんて考えただけで卒倒しそうだった。音光学園の文化祭まで、果たして彼は生き延びることができるのだろうか。




