第2章 第13話 ── 静かな立入禁止
川が、静かだった。
昨日まで耳の奥に残っていた、ざわざわした水音がない。
初夏の陽が水面を明るく照らして、きらきらが、ただの"きらきら"に戻っている。
――何も起きてない。
――起きなかった。
胸の奥が、ほっとするはずなのに。
息を吸うたび、そこに薄い棘みたいなものが残った。
昨日、わたしは川底の封緘を……動かさないと決めた。
正しい。
たぶん、ルールの上では。
でも、正しさは"戻る"とは違う。
川岸へ下る石畳の途中で、ロープが見えた。
木杭に渡された麻縄。
目の高さに、白い札。
「立入禁止」
墨の字が、やけにくっきりしていた。
川の匂いが、すぐそこにあるのに。
そこへ近づくことが、今日から"だめ"になる。
――こんなふうに、急に。
肩の上で、ルフトが小さく身じろぎした。
尾が、いつもより短く揺れる。
わたしの喉も、同じ幅で固くなる。
ロープの向こう側。
いつもなら子どもが石を投げて遊ぶ浅瀬。
洗い物をする人が腰を下ろす場所。
祭の準備で、丸太を運ぶ男たちが声を上げる辺り。
全部が、線で区切られている。
線のこちら側にいるだけで、
"見ている"ことが罪みたいに感じた。
「……あら」
隣に立ったセリナの声は、低くて落ち着いていた。
ただ、事実を確認するみたいに。
彼女は札を見上げ、次に川を見た。
最後に、わたしの指先を見る。
わたしが無意識にポーチの口を押さえていたのが、ばれている。
――聞かないで。
――説明できない。
封緘のルールは、守るためにある。
守るために、黙る。
でも黙った瞬間に、誰かの目には"隠してる"になる。
「今朝、町の見回りが動いたみたいね」
セリナは淡々と言った。
「噂が回るの、早いから」
噂。
その言葉が、胸の奥で小さく跳ねた。
昨日の"赤"のこと。
誰かが見た、誰かが言った。
誰かが怖がって、誰かが善意で止めた。
悪意じゃない。
悪意じゃないのに――
結果は、こうなる。
川沿いの露店の人たちが、いつもより上の道へ移動していた。
桶を抱えたおばさんが立ち止まり、札を見て眉を寄せる。
「洗い場、どうすんのかねぇ……」
「祭の前だぞ? 大丈夫なのか?」
男たちの声が、いつもより低い。
怒鳴ってはいない。
責めてもいない。
ただ、困っているだけだ。
困っている人の声って、こんなに胸に刺さるんだ。
わたしは、ロープの手前で立ち尽くした。
足が、前へ出ない。
出られない。
――昨日、わたしが選んだ"動かさない"は。
――今日、わたしの足まで止めるんだ。
視線を感じた。
川沿いで荷を運んでいた青年が、こちらを見ている。
目が合って、すぐ逸らされた。
でも、逸らされるまでの一瞬で、伝わってしまう。
"あの子、昨日川にいたよね?"
"ギルドの……あの運び屋見習い?"
わたしの頬が、じわっと熱くなる。
耳の後ろが痛い。
――違う。
――悪いことしてない。
言い訳の言葉だけが先に走って、口の中でぶつかり合った。
でも、出せない。
封緘のことは、漏らせない。
それがルール。
それが仕事。
――だから、黙るしかない。
黙ると、もっと見られる。
見られて、もっと黙る。
目に見えない縄が、喉に巻かれていくみたいだった。
セリナが、ほんの少しだけ前に出た。
誰かに向けてではなく、
わたしの視界に入る位置に、立つ。
盾みたいに。
「川は落ち着いてる」
彼女が言ったのは、それだけだった。
断言でも、保証でもない。
ただの観察。
だからこそ、重い。
「今は……『調査中』で通すわ」
セリナは、わたしだけに聞こえる声で言った。
「それ以上は言わない。言えない」
わたしは頷いた。
頷いたのに、胸の奥が少しだけ沈む。
――"調査中"って言葉、便利だ。
――便利で、ずるい。
でも、ずるくならないと守れないものがある。
そういう仕事を選んだのは、わたしだ。
分かってるのに、喉が痛い。
ロープの向こうで、子どもが一人、札を見上げていた。
小さな手が伸びる。
札に触れそうになって、母親が慌てて手を掴む。
「だめ! 今日は近づかないの!」
「なんでぇ……川、きれいじゃん」
子どもがぷくっと頬を膨らませた。
母親は困った顔で、言葉を探している。
この人も、悪くない。
必死なだけだ。
必死で守ろうとして、線を引く。
線を引かれて、誰かが失う。
わたしの胸の中で、昨日の冷たい鉛の感触が、また蘇った。
指先が、勝手に痺れる。
――触ってないのに。
――取ってないのに。
取らなかったことで、消えたものがある。
そのことだけが、じわじわはっきりしていく。
ふと、視界の端に黒髪が見えた気がした。
心臓が跳ねる。
反射で、そっちを探してしまう。
川沿いの人混み。
荷を担ぐ背中。
木箱。
縄。
知らない顔ばかり。
――いない。
――……いないんだ。
昨日、あの場にいたはずの少年の姿は、どこにもなかった。
追わない。
呼ばない。
確かめない。
それが、わたしの今日のルールみたいに、身体に貼りついた。
貼りついて、剥がれない。
午前の空気は暖かいのに、
胸だけが、冷たい石の影にいるみたいだった。
露店の準備をしていた人が、セリナに声をかけた。
「ギルドの方ですか?」
「ええ」
「川……大丈夫なんですかね。祭、明日も準備あるし」
責める口調じゃない。
頼る口調でもない。
ただ、"知りたい"だけ。
知りたいって、こんなに素直で、こんなに痛い。
セリナは一度、わたしの方を見た。
わたしは息を吸って、吐いて。
何も言わない選択を、もう一度した。
セリナは、短く頷く。
「今は危険は見えていないわ。でも、決めるのは町の方よ。私たちは協力するだけ」
それで話は終わった。
終わってしまった。
終わらせるしかなかった。
男は「そうですか」と言って去る。
去り際の背中に、少しだけ硬さが残っていた。
硬さは、誰のものでもない。
状況の硬さだ。
状況は、誰も殴らないのに、確実に人を疲れさせる。
昼前。
川から少し離れた小さな屋台で、わたしたちは温かいスープを買った。
塩と香草の匂いが、湯気に乗って鼻をくすぐる。
木の匙で一口すくうと、じんわり喉をほどいた。
でも、ほどけるのは喉だけで。
胸の奥の膜は、まだ張ったままだった。
ルフトにも、小さな乾し肉をちぎってやる。
噛む音が、静かに響く。
この音があるだけで、少しだけ世界が"日常"に戻る。
戻るのに、戻りきらない。
わたしはスープの温度を掌で感じながら、思った。
――川は、落ち着いた。
――すぐに何も起きなかった。
だから、昨日の選択は間違いじゃない。
それでも。
ロープの向こうに置いてきたものは、
もう拾いに行けない。
拾いに行かないと決めたこと自体が、
町の景色を、一本、変えてしまった。
川は静かだ。
静かすぎて、取り返しのなさだけが、はっきり聞こえる。
わたしは匙を置いて、まっすぐ川の方角を見た。
見えるのは、白い札の角。
「立入禁止」の文字。
水面は光っているのに――
そこは、もう元の川じゃなかった。




