第2章 第2話 ――川音の下で、沈むもの
封緘クエストには、文字にされぬ掟がある。
「異変に気づいても、騒がぬこと」
それは規則ではない。
けれど、長く生き残った運び屋ほど、皆が同じことを囁いた。
――異変は、叫ぶほど深く沈む。
川沿いの石畳を離れてなお、
マイラの瞼の裏には、あの一匹の空魚が焼きついていた。
跳ねない。
光らない。
水の中にあるはずの生命の気配だけが、すっぽりと抜け落ちている。
――考えすぎ、だ。
そう言い聞かせる。
だが胸の奥に張りついた薄い膜が、ぴん、と音を立てて緊張する。
歩くたび、
さっきまで心地よかったはずの初夏の空気が、肺の手前で止まった。
――息が、浅い。
肩の上で、ルフトが羽をすぼめる。
いつものように鼻を鳴らさない。
「……ねえ」
無意識に、声が漏れた。
「さっきの、見た?」
ルフトは答えない。
代わりに空色の翼をわずかに震わせ、視線だけを川の方へ向けた。
――やっぱり。
胸の奥で、確信が小さく灯る。
マイラは足を止めた。
振り返り、川を見下ろす。
水面は変わらない。
陽を反射し、きらきらと、何事もなかったように流れている。
――川は、流れてるのに。
変わらない景色の中で、
変わってしまった**"自分"だけ**が、取り残されている感覚。
喉が、また渇く。
さっきの氷果ジュースの冷たさを思い出す。
あれほど身体を満たしたはずなのに、
今は胸の奥が、じんわりと熱を持ち始めている。
――消えない。
――あの感触。
腰元に下げた【ウィンド・リボルヴ】が、
歩調に合わせて、微かに揺れた。
触れていない。
なのに柄の冷たさが、皮膚の内側から伝わってくる。
――父さん。
名前にしない想起が、
風の隙間から、そっと入り込む。
マイラは一度だけ、深く息を吸った。
……だめ。
今は、まだ。
ギルドの建物が見えてきたころ、
川開き祭の喧騒は、背後でひとつの塊になった。
扉を押し開けると、
外の湿った空気とは違う、乾いた木と紙の匂いが迎えてくる。
「おはよう、マイラ」
受付台の向こうから、
落ち着いた声がした。
セリナ・ローデンだ。
淡い銀髪をきちんと結い上げ、
今日も変わらない穏やかな表情。
――この人の前では、隠せない。
理由のない確信が、胸に浮かぶ。
「……おはようございます」
声が、わずかに遅れる。
セリナはそれに気づいたのか、
書類から目を上げ、マイラをまっすぐ見た。
「顔色が少し悪いわね」
「……そうですか?」
「ええ。いつもより、風が通っていない顔」
言い当てられて、
マイラは小さく息を飲んだ。
――なんで、分かるの。
「何かあった?」
一瞬。
答えかけて、言葉が止まる。
――騒ぐほどじゃない。
――証拠もない。
――ただの、違和感。
封緘クエストの鉄則が、頭をよぎる。
……でも。
「川で」
その一言だけで、
胸の奥の膜が、少しだけ破れた。
「空魚が、一匹……」
そこで、言葉が切れる。
セリナは急かさない。
ただペンを置き、続きを待つ。
「……死んでました」
短く、事実だけ。
セリナの表情が、ほんのわずかに引き締まった。
「珍しいわね」
「ですよね」
「ええ。初夏のこの時期なら、なおさら」
間。
「それだけ?」
探る声ではない。
確かめる声。
マイラは、唇を噛んだ。
――言うべき?
0.5秒。
迷い。
「……鱗が」
「鱗?」
「一枚だけ、変で……」
言葉にした瞬間、
自分でも曖昧だと分かる。
セリナは目を伏せ、少し考え込んだ。
「見間違いの可能性は?」
「……あります」
「でも?」
「……気になりました」
それだけで、十分だった。
セリナは静かに頷いた。
「分かったわ。今はそれでいい」
「え……?」
「違和感は、事実よ」
優しく、しかしはっきりと。
「あなたが感じたなら、それは"無かったこと"にはしない」
マイラの胸が、少しだけ軽くなる。
――受け止めてくれた。
「今日は、正式な依頼は入っていないわ」
セリナはそう言ってから、
ほんの一瞬だけ、言葉を選んだ。
「……でも、町を歩くなら、気をつけなさい」
「はい」
「何か見つけたら、すぐ戻ること」
「……分かりました」
肩の上で、ルフトが小さく鳴いた。
「クル」
その声に、
セリナが初めて視線を向ける。
「この子も、落ち着かないみたいね」
「……はい」
「動物の感覚は、案外正確よ」
その言葉が、
胸の奥で静かに響いた。
ギルドを出ると、
外の光が、少し眩しく感じられた。
川の方角から、祭り囃子の試し打ちが聞こえてくる。
太鼓の音。
笛の高音。
楽しげなはずの音が、
今日は、どこか遠い。
マイラは立ち止まり、
川の流れを思い浮かべた。
――川は、流れている。
――なのに、沈むものがある。
胸の奥で、
何かが、確かに動き始めていた。
それが"使命"なのか、
それとも"巻き込まれる予感"なのか。
――まだ、分からない。
ただ一つ。
腰元の【ウィンド・リボルヴ】が、
風を受けて、微かに鳴った。
それは、
呼ばれているような音だった。
――第2章、つづく。




