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第2章 第12話 ── 川底の、結び方


川の音が、ひとつ近づいた気がした。


水面は陽を弾いて明るいのに、

底だけが、沈んだ色をしている。


喉の奥に、湿った冷気が残っている。

吸い込んだまま、吐ききれていない。


――落ち着け。


息を吸う。

胸が、思ったより固い。


吐く。

吐いた息が頬に触れるほど、顔が前に出ていた。


石の影に身を寄せたまま、

マイラは視線だけを川へ戻す。


あの場所。

石積みの隙間。

油布の端。


そして――

鉛色の、札。


触れた指先が、まだ冷たい。

氷を当てたみたいな感触が、皮膚の奥に残っている。


ポーチの中で、鱗が布越しに脈を打った。


どくん。

どくん。


――同じ。


同じ、封じ方。

わたしの手の中の“これ”が、あそこを呼んでる。


隣で、セリナは何も言わない。

言わないのに、気配だけが伝えてくる。


見ている。

越えていい線と、戻れない線。


マイラは、膝をほんの少し前に出した。


ずり、と石が鳴る。


その音が怖くて、すぐ止まる。


――今の、聞こえた?


息を止めて、耳を澄ます。

川は、変わらず流れている。


上も、静か。


よし。


川縁の石に、そっと手を置く。

苔が湿って、ひんやりする。


指先が勝手に――

“取りに行く”形になりかける。


――もう。素直すぎ。


水は浅い。

でも、底は見えにくい。


光が揺れて、輪郭が歪む。


息を吸って、足先を入れた。


ひゃ、

声が出そうになって、唇を噛む。


冷たさが、脛を這い上がる。

背中が、ぞくりと震えた。


肩の上で、ルフトが尾を丸める。


――ごめん。

――怖いよね。


一歩。

もう一歩。


石が滑る。


足裏が持っていかれそうで、

全身に力が入る。


息が浅い。


――落ち着け。


水音が、耳の奥で増える。


ざわ、ざわ。


川が、言葉を持っているみたいだ。


目を凝らす。


石積みの影。

油布の、ぬめった光。


鉛色の札。


穴に通された紐。

結び目。


ほどけていない。

切れてもいない。


ちゃんと、そこにある。


――まだ、封じてる。


喉が鳴る。


ごくり。


乾いてないのに、飲み込む。


胸の奥が、薄い膜で引っ張られる。


――取りたい。

――でも、取ったら……。


指先が、少し伸びる。


水の中で、揺れる指。

たった、それだけなのに。


心臓が早くなる。


その瞬間。


結び目の形が、視界に刺さった。


輪の作り。

紐の返し。

余りの長さ。


――……あ。


頭の中が、ひやりと冷える。


川じゃない匂いが、鼻に戻る。


粉の匂い。

崩れた石。


風のない、礼拝堂の床。


そこにあった、あの結び。


――同じ。


説明できない。

でも、身体が先に分かってしまう。


指の関節が、きゅっと固まる。


一瞬、まぶたを閉じる。


閉じた方が、見える。


礼拝堂の影。

川底の鉛。


ぴたり、と重なる。


――じゃあ、これって。


――終わった、もの……?


役目を終えたのに、捨てられていない。

壊されてもいない。


ただ、置かれている。


沈められて、

忘れられたみたいに。


でも。


忘れていいなら、

こんな結び方はしない。


こんな冷たさ、残らない。


指先が、また前に行こうとする。


触れたら、持ち上げられる。

持ち上げたら――動かした、になる。


――封緘運び屋のルール。


頭の中で、静かな声が並ぶ。


開けない。

漏らさない。

壊さない。

失くさない。

戦うより、守る。


そして。


勝手に、触らない。


……でも。


これ、荷?


荷、なのかな。


終わってるのに、置いてあるなら。

処分じゃなくて、固定。


撤去じゃなくて、

封じたまま、沈める。


そういうやり方も……ある?


胸が、きゅっと縮む。


怖い。

触りたい。

触りたくない。


矛盾が、喉に絡む。


――わたし、どっちに行けばいい。


完璧な答えは、たぶんない。


でも。


“やっちゃいけない”は、ある。


指を、ほんの少し引く。


水が、指の間を抜けていく。


それが、ひどく名残惜しい。


――もったいない、って思ってる。


自分の中の言葉に、腹が立つ。


隣で、セリナが息を吸う気配。


でも、何も言わない。


言わないから――

わたしが決める。


札を見たまま、ゆっくり息を吐く。


震える。


水の中で、足が小刻みに揺れる。


膝が笑いそうで、

太ももに力を入れる。


――衝動で動くな。

――衝動で、壊すな。


腰で、形見の柄が小さく当たった。


冷たいのに、

そこだけ、妙に温かい。


――お父さん。


――持ち帰るだけが、仕事じゃないよね。


ここで取ったら。

違反の可能性が高い。


しかも、戻せない。


同じ場所、同じ向き、同じ深さ。

――無理。


わたしは、そんなに器用じゃない。


セリナが指示しないのも、

たぶん、同じ理由。


今は、やるべきじゃない。


唇の内側を噛む。


血の味。


それで、やっと現実に戻る。


――動かさない。

――取らない。

――触らない。


でも、見なかったことにもしない。


置いておく。


いちばん、ルールを踏みにじらない選択。


正解じゃない。

格好よくもない。


ただ。


これしかない。


マイラは、胸の前で手を握りしめた。


水の中の指先が、やっと止まる。


そして、はっきりと思う。


――わたしは、川底の封緘を……動かさない。


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