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第2章 第11話 ── 3つの数字、川面の赤


夕陽の赤が、ブレストン川の水面にべたりと張りついていた。

石段は湿っていて、靴裏がわずかに滑る。

マイラはグラスを持った手に汗がにじむのを感じながら、足裏で段差を確かめる。

――大丈夫、大丈夫。

――深呼吸して、落ち着いて。

背中のほうでは、屋台通りの笑い声がまだ弾けている。

なのに、川へ降りる空気だけが冷たい。

水の匂いが、風に混じって鼻先を撫でた。

胸の奥に、薄い違和感が残ったままだ。

セリナが、握ったままのノルン紙を指で押さえている。

その隙間から、鉛色の文字がちらりと覗いた。

「3」。

ただの数字。

それなのに、視線が吸い寄せられる。

「川は人が多いわ。紛れやすい」

セリナの声は低く、波音に溶けた。

その少し前を、少年が歩いている。

背は高くない。

黒髪が、夕暮れの光を吸っていた。

人の流れを読むみたいな足運び。

明かりを避け、影を選ぶ癖。

――また会ったね、って言った。

――ちゃんと、会話もした。

それなのに。

名前だけが、まだ空っぽのまま。

呼びかけようとすると、喉の奥で、音が迷子になる。

……名前。

……なんだろう。

鉛の札に刻まれていた、あの文字。

――違うかもしれない。

――でも、違わない気もする。

胸の奥でふわっと浮かんでは、つかもうとすると、すり抜けていく。

ルフトが肩の上で、羽尾をぴん、と立てた。

小さく鼻を鳴らす。

次の瞬間、マイラの鼻にも届いた。

鉄の匂い。

清流エビを焼く甘い香りの奥に、血みたいに濃い金属臭が混じっている。

喉の奥が、ざらついた。

――近い。

――誰かが、探してる。

屋台が並ぶ川沿い。

串が焼ける音。

脂が落ちる、じゅっ、という小さな爆ぜ。

空腹が、遅れて腹をつねる。

セリナが、マイラの横顔を一瞬だけ見た。

言葉はない。

でも、意味は分かった。

"普通に"。

マイラは決める。

――紛れる。

――今は、目立たない。

「二本、ください」

声を出した瞬間、心臓が跳ねた。

ちゃんと声が出たことに、少しだけ安心する。

屋台の男が笑って、串を差し出す。

熱い。

反射で持ち直すと、指先がじん、と痺れた。

その痛みが、現実だった。

――熱い。

――夢じゃない、幻じゃない。今、わたしはここにいる。

ルフトが串を見て、きゅ、と鳴く。

「だめ。熱いから」

そう言いながら息を吸うと、湯気と一緒にエビの甘さが胸に広がった。

その横を、黒い靴が三足、静かに通り過ぎる。

歩幅が揃っている。

探す人間の足取り。

背中に、冷たい汗が流れた。

――見ない。

――今、振り向いたら、視線がぶつかったら……

少年が、川の柵の影へ視線を切った。

水草と石の間。

身体ひとつ分の隙間。

逃げ道。

セリナが、動かずに言う。

「マイラ。例のものは?」

「……あります」

「今は、見せないで」

「……はい」

短いやり取り。

でも、その言葉が胸に重く沈む。

――触らせない。

――見せない。

――それだけで、守れるものがある。

マイラは串をかじるふりをして、身体の向きを半歩ずらす。

腰のポーチが、肋に当たる。

中にある、小さく硬い感触。

――空魚の、鱗。

ルフトが胸元へ滑り、羽でそっとポーチを覆った。

小さいのに、頼もしい。

――ありがとう。

――今だけ、盾になって。

黒い靴が、また近づく。

鉄の匂いが、濃くなる。

セリナが、ノルン紙を一瞬だけ開いた。

矢印は、川面の赤へ。

その下で、鉛色の文字が目に入る。

「カイ」。

喉が、ひくりと鳴った。

――鉛の札に刻まれていた文字。

――名前じゃないって、思ってたのに。

少年の背中。

呼び止められない距離。

――もし、あれが名前だとしたら?

――この人の……?

答えは出ない。

出せない。

でも、胸の奥で、何かが静かに重なる。

その瞬間、ノルン紙の端が、削れるみたいに薄くなった。

数字が、揺れる。

「3」が、静かに――「2」になる。

「今よ。影へ」

セリナの囁き。

マイラは串を皿に置いた。

名残惜しさで、指が一瞬止まる。

――まだ、ひとくちも食べてないのに。もったいない。

腰で、ウィンド・リボルヴの柄が小さく当たる。

父の手の温度が、一瞬だけよみがえった。

――お父さん。

――わたし、間違えない。

少年が、先に隙間へ滑り込む。

セリナが続く。

マイラも、ポーチを押さえ、息を殺して身をねじ込んだ。

石が肋に当たり、鈍く痛む。

水の湿気が、頬を撫でる。

すぐ下で、川が低く唸った。

影の中で、ノルン紙がもう一度、ぴん、と張る。

減った数字が、はっきりとそこにあった。

残りは――「2」。


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