第1章 第5話 ── 少年の警告
「……その箱を渡すな。」
廃教会の静けさを割ったその声は、まだ幼さの残る響きなのに、不思議と胸の奥へ重く落ちてきた。
マイラは反射的に、小箱を胸にぎゅっと抱き寄せる。金具の冷たさがを肌へ押し付け、重みが腕に食い込んだ。
何が起きたの、と心の奥で小さなざわめきが揺れる。
光を背負った黒髪の少年が、灰色の瞳でこちらを見据えていた。いつの間に祭壇の影から出てきたのか。
気配も音も感じなかったことがかえって緊張を深め、マイラの呼吸が浅くなる。
「君は……」
レンが低い声で呟き、剣の柄へ指を添えて前へ出る。
肩越しに見える背が、空気を張りつめた壁のように立ち上がる。
守られた気がする一方で、後ろへ押し返されるような窮屈さもあった。
「待って、レン!」
声が少し高く跳ねる。
この少年からは、敵意というより切迫した“何か”を感じた。
知らないはずなのに、理由を知っているような眼差し。それが胸に引っかかった。
少年の黒髪は手入れされておらず、衣服は擦り切れ、泥の跡が乾いたまま残っている。
装いひとつで、人がどれだけ過酷な旅をしてきたのか伝わってしまうような姿だった。
「その箱は、開けてはいけない。持ち主に渡すのも危険だ。」
言い切る声音が、教会の奥で反響して重なる。
何を知っているの、という疑念が胸を刺した。
封緘クエストは──依頼内容を問わない。
何が入っていても、どう運ぶかを考えるのが自分の仕事。
それなのに少年の言葉は、その土台を揺らすほど真直ぐで、迷いを許さない調子だった。
「……どういう意味?」
喉がひりつく。
問いながらも、心の奥で“聞きたくない答え”を恐れている自分がいた。
箱の重さが、いつもより硬く感じられる。
少年が一歩前に出る。
床板がぎしりと鳴り、舞った埃が光の帯に揺れた。
「言えない。でも──それを渡したら、君が後悔する。」
後悔、という言葉が胸に落ちた途端、マイラの胃のあたりがひゅっと縮む。
その曖昧さが余計に怖い。
想像だけが勝手に膨らんでいく。
「後悔だと? 理由も示さずに人を止めるつもりか。」
レンの声が鋭く冷える。
剣の“鞘”に添えられた指先がわずかに緊張し、空気が薄く感じられた。
マイラはその背を見つめながら、胸の奥に焦りの火が小さく灯るのを感じた。
私の依頼なのに、私の気持ちが追い越されそう──そんなもどかしさ。
その瞬間、肩に乗るルフトが「キュッ……!」と短い声を上げた。
いつもの軽い注意喚起ではない。羽毛が逆立ち、体が硬くなる。
教会全体の空気が、ルフトの警戒に合わせてざわついたように感じられる。
何かが近づいている──
そんな確信だけが、根拠もなく胸に浮かぶ。
けれど、引き返すわけにはいかない。
この箱を届けるのは自分の役目、そして父が教えてくれた“届ける責任”。
誰に何を言われても、それだけは曲げたくなかった。
「……ごめん。でも私は、この箱を届ける。それが、私の仕事だから。」
声は震えていない。
なのに、言葉にするまでの一瞬だけ心が大きく揺れた。
少年の瞳が細まり、影が深くなった。
その奥にあるのは怒りではなく、もっと切実なもの──失わせたくないものを握りしめるような感情。
「なら……俺が止める。」
跳ねるような動きで、少年が踏み込んだ。
時間が一瞬だけ伸びる。
箱へ伸びる手。それが触れそうになった刹那──
レンが踏み込み、鞘で横へ払った。
金属が風を切る音が教会に響き、少年の腕が跳ね返される。
少年はバランスを崩しながらも、床を蹴って素早く後退した。
次の瞬間、低い姿勢から弧を描くように再び距離を詰めてくる。
その動きには、鍛えられた技ではなく、必死で生きてきた者の勘があった。
「下がれ、マイラ!」
レンの声が胸に突き刺さり、息が詰まる。
その隙に、少年の手が横合いから箱を狙って伸びる。
レンが剣をわずかに抜き、反射した光が少年の瞳を撃った。
少年の体が硬直し、一瞬、その動きが止まる。
廃教会の冷たい空気が、沈黙の輪郭を鋭く描き出した。
マイラは箱を抱え込み、震える指に力を込めた。
守らなきゃ──その言葉だけが頭の中で繰り返される。
ルフトの羽毛がまだ逆立ち、震える羽音が耳に残る。
動けば崩れそうな静寂の中、三人の呼吸だけが重なり、光が揺れた。




