第24話 野崎くんのマル秘計画
放課後のチャイムが鳴ると、野崎は迷うことなく席を立った。
「お疲れ様」
クラスメイトに軽く会釈すると、そのまま教室を出る。
他の生徒たちが部活動や友人との談笑に向かう中、野崎だけはいつも真っ直ぐ帰宅する。
野崎にとって放課後の時間は貴重だった。誰にも邪魔されることなく、創作に集中できる唯一の時間。
◆
野崎の自室。
机の上には、几帳面に並べられたケント紙、つけペン、インク壺。
壁には参考資料として集めた雑誌の切り抜きが貼られている。少女漫画の華やかなイラストから、ファッション誌のモデル写真まで。
机の隅には、現在連載中の「よし恋!」の最新原稿が積まれている。主人公・佳子の可愛らしい笑顔が描かれた表紙が見える。
野崎は手にした黒いノートを開く。表紙には何も書かれていないが、中身は観察記録で埋め尽くされていた。
『女子生徒の歩き方について ―足音の違いと歩幅の特徴―』
『化粧直しのタイミング ―昼休みと放課後の行動パターン―』
『女性らしい仕草の分析 ―髪をかき上げる動作の自然さについて―』
几帳面な文字で、詳細な観察記録が綴られている。
野崎はGペンと呼ばれる金属のペン先を、ペン軸につける。ペン先の先端は震える程に細く、最高の線質を描くための道具だ。
そして漫画インク、とかかれたインク壺にペン先をつける。濃黒のインクがペン先に吸い上げられ、紙の上で魔法を起こす準備が整う。
野崎の眼の前には下書きのなされたケント紙。
可愛らしい制服姿の笑顔の女の子が全体に描かれている。
そして可愛らしいポップな文字で大きく「ほしみのひみつ」とタイトルが書かれていた。
野崎はくわっと目を開き集中し、下書き状態のケント紙に、ペン入れをしていく。
線の一本一本に神経を集中させる。微細な震えも許されない。完璧な線だけが、読者の心を掴む作品を生み出せるのだ。
30分ほど経った時、携帯電話が鳴った。野崎は一瞬手を止める。作業の邪魔をされるのは好きではないが……。
「はい、野崎です」
「お疲れ様です、春野先生。打ち合わせの件でお電話しました」
担当編集の声だった。野崎の表情が変わる。
「ちょうどよかった、俺からもあるんです」
「え?」
電話の向こうで担当編集が驚く。いつもの野崎なら、連絡を受ける側だった。
「新企画です。明日、お時間いただけませんか」
「はい、もちろんです。それでは明日の午後2時に、いつものカフェで」
電話を切ると、野崎は再びネームに向かった。今度はより集中して、丁寧に線を引いていく。
翌日までに、完璧な提案資料を作り上げるつもりだった。
(この企画なら、きっと担当編集も驚くだろうな)
野崎の唇に、わずかな自信が浮かんだ。
そう。野崎は男子高校生でありながら、プロ漫画家である。少女漫画の。
◆
翌日の午後、都内某所のカフェ。
野崎は担当編集の前に座り、A4サイズのクリアファイルを取り出した。
「お待たせしました」
担当編集が席に着くと、野崎は迷うことなくファイルを開いた。
中から出てきたのは、完成した本原稿3話分。丁寧にペン入れまで仕上げられた完全版だった。
「これが新企画ですか?『ほしみのひみつ』。しかも3話分も完成してるんですね」
担当編集がタイトルを読み上げながら、原稿の厚さに驚く。ペン入れまで完成した原稿は、プロの仕上がりだった。線の太さ、トーンの濃淡、コマ割りのバランス……すべてが計算されている。
「そうです。もう3話分完成してます」
野崎はあっさりと答えた。普通はこういう企画は手戻りが発生するのでネームの状態で共有されることが多い。しかし今回はすでにペン入れ、トーンまで入っている。相当の入れ込みようだ。
「主人公は星美。実は男子なんですが、ある事情で女装して学園生活を送ることになります」
「え?こんな可愛いのに、男の子なんですか?ああ、もしかして今流行りの男の娘の方ですか」
「男の娘……まあ、そう言えばそうですね」
野崎は少し困ったような表情を見せた。彼にとってはただの「観察記録に基づく創作」だったのだが。
「でも、これは少し違うんです」
野崎は淡々と説明を続ける。
「読者だけが真実を知っている状況で、バレそうでバレないドキドキ感を楽しんでもらう。読者参加型の応援構造を作りたいんです」
野崎は少し間を置いてから、いつもよりも真剣な声で続けた。担当編集には、野崎がこれまで見せたことのない熱意が伝わってきた。
「実は、この作品は僕にとって特別な意味を持っています。初めて、現実と創作がこんなに近づいた作品なんで。まあひとまず読んでください」
野崎は担当編集に完成した本原稿を見せる。
担当編集は受け取ると無言で読み始めた。
10分。
担当編集は1話目を一気に読み終えると、続けて2話目、3話目も読み始めた。
30分。
(この時間はいつになっても緊張する)
野崎は氷が溶け始めているアイスコーヒーを飲む。
「ふう」
やっと読み終えた。
「これは……かなり斬新な設定ですね」
担当編集は眼鏡をずり上げながら、もう一度1話目の表紙を見つめた。
「どうです?」
野崎は緊張しながら担当編集に尋ねる。普段は冷静な彼も、作品の評価を聞く瞬間だけは別人のようになる。
「そうですね。率直に言ってめっちゃ面白いです」
担当編集は一息置いてから続けた。
「男子高校生に一人だけ少女が転校してくる、という状況だけでも十分異常なのに、その子の正体は男子高校生って……」
担当編集はもう一度イラストを見て首を振った。
