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第2章 第10話 ── 風のない逃げ道、鉄の足音


 礼拝堂の入口で、石がもう一度、ぎ、と鳴った。

 日差しはあるのに、影だけが濃い。

 マイラの喉がからからに乾く。舌が石粉を舐めたみたいにざらつく。



 ――来る。



 胸の奥が、細い糸で絞られるみたいにきゅっと縮んだ。

 少年が、目を見開いた。



「……やっぱり」



 その声が終わる前に。

 入口の影が、ゆっくり膨らんだ。

 足首。靴底。黒い布。

 そして――鉄。

 匂いが、刺さった。

 血の味みたいに濃い鉄の匂いが、肺の内側に貼りつく。

 ルフトが低く唸る。



「ク……ル……!」



 セリナが片手を上げる。止まれ、じゃない。合わせろ、の合図。

 マイラは反射で、ポーチの紐を握り直した。

 布越しに、鱗が冷たい。



 ――ここで落としたら終わり。



 ――ここで開けても終わり。



 その二つが、同じ重さで胸に乗った。

 ノルン紙が、ひたり、と湿った音を立てた気がした。

 矢印が、入口じゃない方向を指している。

 礼拝堂の奥。崩れた柱の陰。壁が半分だけ残っている、石床の隅。

 少年が、短く息を吸った。



「こっち」

「待って」

 マイラの声が、思ったより高く出た。



 ――信じていい?

 ――いや、でも、今は信じないと!



 迷いが喉で詰まる前に、セリナが言い切る。



「行くわよ。マイラ、結びの位置――目で覚えたまま走れる?」

「……はい!」



 返事の瞬間、足の裏が石を蹴った。

 冷えた粉が舞い、靴の縁に白く貼りつく。

 風がないのに、頬だけが熱い。



 ――心臓、うるさい。



 ――鼓動、黙って。足、動いて!



 少年が先に、折れた柱の間へ滑り込む。

 セリナがその背後へ、音を殺して続く。

 マイラは最後尾で、振り向きたい衝動を噛み砕いた。

 振り向いたら、きっと目が合う。



 ――目が合ったら、動けなくなる。



 たぶん入口の影が、一歩、踏み込んだ。

 石が、かち、と鳴る。

 それだけで、背筋が氷水を流されたみたいに冷える。

 来た人影は、礼拝堂を見渡さない。

 まっすぐ床を、嗅ぐみたいに視線を落とした。

 探してる。人じゃない。――"結び"を。

 マイラの指先が勝手に震えた。

 その震えを隠すように、腰のポーチを抱え込む。



 ――わたしは運び屋。



 ――守るのが仕事。



 その言葉が、父の声を思い出させて、胸の奥で鳴った。

 ウィンド・リボルヴの柄が、腰でかすかに当たる。

 金属の冷たさが、背中を真っすぐにしてくれる。

 柱の陰を抜けた先に、床の一角だけ粉が薄い場所があった。

 誰かが掃いたみたいに、石の目が見えている。



「そこ、踏むな」



 少年が低く小声で言う。

 マイラは、足を止めかけて――止めない。

 止まったら追いつかれる。

 代わりに、重心だけ変えた。

 つま先を浮かせて、粉の薄い場所を避ける。



 ――踏んだら、何かが起きる。



 理屈じゃなく、感覚がそう言った。

 セリナが一瞬、マイラの動きを見て、頷く。

 褒められたわけじゃないのに、胸の内側が少しだけ温かくなる。



 ――できた。

 ――わたし、ちゃんと動けてる。



 少年が壁の割れ目に手を伸ばした。

 でも触れない。指先の寸前で止めて、目だけで示す。

 石の割れ目の奥に、黒い紐。

 結び目が、二重。

 あの"結び"と同じ形。

 ノルン紙が、ぴん、と張った。

 矢印が結び目の外側をなぞるように揺れ、奥へ、さらに奥へ、と促す。



「通路。昔の……抜け道」



 少年が息を吐くように小さく言う。



「崩れたのに?」



 マイラが訊くと、少年の眉が歪む。



「崩れたから残った」



 意味が、すぐには飲み込めない。

 でも今は、理解より足。

 セリナが短く指示を切る。



「マイラ、ノルン紙は胸の内側に。矢印が変わったら即言って」

「はい!」



 マイラは紙を胸元にしまい込む。

 紙なのに、体温が奪われる感じがした。



 ――冷たい。

 ――怖い。



 少年が先に身を滑らせる。

 壁の割れ目の向こうは、光が一切差し込まない。石の腹の中みたいに暗い。

 マイラは一瞬だけ、息を止めた。



 ――やだな、暗いところ、苦手。

 ――でも、今はそんな場合じゃない。



 背中を押すように、ルフトが肩で羽を震わせた。

 小さな羽音が、鼓動の速さと重なって、逆に落ち着く。

 マイラは腹をくくって、割れ目へ身体を差し込んだ。

 石が肌を擦る。冷たい。ざらざら。

 でも、通れる。

 通路の中は、風があった。

 外の風じゃない。地面の奥から息を吐くみたいな、湿った冷気。

 マイラの頬の熱が、そこでやっと少し引いた。



 ――外のにおいがする。

 ――まだ、間に合う? 振り切れる?



