第2章 第7話 ── 口に出た、鉛の名
露店の端で、誰かが呼んだ。
「……カイ、って」
風に紛れそうなほど弱い声が、針のようにマイラの耳を刺す。
杯の中で氷が鳴った。かち、と。
指が固まる。冷たいガラスに貼りついて、離れない。
――聞かれた。札に刻まれた、あの名を。
――どうして。どうして、ここで。
喉が乾く。さっきまで甘かった酸味が、舌の上で苦く変わった。
ルフトが肩の上で尾を丸める。短く、警戒の鳴き声。
「ク……ル」
セリナは顔を上げなかった。目だけで露店の端を見る。視線が、刃みたいに細い。
「……マイラ」
息だけの声。
「見ない。答えない」
背骨を冷たいものが走る。
――封緘は、口から漏れる。
――話した瞬間に壊れることがある。父さんが、そう言ってた。
――だから、見ちゃ駄目。反応しちゃ駄目。
露店の端に、人影がひとつ。
背は高くない。子どもかもしれない。でも、さっきの声は違った。子どもの軽さじゃない。気を抜いたふりをして、確かめに来た声だ。
心臓が胸を叩く。どくん、どくん。
――うるさい。心臓、うるさい。聞こえちゃう。
手の中で杯が滑った。指先に汗。冷たいガラスがつるりと逃げて、マイラは慌てて持ち直す。その小さな動きだけで、自分の動揺が分かった。
――駄目だ。こんなの、すぐバレる。
セリナが露店の親父に向かって、何でもない顔をする。
「もう一杯、同じの」
「へいよ」
しゃり、しゃり。氷を削る音が、妙に大きい。
セリナはそのまま、マイラの前に立った。背中で、露店の端からの視線を遮る。
――セリナさん。守ってくれてる。
「飲み終わったら、歩くわよ」
「……はい」
頷いたはずなのに、首が重い。
封緘運び屋は、守るために線を引く。勝手に手を突っ込まない。勝手に口を開かない。それが仕事だ。
――分かってる。分かってるのに。
――逃げたら、負けなんだ。
言い聞かせて、マイラは杯を口元へ運んだ。
ひと口。しゃり、と氷が崩れて、舌が痛いほど冷える。次に、甘い果肉の香り。
冷たい。甘い。なのに、胸の奥だけ熱い。
――怖くて、喉が渇いて、甘いものが欲しくなる。いやだな、この感じ。
冷たさが胃に落ちて、ほんの少しだけ呼吸が戻った。
セリナが新しい杯を受け取る。
そのとき、露店の端の影が動いた。
布が擦れる音。足が一歩、近づく気配。
マイラの視界の端で、ルフトの翼がわずかに開く。
――ルフト、飛ぶ? それとも、噛む?
――駄目。駄目だよ。
ここで騒げば、それだけで"正解"を教えることになる。
マイラは胸の前で杯を持つ指を、ぎゅっと締めた。爪が痛い。その痛みで、自分を現実に縫い止める。
セリナが露店の親父に軽く笑った。
「冷えるわね。朝より風が強い」
「川風ですからねえ。祭り前はこんなもんだ」
どうでもいい会話。どうでもいいふり。その"どうでもいい"が、いまは盾になる。
――すごい。声、震えてない。
――あたしには、できない。
セリナが少しだけ声を落とした。
「マイラ。決めて」
「……え?」
「今日は、ここで終わり。戻る」
喉が、ゴクッと鳴った。
――戻る。もう?
――でも、ノルン紙が示した方角は。
上流。町外れ。古い石造り。
――廃教会。
あそこは終わった場所のはず。終わったのに、まだ何かが残ってる。ノルン紙は、そう言っていた。
でも、セリナの言う通りだ。
――いま追えば、後ろから刺される。
――それくらい、分かる。分かるけど……。
「……分かりました」
声が、ちゃんと出た。自分でも驚くくらい。
――あ、言えた。ちゃんと、言えた。
衝動じゃない。判断だ。
ルフトが短く鳴く。「クル」
セリナが、ほんの少しだけ頷いた。
二人は露店を離れる。
歩き出した瞬間、背中に視線が刺さる。刺さってるのに、振り返らない。
――振り返ったら、負ける。
――見ちゃ駄目。見ちゃ駄目。
石畳が硬い。一歩ごとに、腰の【ウィンド・リボルヴ】が小さく鳴った。ひゅ、と風が刃に沿って滑る音。
――父さん。
――こういうとき、どうしてた?
――あたし、ちゃんとできてる?
思い出そうとすると、胸が苦しくなる。代わりに、父の手の温度だけが、掌に残る気がした。
ギルドへ向かう路地に入ったところで、セリナが立ち止まった。壁際。影が濃い場所。
そこで初めて、セリナが小さく息を吐いた。
「……いたわね」
「……はい」
マイラも息を吐く。肺の中に溜めていたものが、やっと出ていく。
――やっと、息ができる。
でも、安心はできない。視線は消えても、"知った"可能性は消えない。
セリナが言う。
「封緘の札に刻まれた名は、口にしない。覚えて」
「……はい」
「ギルドでも。誰にも」
マイラは唇を噛んで頷いた。
――嘘は、嫌い。
――でも、封緘は、秘密を守る仕事。
――守るための嘘なら、線の内側なんだ。
そう思った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
痛みが、ルールになる。
セリナは革鞄からノルン紙を取り出した。紙は、まだ細かく皺が寄っている。まるで、怯えた皮膚みたいに。
「これが反応した場所。もう一度確かめる」
「……今日ですか」
「今日」
セリナの声が硬い。
「"三日"を待ってくれない相手がいる」
マイラの喉が、ゴクッと動いた。
――三日じゃない。もう、削れてる。
――待ってくれないって、誰が?
――誰が、あたしたちを追ってるの?
セリナはノルン紙を折りたたむ。折り目が、また矢印みたいに走った。まっすぐ、町外れへ。
「行くわよ」
「……はい」
足が、勝手に一歩前へ出た。
――怖い。
――それでも、止まれない。止まっちゃいけない。
背中の汗が冷える。風が髪を引っ張る。その風が、どこか古い石の匂いを運んできた気がした。
――この匂い、知ってる。
――呼ばれてる。
マイラは唾を飲み込んだ。
セリナが短く言った。
「廃教会」
――やっぱり、あそこだ。
----------------------------
いつも読んでいただきありがとうございます
ご意見、感想などいただければ嬉しいです




