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第2章 第6話 ── 鉛の名


鉛の札が石に当たって、かち、と鳴った。

その音だけで、胸の奥が冷たく固まる。

マイラは膝をついたまま、震える指先を肘で押さえた。川の流れは変わらないのに、ここだけ空気が重い。

――誰かの手が、ここに触れてる。

「……読める?」

セリナの声が、いつもより低い。

マイラは札の文字を、もう一度なぞるように見た。削れてる。擦れてる。なのに、そこだけ妙に鮮やかで、目に刺さる。

『カイ』

――"名前"……?

声に出すのが怖くて、喉の奥で噛み砕いた。指を離しても、鉛の冷たさがまだ皮膚に残ってる。氷より冷たいのに、心臓だけ熱い。

ルフトが肩の上で、小さく尾を丸めた。

「ク……ル」

警戒。怒り。その両方が混じった鳴き方。

セリナは油布の端を見つめたまま、息を吸った。

「いい。ここまで」

「……中、見ないんですか」

「見ない」

短く、刃みたいに。

「封緘の札が付いた荷を、勝手に開くのは――資格剥奪で済まないわ」

セリナは視線を上げた。川面じゃなく、川の"まわり"を見ていた。

「中身が漏れたら、川が受け止める。受け止めて……腐る」

――腐る。

言葉の感触が、舌に残る。魚が死ぬ。水が濁る。笑い声が、止まる。

マイラの腹の奥が、ヒヤリと沈んだ。

「でも、札がここにあるってことは……」

「"正規の封緘物"が沈められてる可能性が高い」

セリナは革鞄から細い麻紐を出した。指が迷わない。封緘に慣れた手つき。

「固定する。引きずり出さない。場所を記すだけ」

麻紐を石積みの端に結び、目立たないように苔の下へ隠す。それから、ノルン紙を取り出し、息を吹きかけた。

紙が、ぞわ、と波打つ。さっきより深い皺。まるで紙が"痛がってる"みたいに。

「……ここ、強すぎる」

「ええ。だから今は、離れるわよ」

セリナは立ち上がった。

「マイラ。衝動で手を突っ込まないで」

――言われる前から、指が油布に伸びかけてた。

マイラは慌てて手を握りしめ、爪を掌に食い込ませた。痛みで、現実に繋ぎ止める。

――触ったら、わたし……止まらない。

「……はい」

その瞬間。

上流から、乾いた石の擦れる音がした。

ぱき。

小枝じゃない。もっと硬い。人の靴底が、石を踏んだ音。

マイラは反射で腰の【ウィンド・リボルヴ】に触れた。柄が冷たく、吸い付く。風が刃に沿って、ひゅ、と鳴った。

――父さん。

――"道を守れ"。今?

セリナは視線だけで合図した。

"見ない。追わない。今は数を増やさない"

マイラは息を殺し、木陰へ一歩引く。ルフトも鳴かない。

また、音。

ざり……ざり……

誰かが川辺を歩いている。ここを見に来た? それとも、たまたま?

――たまたま、なわけない。

ノルン紙が、マイラの指の間で皺を深くした。

そして、風向きが変わる。

鉄の匂いが、濃くなる。

「……帰るわよ」

セリナの声は、口の形だけで伝わるほど小さい。

マイラは頷いた。頷いたのに、足が一瞬遅れた。

――このまま帰ったら、逃げたみたいじゃん。

でも、逃げじゃない。運ぶための撤退。

封緘運び屋は、勝手に開けない。勝手に触らない。"守る"ために、線を引く。

そう言い聞かせて、マイラは踵を返した。

振り返らない。振り返りたいのに。

背中に、視線が刺さる気がした。

 ✻

森陰を抜けて、町道に出たとき。肺がやっと息を吸った。

マイラは気づく。喉が、乾いている。

――さっき食べた海老の塩が、まだ舌に残ってる。

セリナが露店の前で止まった。

木桶の中で、氷がきし、と鳴る。削り氷に果蜜を垂らす、甘い香り。

「飲む。今」

「……はい」

差し出された杯は、指に冷たい。表面に水滴が浮いて、朝の光を弾く。

ひと口。

しゃり。舌が痛いほど冷えて、次に甘い酸味が広がる。喉を通ると、胃の奥がすうっと落ち着く。

――冷たくて、甘くて、そして、怖い。

味が、心の形そのまま。

ルフトには麦パンの欠片。噛む音が小さく、いつもより早い。

セリナが、マイラの杯を見たまま言った。

「覚えておきなさい」

「……何を」

「"札に名前が刻まれている封緘物"は、普通じゃない」

マイラの指が、杯を強く握る。氷が、かた、と鳴った。

「名前が付くのは、依頼主か……運び手か……」

セリナは言い切らない。言い切れないから、怖い。

「ギルドの記録を当たるわ。五年前だけじゃなく、もっと古いのも」

「私も、手伝います」

「ええ。あと――」

セリナは少しだけ間を置いた。

「今日見た刻印。誰にも言わない」

マイラの背骨がぞくっとした。

――誰かに聞かれたら、どうする?

――嘘をつく?

封緘は、秘密を守る仕事。でも嘘は、心を削る。

マイラは唇を噛んで、頷いた。

「……はい」

頷いた瞬間、腰のポーチが布越しに脈打った。どくん。どくん。鱗が、呼吸しているみたいに。

そして、ノルン紙が、ひとりでに折れた。

折り目が、文字みたいに走る。

セリナが紙を奪うように覗き込む。

「……まさか」

マイラも覗いた。

皺が作った線は、偶然に見えない。矢印みたいに、上流を指している。その先を、さらに一本の線が示す。"町外れ"。"古い石造り"。

――廃教会の方角。

胸が、ひゅっと縮む。

セリナが、短く言った。

「明日じゃ遅い。今日のうちに確認する」

マイラは息を呑んだ。

――三日じゃない。

――もう、"二日"かもしれない。

そのとき、露店の端で、誰かが小さく呼んだ。

「……カイ、って」

マイラの杯が、手の中でかち、と鳴った。



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