第1章 第8話 ── 箱を狙う影
春の朝。
町のざわめきがまだ浅く眠っている時間、マイラは小箱を抱え、レンとルフトと共に宿屋を出た。
花市の名残を置いていった花びらが石畳に貼り付き、雨気を含んだ香りをふわりと放っていた。
レンが横を歩きながら、低く呟く。
「……本当に、行くんだな」
その声は責めてはいない。ただ、若い仲間を気にかける静かな温度があった。
「うん」
マイラははっきり答えた。
胸の前で抱く小箱は、手の中でじんわりと重くなる。
それは物そのものの重さというより、“預かった想い”が沈んでいるように感じられた。
レンが続ける。
「昨日の少年……あれは普通じゃなかった。妨害がある依頼なんて、めったにない」
「分かってるよ」
言った言葉よりも、胸の奥の不安のほうが先に震えた。
本当に、これでいいんだよね……
でも、もう歩き出してるんだ。
むしろ迷うことで歩みが止まり、
そのまま動けなくなってしまうことの方が私は怖い。
マイラは自分に言い聞かせるように、靴を前へ押し出した。
春の丘道は雨を含んで柔らかく、靴底にぬかるみが重たく絡む。
鳥の鳴き声が朝の空気に重なり、風がマイラの髪をそっと揺らした――その時。
茂みが、がさりと揺れた。
レンが剣の柄に手を添える。「……来たか」
次の瞬間、黒髪の少年が姿を現した。
昨日と同じ灰色の瞳――けれど、その奥に張り詰めた焦りがある。
「あなた……」
口をついて出た言葉に、少年は応じず、ただ強い眼差しだけを向ける。
「その箱を置くな。……後悔する」
短い声なのに、何かが胸の奥をひやりと撫でていった。
マイラは小箱を抱え直し、大きく息を吸って答えた。
「理由、教えてよ。話してくれれば……」
けれど彼は沈黙のまま、ただ拳だけが震えていた。
話す気がないんだ……
それとも、話せない理由がある?
「後悔しても、私は走るよ。預かったものだから」
静かに返すと、少年は唇を噛み、顔をそむけて踵を返した。
その背中は敵意というより、痛みを抱え込んだ影に見えた。
あの子は敵ではない、不確かな感覚だけどそう思える。
心の奥で小さなざわめきがくすぶり続けた。
◆
やがて辿り着いた廃教会は、前と変わらず灰色の沈黙に沈んでいた。
崩れ落ちた壁、砕けたステンドグラス。
差し込む朝の光が粉塵を照らし、祭壇だけを浮かび上がらせている。
マイラは一歩ずつ祭壇に近づき、両手で小箱をそっと置いた。
石の冷たさが掌に伝わり、箱は静かにそこへ馴染んだ。
その瞬間、空気が変わった。
まるで箱が吸い込まれるように重みを失い、腕が軽くなる。
ルフトが肩の上で小さく羽を震わせ、低く短く鳴いた。
マイラは胸を押さえる。
*これでいい……はず。役目は果たしたんだ*。
レンがゆっくりと周囲を見渡す。剣を下ろすことなく、静かな声で言った。
「……よし、行くか」
マイラはこくりと頷いた。だがその足取りは軽くならない。
*本当に、これでいいの?*
不安が心の隅で渦を巻く。
二人が出口に向かおうとした、その時だった。
最初に聞こえたのは、静かなシャリシャリという音だった。
ステンドグラスが小刻みにひび割れ、やがて耐えきれずに崩れる
えっ!ちょっ!
ほんと、なに!?
「……れ、レン?」
マイラが囁く。胸がざわめくような音に、思わず足を止めた。
レンは即座に剣を構え直し、鋭く窓を睨む。「来る……!」
粉塵の匂いと緊張が空気を満たす中、破片がぱらぱらと床に散った。
砕け散る破片の隙間から、ぬるりと闇が流れ込んでくるようだった。
そして――白骨の仮面をつけた影が、いつの間にか三体、そこに立っていた。
獣や魔物の骨を削って作られた仮面はどれも笑っているかのように歪み、空洞の眼窩が暗がりの中で不気味に光を反射する。纏っているのは粗末な布切れで、体格も装備もはっきりとは見えない。昼間であるはずなのに、教会内部は影が濃く、異様な闇に呑まれていた。
「来るぞ!」
レンが剣を構える。その直後、仮面の一人が飛びかかり、鋭い爪のような武器を振り下ろした。金属音が弾け、レンの剣が火花を散らす。
マイラも腰から愛用の短剣――父の形見である《ウィンド・リボルヴ》を引き抜いた。刃が青白く揺らめき、光を受けて水面のようにきらめく。手に吸い付くような感触に、一瞬だけ心が落ち着いた。
迫りくる影に、マイラは刃を振る。
風を切るような感触と共に、布を裂く音が響き、仮面の一体が後退する。
短く翻った髪が頬にかかり、汗に濡れた肌が灯りに艶めいた。次の瞬間、もう一体が横から迫る。
マイラはしなやかに腰を沈め、しなやかな動きの延長で蹴りを放った。
太腿から走る力が弾け、足裏に乾いた衝撃が伝わり、仮面がよろめいた。
その姿を、横合いで剣を振るうレンが一瞬だけ目に留める。
妹分と思っていた少女の動きに、感嘆の色がかすかに宿り、思わずヒュ~っと軽く口笛を鳴らす。
直後に「こわっ」とおどけたように小さく呟き、緊張の最中にわずかな笑みを浮かべた。
レン!今はそういう場合じゃないからッ!!突っ込む余裕もないしっ!
その時、不意に別の方向から鋭い声が飛んだ。
「下がれ!」
影の裂け目から飛び出してきたのは――黒髪のあの少年だった。
灰色の瞳に焦りとも怒りともつかない光を宿し、彼は足元の石片を掴んで投げつける。
石は仮面の一体にぶつかり、動きがわずかに鈍った。その一瞬を逃さず、レンが踏み込み、剣で間合いをこじ開ける。
「おい……!」
レンは剣を振り払いつつ少年に叫ぶ。
「お前、あいつらの仲間じゃなかったのか!?」
「違う!」
少年は即座に否定した。短い言葉の裏に、必死で押さえ込んだ恐怖が震えている。
三人は自然と互いの背を預ける形となり、仮面たちの刃をいなし続けた。
この感覚……殺しに来てる感じじゃない……?いったい……?
仮面は無言のまま、執拗に祭壇へと迫ろうとした。
やがて骨の仮面の一体が祭壇に手を伸ばした瞬間――動きが止まった。
三体は同時に首をゆっくりと傾け、歪んだ笑みのような骨面をこちらへ向ける。
ぞくり、と空気が凍りつく。
低く擦れた声が、どこからともなく重なり合いながら漏れた。
「……シル……報……戻レ」
言葉の輪郭は曖昧なのに、意味だけが冷たく胸に刺さる。
“役目を終えた。戻る”――そんな気配だけが、直感のように残った。
その声とともに、三体の影は音も立てず後退していく。
闇に縫い込まれるように姿を消すと、床に残された破片だけが現実だと訴えるようだった。
再び、教会に異様な静けさが満ちる。
その直後――
祭壇の奥の壁が、わずかにひび割れた。
ぱら、ぱら……粉塵が落ちる。
マイラは息を呑み、レンも、黒髪の少年も同時に振り返った。
あの奥で……まだ“何か”が動いている。
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