第1章 第7話 ── 廃教会の余韻
宿屋の食堂。
夕食の春野菜のスープの湯気がゆらりと揺れ、香草の匂いが鼻先をくすぐる。
焼きたてのブルームパンは香ばしく、花市の屋台の明かりのように温かい色をしていた。
けれどマイラの手は、スプーンの途中で止まったままだ。
窓の外から届く笑い声も、遠く楽団の調べも、自分だけ別の時間に取り残されたみたいにぼやけていく。
湯気の向こうで、光がちらりと揺れた。
砕けたステンドグラスの残光が、記憶の底からそっと浮かび上がる。
──廃教会の奥。
あの少年が去ったあと、静けさが戻ったはずなのに、耳の奥にだけざらりとした気配が残っていた。
風に触れたガラス片が「ちり」と鳴った気がする。
ルフトがそっと翼を震わせた。
細い羽毛が夕光を受け、一瞬だけ白く光る。低い鳴き声は、まだ続く不安を隠しきれなかった。
マイラは胸に抱えた小箱をきつく抱き直した。
その角が肋に触れるたび、あの短い言葉が蘇る。
──渡すな。
ほんのひと言なのに、ずっと胸の裏側に刺さったままだ。
レンが静かに口を開く。
「……ここに長くいるのは得策じゃないな。
一度戻って、状況を整理しよう」
落ち着いた声だった。
焦らせるでも、急かすでもない。
ただ、冷静に現実を示してくれる声。
マイラは返事ができず、視線が自然と壁画に引かれた。
翼を持つ獣の片眼が、夕光を反射してきらりと光った。
ほんの揺らぎなのに──まるでこちらを見返してきたようで、背中に冷たいものが走る。
ルフトも壁画をじっと見つめ、羽をわずかに広げて短く鳴く。
その声は「気を抜くな」と告げるように響いた。
胸の奥で、三つの思いが絡み合う。
責任を果たす自分。
冷静に道を示すレン。
直感で危険を感じるルフト。
その瞬間──
「……かちり」
背後で小さな石片が落ちる音がした。
誰も動いていないのに。
マイラは息を呑んだ。
振り向けなかった。
「……うん、戻ろう」
かろうじて声になった言葉を置き、扉へ歩き出す。
背中に突き刺さるような視線を感じても、振り返ることはできなかった。
* * *
「……あっ」
気づけばその「かちり」は、宿屋の食器が触れ合う軽い音に変わっていた。
マイラははっと顔を上げる。
レンがこちらを見て、少し眉を寄せる。
「考えすぎて、冷めちまうぞ。スープ」
マイラは小さく笑おうとして、うまくいかなかった。
「……あの子、どうしてあんなこと言ったんだろう」
しばらく黙っていたレンは、肩をわずかにすくめた。
「俺にも、はっきりとは言えない。
でも……あの子には、あの子なりの事情があるんだろう」
優しいが、甘くはない声だった。
答えを与えるのではなく、自分で考える余地を残す声。
ルフトが不安げに羽を揺らす。
マイラはスプーンを握りしめ、ぽつりとこぼした。
「……ルフトも、落ち着いてないみたい」
レンは小さく頷きながら、パンをちぎる。
「感じたんだろうな。
お前も……気になるんだろ?」
図星で、マイラは口をつぐんだ。
胸の前で小箱を抱き直すと、重みがじわりと沈んでくる。
窓の外で花市の灯りが揺れる。
柔らかな光の隙間に、
あの灰色の瞳が言葉にならない思いを抱えたまま、こちらを見ている気がした。
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