第1章 第2話 ── 廃教会への依頼
春の早朝。
ブレストンの石畳には、昨日の花市の名残がまだ甘く漂っていた。片付けられた屋台の跡から、踏まれた花弁の香りがふっと立つ。歩く人々の手には、まだ色とりどりの花束や小さな菓子袋が揺れていた。
胸の奥に残るわずかな高揚を押し留めるように、一度深呼吸してから――マイラは冒険者ギルドの扉に手をかけた。
木の扉は思ったより重く、押し開けた瞬間、鼻に木と紙の落ち着いた匂いが入り込む。外の明るさとは違い、ここには任務へ向かう者たちの張り詰めた空気があった。
心臓が、ひとつ鼓動を強める。
(……緊張してる? ううん、ただちょっとだけ。ほんのちょっとだけ。)
背筋を伸ばしたところに――
「来たね、マイラ」
落ち着いた声。受付に立つ セリナ・ローデン が視線を向けていた。
淡い銀髪をゆるく結い上げた後れ毛が、うなじの白さを際立たせる。藍色の制服が大人の静かな雰囲気をまとわせ、見ているだけで自然と姿勢を正したくなるほどの上品さがあった。
「セリナさん、おはようございます」
駆け寄ると、セリナは小さく微笑み、封蝋の押された羊皮紙を机の上で指先で滑らせた。細くしなやかな手。動きの一つひとつが涼やかで、若い冒険者たちが密かに羨望の目を向ける理由がよくわかる。
その赤い封印が視界に入った瞬間、
胸が――どくん、と跳ねた。
「これが……例の依頼ですね?」
「そうよ。届け先は、町外れの丘にある廃教会。表向きは運搬依頼だけれど……これは《封緘クエスト》に分類される特別案件。依頼主の名前は伏せられているわ」
言葉は静かで、けれどその一音一音に、普通の依頼とは違う重さが滲んでいた。
封緘――決して開けてはならない荷。
父の形見の短剣を握ったときと同じ、冷たく細い緊張が指先をかすめた。
セリナは指を組んで少し身を寄せる。ふわりと香草の香りが漂い、マイラは思わず息を整える。
「ルールは覚えているわよね。内容を漏らさないこと。決して開封しないこと。そして……紛失も破損も、絶対に許されない」
一瞬のためらい。
それでもマイラは視線を落とさずに頷いた。
「……はい。私が、必ず届けます」
その言葉に、背後からため息まじりの声が重なる。
「おい、本気で言ってんのか」
レンだ。
黒髪を乱し気味に掻きながら、マイラをじとっと見た。
「廃教会ってのはただの廃墟じゃねぇぞ。人が寄りつかないのには、それなりの理由があるって話だろ」
「分かってる。でも……これは私の役目だよ」
声は自然だった。震えていない。ただ、胸の奥の小さな不安を自分で押し留めるように静かに。
レンは諦めたように肩をすくめた。
「……昔からお前はそうだよな。一度決めたら聞かねぇ」
その瞬間、肩にいたルフトが羽根をびくりと震わせた。
空色の翼が、まるで空気の乱れを弾くようにかすかに光る。
「……キュゥ……」
低く押し殺したような鳴き声。いつもの軽い声色とは違う、張りつめた硬さがあった。
マイラは条件反射のように背筋を伸ばす。
「ルフト? どうしたの?」
返事はない。ただ、翼の根元が警戒するように強張り、視線は一点を探ろうとするように揺れていた。
封蝋の依頼書を受け取ったあと、
マイラは少し息を整えながら肩掛けかばんの紐を握りしめた。
セリナは、その仕草を静かに見つめていた。
「……マイラ」
名前を呼ぶ声は、さっきより少し低い。
大人の女性が “本心を話す前” にだけ見せるような落ち着いた声音。
マイラは姿勢を正す。
セリナは机の端に軽く指を置き、
その指先をゆっくりとすべらせながら言った。
「封緘クエストは、任されるだけが全てじゃないの。
――受け取った者の“心”が、試されるの」
「……心、ですか?」
「ええ。
荷を守る覚悟、
見えない不安に立ち向かう勇気、
そして……最後までやり遂げる意志」
静かに微笑みながら、
セリナはマイラの胸元に視線を下ろす。
そこには父の形見――ウィンド・リボルヴの柄がのぞいていた。
「その短剣、やっぱりあなたには“馴染んでいる”のね。
初めて見たときより……不思議と、しっくりきているわ」
マイラは一瞬だけドキッとして、
思わず手を柄に添えてしまう。
「父の形見で……ただの、短剣です。大したものじゃないのに」
セリナは少しだけ目元を緩めた。
けれど、言葉は優しさだけではなかった。
「いいえ。持ち主がどう扱うかで、武器は姿を変える。
それは“ただの短剣”ではないわ。
あなたを守るために、ここにある」
胸の奥が、ふっと温かくなる。
でも同時に、細い不安が喉の奥を撫でた。
「……なんだか、わたしよりも、わたしのことを知ってますね」
「ふふ。受付はね、若い冒険者の目の光を見るのが仕事なのよ」
セリナは軽く机を回り込み、
マイラのすぐそばに立つ。
距離が近い。
香草の香りと、紙束の乾いた匂いが混ざって、
どこか大人の落ち着きを感じさせた。
「マイラ」
「はい」
「怖くなったら、戻ってきてもいいのよ。
その勇気を“弱さ”とは呼ばないわ」
マイラは目を見開いた。
セリナの瞳は、静かな湖みたいに澄んでいる。
「……でも、私は行きます。
怖くても、やらなきゃいけないことがありますから」
一瞬だけ、セリナの表情に“誇らしさ”が揺れた。
そして彼女は、マイラの肩にそっと手を置いた。
「それでこそ、封緘運び屋の素質がある子ね。
――行ってらっしゃい、マイラ。必ず戻ってきて」
手が離れた瞬間、
マイラは胸の奥で小さく息を吸った。
扉へ向かう背中を、
セリナは静かに見送っていた。
ギルドから出るとき、視界の端に黒髪の少年が立っていた。
灰色の瞳――昨日の花市でも、同じ視線を感じたあの少年だ。
目が合った……と思った瞬間、
彼は人混みに溶けるように姿を消した。
(……え、またあの子?
なんで……私なんか気にするんだろ)
胸の奥に生まれた小さなざわつきは、
靴の中に小さな小石が残ったみたいにずっと転がり続けた。
***
街の大通りにある冒険者向けの食堂は、朝から熱気で満ちていた。
鉄鍋のぶつかる音、冒険者たちの笑い声、香草と油の混ざった香り――
全部が、今日という日の始まりをせわしなく告げている。
大鍋では春野菜のスープがぐつぐつと煮え、湯気で食堂内は暖かい。
中央のテーブルには焼きたてのパンが山盛りに積まれていた。
「やっぱ朝はこれだな!」
レンは豪快にパンをちぎってスープに放り込むように食べる。
対照的にマイラは、小さくちぎったパンを静かに口へ運んだ。
喉の奥が少し強張っていて、味がゆっくりと広がる。
――甘くて優しいスープ。
なのに、胸の奥の張りつめた感じはまだ消えない。
スプーンを置き、そっと拳を握る。
(行かなきゃ……これが、私の初めての封緘クエストなんだから)
冒険者たちの賑やかな声の中で、
あの灰色の瞳と、ルフトの羽の震えが、
冷たい影のように胸の底で静かに渦を巻いていた。
そして――
廃教会へ向かう旅が、静かに動き出した。
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