 背後で、礼拝堂の床が小さく鳴った。

 追っ手が、粉の薄い場所へ足を置いた音だとわかる。

 次の瞬間。

 かすかな、きいん、という耳鳴りみたいな音が走る。

 ノルン紙が、マイラの胸の中で、びくん、と跳ねた。



 ――まずい。



 矢印が、くるり、と反転した。

 「戻れ」じゃない。「急げ」。

 マイラは声を絞り出す。



「セリナさん、矢印が……!」

「わかってる! 走る!」



 セリナの声が鋭く、暗闇を切った。

 三人――いや、ルフトを入れて四つ分の息が重なる。

 通路は狭い。石が肩を擦る。

 前を行く少年の背中が、闇の中で小さく揺れる。

 その背中に、春の廃教会の記憶が一瞬だけ重なって、胸が痛んだ。



 ――あの時と同じくらい、必死な背中。

 ――あの子、ずっと逃げてたんだ。ずっと。



 背後で、石が崩れる音がした。

 追っ手が仕掛けを踏んだのか、結びが反応したのか。

 わからない。

 ただ、鉄の匂いが、通路の中にまで入り込んでくる。

 近い。

「出口、もうすぐ」

 少年が言った。

 その"もうすぐ"が、信用できるかどうかを考える暇はない。

 マイラは、決めた。

 ――この子についていく。

 ――今は、それが一番、荷を守れる。



 通路の先に、薄い光が見えた。

 外の匂い。草の匂い。土の匂い。

 急に光の中に投げ出され、暗闇から視界がひらけた。

 夏に向かう、湿った緑の匂い。

 マイラの喉が、そこでやっと少し潤う気がした。

 出口は、礼拝堂の裏手――崩れた壁の影に開いた、小さな裂け目だった。

 少年が先に飛び出し、身を低くして茂みに滑り込む。

 セリナが続き、マイラも転がるように外へ出た。

 陽光が眩しい。

 目の奥がちかちかする。

 でも、風がある。

 髪が頬に貼りついた汗を剥がしてくれて、肺がようやく広がった。



 ――ハァッ。苦しかった。

 ――ちゃんと、息、できる。吸えた……!



 茂みの奥で、セリナが指を一本立てる。

 静かに、の合図。

 マイラはノルン紙を胸に押し当てたまま、また息を殺した。

 礼拝堂の方角から、乾いた音がする。

 石が削れる音。

 誰かが、出口を探している。

 少年が唇を噛んだ。



「……見つかる」


「大丈夫。見つからないようにする」



 セリナが即答した。

 その声に、迷いがない。

 マイラの中の揺れも、そこへ寄りかかって落ち着いた。



 ――大丈夫。

 ――大丈夫って、言っていいのは、今だけかもしれないけど。



 セリナがマイラの耳元で囁く。



「このまますぐ町へ戻るわよ。人混みに紛れる。祭りの屋台なら、匂いが強い」

「……はい」



 少年が眉をひそめる。



「俺は――」

「来るなら来て。来ないなら、ここで別れる」



 セリナの言い方は冷たいのに、突き放す冷たさじゃない。

 線引きの冷たさだ。

 少年は一瞬だけ迷って、首を振った。

「……行く」

 その瞬間、茂みの上を風が抜けた。

 葉がさわ、と鳴って、心臓の音が少し誤魔化される。

 マイラは立ち上がり、足の粉を払う暇もなく走り出した。

 町へ。

 人の声へ。

 匂いの濃い場所へ。

 ――運び屋の逃げ方。

 ――守るための、逃げ方。



 *



 川沿いの屋台通りは、夕方に向かうほど熱を増していた。

 焼けた魚の匂い。甘い果汁。香草の青さ。

 人の笑い声が、波みたいに押し寄せる。

 マイラはその波に混じりながら、胸の奥の緊張がほどけていくのを感じた。

 ほどけるのに、まだ切れない糸が一本、残ってる。



 ――追われてる。

 ――でも、今は見えない。



 セリナが屋台の影に滑り込み、グラスを二つ受け取った。

「飲みなさい。少しずつ、ゆっくりね」

 渡されたのは、冷たい氷果ジュースだった。

 透明な果肉が、氷の中で光っている。

 マイラは両手でグラスを包む。

 冷たさが指先に染みて、逆に安心する。

 口をつけると、甘酸っぱさが喉を落ちていった。

 舌のざらつきが、少しだけ消える。



 ――おいしい。

 ――生きてる。生きてる。



 ルフトがグラスの縁をくんくん嗅いで、小さく鼻を鳴らした。

 マイラは指で、果肉をほんの少しだけすくって差し出す。

 ルフトがぺろりと舐めて、羽尾をふわっと揺らした。

 その仕草に、胸の奥がじわ、と温かくなる。



 ――よかった。

 ――ルフトも、なんともないみたいね。



 少年は屋台の明かりを避けるみたいに、少し後ろで立っている。

 マイラはグラスを持ったまま、そっと視線を向けた。

 灰色の瞳。

 春と同じ、でも今はもっと疲れている目の光。

 言葉が、喉の手前まで上がってきて、慌てて飲み込む。



 ――呼んじゃだめ。

 ――呼んだら、何かがほどける。



 セリナがノルン紙を一瞬だけ覗き、すぐ隠した。

「矢印は落ち着いた?」

「……はい。今は、川の方を――」

 マイラが言いかけたところで。

 ノルン紙が、ぴん、と張った。

 矢印が、屋台通りの奥――川へ向かう階段を、まっすぐ指した。

 そして、紙の端に、今までなかった小さな数字が浮いた。

 冷たい鉛みたいな色で。

 ――「3」。

 マイラの背中に、冷たい汗が伝った。

 甘酸っぱい味が、急に遠くなる。



 ――3。

 ――3って、なに。



 階段の下、川面が夕陽を受けて赤く光る。

 その赤の中に、鉄の匂いが、また混じった気がした。

 セリナがグラスを置き、短く言った。





「行くわよ。……ブレストン川」



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