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第2章 第9話 ── 崩れた礼拝堂、灰色の瞳


崩れかけた石の門をくぐった瞬間、冷えた粉の匂いが喉の奥にひっかかった。


 日差しはあるのに、礼拝堂の影だけが濃い。


 マイラは腰のポーチを押さえ、指先の汗で布が貼りつくのを感じた。


 ――ここ、風がない。なのに、息がざらつく。


 足音。


 石を踏む、たった一歩。


「……来ないでって、言ったのに」


 かすれた声と一緒に、影がにじむように現れた。


 背は高くない。黒髪。灰色の瞳が、崩れた天井から落ちる光を鈍く拾う。


 胸の奥が、ぱちんと張った。


 薄い膜が急に突っ張って、呼吸の道を塞ぐみたいに。


 マイラは息を吸いかけて止める。肺の入口に、冷たい石を置かれた気がした。


 ――春の、あの廃教会。


 ――あのとき一緒に走った、あの子。


 口にしたら終わる。


 そんな確信だけが、舌の上で熱を持つ。


 マイラは唇を噛んで、飲み込んだ。


 隣でセリナが、視線だけで合図を寄越す。


(名を出さない)


 わかってる。


 ――わかってるのに、心臓だけが先に喋りたがる。


「……また、会ったね」


 精一杯、名前にならない距離の言葉を投げる。


 少年は目を細め、笑わないまま吐き捨てた。


「会いたくて来たわけじゃない」


 その言い方が、春と同じだった。


 崩れ落ちる直前の壁の色まで、思い出してしまう。


 ルフトが肩の上で、ふわ、と羽を膨らませた。


 普段なら軽いはずの重みが、今は錘みたいに頼もしい。


 セリナが一歩、前に出ない。


 出ないまま、声だけを置く。


「この教会は、もう崩れている。それでも、あなたはここにいるのね」


 少年の顎がわずかに上がる。


「崩れたからだよ」


 指で示された奥。


 屋根は落ち、柱は折れ、壁は半分だけ残っている。


 なのに、石床の一角だけが妙に整っていた。粉が薄く、誰かが掃いたみたいに。


 マイラの背中に、冷たい汗が伝う。


 ――人が来ない場所。だから、隠すのにちょうどいい。


「……川のこと、嗅ぎつけた?」


 少年が探るように言う。


「……変だと思っただけ」


 嘘にならない範囲で、言葉を選ぶ。


 セリナが続ける。


「あなたがここにいる理由は、封緘と関係がある?」


 少年の視線が、マイラの腰へ落ちた。


 ぴたり、と止まる。


「……それ、持ってるだろ」


 指先が、まっすぐポーチを指した。


「鉛の札」


 マイラの喉が鳴った。


 言い訳が浮かぶ。隠し方も浮かぶ。


 でも――セリナの言葉が、先に胸の奥で鳴る。


(沈黙を選べる人のほうが向いてるの)


 マイラは、答えない。


 答えないことで、線を引く。


 そのとき。


 少年が瓦礫の粉をつまみ、鼻先に寄せて顔をしかめた。


「……鉄の匂いがする」


 ぞくり、と首筋が粟立つ。


 川で感じた、あの微かな鉄。祭りの音に混じっていた、嫌な匂い。


 セリナの声が低くなる。


「封緘は"形"を守る。形が歪むと――匂いも変わることがあるの」


 難しい言葉じゃない。


 要するに、誰かが触ったら、残る。


 ――触った痕は、嘘をつかない。


「ここに"結び"が残っているなら、結び紐も残っている可能性があるわ」


「触るな」


 少年が短く言う。


 セリナは頷くだけ。


「触らない。見るだけ」


 マイラの胸元で、ノルン紙が震えた。


 風はない。それでも紙の端が指にざらりと当たって動く。


 矢印。


 崩れた奥の、整いすぎた石床へ。


 ――行けって言ってる。


 ――でも、行ったら、狙われる。


 マイラは一瞬、足が止まった。


 重心が前に出たまま、踵だけが躊躇う。


 息が浅い。指先が冷たい。


 腰の【ウィンド・リボルヴ】に触れる。


 父の形見の冷たさが、線みたいに背骨をまっすぐにした。


 ――父さん。


 ――わたし、今は……守るほうを選ぶ。


 マイラはセリナを見た。


 セリナは小さく頷く。


「行く?」


 問われているのは、許可じゃない。


 選ぶかどうか。


「……行きます。見るだけ。触らない」


 言い切った瞬間、胸の膜が少しだけ緩む。


 決めたからだ。


 迷いが一つ、形になると、呼吸が通る。


 三人――いや、二人と一匹は、石床へ近づく。


 少年は横を歩きながら、視線だけで周囲を警戒している。


 石床の端。


 粉が薄い場所に、細い溝があった。


 溝の奥に、黒いものがちらりと見える。


 セリナが指を伸ばしかけて、止めた。


 代わりに、視線をマイラへ。


「どう見える?」


 マイラはしゃがむ。


 膝が石に触れて、冷たい。


 息を止め、目だけで追う。


 溝の中、黒い"結び"が、わずかに光を吸っている。


「……紐、です。結び目が……二重」


 言った瞬間、ノルン紙が、ぴん、と張った。


 矢印が、結び目の"外側"を指す。


 セリナが、ふっと息を吐く。


「よく見たわ。触らずに――"形"を言葉にできた」


 小さな成功。


 その褒め言葉が、胸の奥に温かい火を灯す。


 ――できた。


 ――わたし、ちゃんと、できた。


 その温度がまだ残っているうちに、少年がぽつりと呟いた。


「……今日、もう一人来る」


 空気が、きゅっと締まる。


 セリナの視線が鋭くなる。


「誰?」


「知らない。でも、同じ匂いだ」


 一拍置いて、少年は鼻を鳴らした。


「鉄の、もっと濃いやつ」


 その言葉が落ちた瞬間。


 礼拝堂の入口の方で、石が擦れる音がした。


 ルフトが低く唸る。


 ノルン紙が、矢印の向きを変えた。


 ――逃げ道。


 ――"結び"から離れろって、言ってる。


 マイラは立ち上がり、喉の奥が乾くのを感じながら、ポーチの紐を握りしめた。


 ここで開けたら終わる。


 でも、持って逃げなきゃ終わる。


 セリナが、短く言う。


「走るわよ。マイラ、あの結び目の位置だけ覚えて」


「はい!」


 返事と同時に、マイラは息を吸う。


 冷たい粉と鉄の匂いが肺に刺さる。


 でも足は動く。決めたから。


 廃教会の影から一歩踏み出した"誰か"の靴底が、石を鳴らした。


 その瞬間、少年が顔色を変えた。


「……来た。鉄の匂い―—あと二呼吸で、ここまで届く」


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