「『いや、むしろ普通じゃん!』『いや、まてよ、普通だけど全く普通じゃないじゃん!』って思わず突っ込みたくなるオチがとてもいい。さっきから笑いを堪えるのが大変で」
担当編集はそう評した。かなり良い評価と言っていいだろう。
担当編集はイラストを見つめていた。
描かれているのは、美しい少女の絵。しかし、どこか儚げで、秘密を抱えているような表情をしている。
「それにしてもこれまでの先生とかなり作風が違うんですが──」
それはそうだろう。これまで野崎が描いてきた作品は、主人公・佳子のゆるふわな恋を描いた「よし恋!」だからだ。
少女漫画月刊誌「おら!」で連載開始してすでに2年が経っている。可愛い女の子とイケメン男の子がおつきあする、典型的なゆるふわ少女漫画である。
そう、野崎は少女漫画月刊誌の連載作家である。しかもゆるふわの。男子高校生なのに。
「まあ、そうですね」
「一体何かあったんですか?連載中の『よし恋!』の佳子ちゃんとは正反対の世界観ですよね」
野崎は少し考えてから答えた。
「身近にモデルケースがありまして」
「モデルケース?」
「詳細な観察記録がありまして」
野崎は少し躊躇してから続けた。
「実は……その人は僕にとって、創作の面白さを教えてくれた人なんです。現実が、作品よりも面白いことがあるって。だから、この作品には特別な想いがあります」
野崎の目に、ほんのわずかな温かさが浮かんだ。担当編集は、この高校生が本当に素晴らしい作品を描く理由を理解した。
担当編集の興味が一気に高まった。
野崎の観察眼の鋭さは、編集部でも定評がある。その野崎が「詳細な観察記録」と言うなら、相当なものに違いない。
「これは……読者に受けると思います。3話分既に完成なら即戦力ですね」
担当編集は確信を込めて言った。
「ひとつ気になることがあります」
担当編集の表情が急に真面目になった。作品の評価から一転、現実的な問題へと話題が移る。
「このモデルの方には許可を取ってますか?」
「観察対象にはまだ許可をもらってません」
野崎の天然すぎる発言に、担当編集は思わずコーヒーを噴きそうになった。急いでナプキンで口元を押さえる。
「はい。1ヶ月ほど。桜井くんという名前です」
野崎はあっけらかんと答える。担当編集の顔が青ざめていることには気づいていない。
「それは……後で問題になりませんか?」
「大丈夫だと思います。その人は、きっと理解してくれるはず。僕の一番大切な作品になりそうなんで、近々お礼と一緒に許可を貰いに行きますよ」
担当編集は頭を抱えた。この高校生、天才的だが常識が異常すぎる。
(「観察対象」って言い方をやめてくれないかな……)
「そ、そうですね……事後のトラブルは自己責任でお願いします」
「わかりました。企画書を正式に作成してください。来週までに」
「あ、もうあります」
野崎の何でもないような返答に、担当編集は戦慄する。この高校生、一体何者なのか。
担当編集は水で濡らしたシャツを拭きながら言った。
「あとでしっかり読ませていただきます。なんにせよ企画として、非常に面白いです。任してください。編集長を説得してきますよ!」
力強い言葉とは裏腹に、担当編集の声は少し震えていた。野崎の天然さに、心の底から疑問を抱いているのだ。
それでも、野崎の表情がわずかに明るくなったことだけは確かだった。初めて見せた、ほんの小さな笑みが、担当編集には妙に印象的だった。
◆
帰宅後、野崎は再び机に向かった。
連載決定への道筋が見えた今、より集中して制作に取り組む必要がある。
つけペンを手に取り、ケント紙に向かう。
「ほしみのひみつ」第4話の制作開始だった。
線一本一本に魂を込めて、野崎は丁寧に描いていく。
美月への感謝の気持ちを込めながら、良い作品を作りたいという純粋な想いで筆を進めた。
あの日、教室に現れた美しい少女。そして、その真実を知った時の衝撃。野崎にとって、それは創作の全てを変える出来事だった。
野崎の顔には、創作に専念する人特有の静かな集中力が漂っていた。現実と虚構の境界を自由に行き来する、創作者だけが持つ特別な表情だった。
静寂な部屋に、ペン先がケント紙を擦る音だけが響いている。サラサラと紙を滑る音が、野崎にとっては最高のBGMだった。
野崎の世界では、時間がゆっくりと流れていた。外の世界で何が起ころうと、この瞬間だけは純粋に創作と向き合える。
しかし、連載が始まれば締切に追われる日々になる。学校での制作活動が増えれば、いずれクラスメイトに気づかれる可能性もある。
(まあ、その時はその時だ)
野崎は特に心配していない。創作に集中できれば、他のことはどうでもいい。
そんな折、野崎のスマホが震える。作業の手を止めて画面を確認すると、担当編集からのLINEメッセージが表示されていた。
『春野先生、企画が通りました。「ほしみのひみつ」連載決定です』
野崎は静かにスマホを置くと、再びペンを握った。そして、誰にも見られることのない小さな笑みを浮かべた。
(美月くんにお礼を言わないといけないな)
野崎はペンを置き、窓の外を見つめた。夕日が教室の窓を照らしている。あの教室で、明日も美月は「月美」として過ごすのだろう。
そして野崎は、もう作品として「星美」を愛している自分に気づいていた。現実の美月と、作品の星美。両方が大切だった。
明日からは、また違った目線で「月美」を見ることになりそうだった。作品の続きを描くために。




