第2章 第1話 ―― 初夏、川は流れているのに
封緘-ふうかん-クエストには、いくつかの鉄則がある。
荷を開けぬこと。 依頼を漏らさぬこと。 そして――終えた任務は、決して振り返らぬこと。
けれど。
終わったはずのものが、身体の奥深くで炭火のように燻り続けることまでは、 どの規則書にも、ひと言も記されていなかった。
―――
朝のブレストンは、初夏の予感に満ちていた。
夜露を吸った土の匂い。若草の、青く透明な香り。 川の方角から這うように運ばれてくる、湿気を帯びた冷気が、通りをひたひたと満たしてゆく。
――夏が、来る。
その確信だけが、町全体を浮き立たせていた。
マイラは川へ下る石畳の坂道を歩きながら、胸の奥底に張りついた"薄い膜"の存在を意識していた。 深く息を吸おうとしても、空気がどこかで引っかかる。喉の奥で、何かが邪魔をする。
――ちゃんと呼吸しているはずなのに。 ――肺の底まで、届かない。
足取りは軽い。 身体も重くはない。 それなのに、心臓だけが半歩遅れてついてくるような、妙な違和感。
肩の上で、ルフトが小さく身じろぎした。
「……?」
普段なら、朝の散歩は大好きなはずだ。 風に耳を立て、羽毛の尾をふわりと揺らして、嬉しそうに鼻を鳴らす。 けれど今朝は違う。
ルフトは、川の方角を一瞥すると、まるで何かを見つけてしまったかのように、すぐに視線を逸らした。 羽の付け根が、わずかに強張る。
――水、嫌いだったっけ?
問いかける前に、マイラは自分の喉が異様に渇いていることに気づく。 理由のない渇き。 舌の奥が、砂を含んだようにひりつく。
坂を下りきると、視界が一気に開けた。
ブレストン川。
初夏の陽光を一身に受けて、水面がきらきらと、まるで無数の宝石を散りばめたように揺れている。 川岸では、もう川開き祭の準備が始まっていた。
木製の屋台を組み立てる音。 色とりどりの旗布がはためく音。 子どもたちの弾けるような笑い声。
「今年は水量もいいな!」 「空魚も、よく跳ねてる!」
町の人々の声が、陽射しのように明るく弾んでいる。
――空魚。
マイラの視線が、無意識に水面を追った。
次の瞬間―― ぱしゃり、と軽やかな音を立てて、銀色の影が弧を描いて跳ねた。
陽光を弾いた鱗が、ほんの一瞬、空に散る光の破片のように煌めいた。
――綺麗。
そう思った直後。 胸の奥深くで、何かがぎゅっと握り潰されるように縮んだ。
理由は分からない。 ただ、目を離したくないのに、見続けるのが怖い。 矛盾した感情が、胸の中で絡まり合う。
――見ちゃ、だめな気がする。
ルフトが低く、喉の奥で鳴いた。
「クル……ルゥ……」
警戒の声だ。 周囲に敵はいない。 人も多い。平和そのものだ。
――なのに。
マイラは無意識に、腰元の短剣【ウィンド・リボルヴ】に手を伸ばしかけて、途中で指を止めた。
触れていないのに、柄の冷たさが掌によみがえる。 あの鋭い、金属の感触。
――今は、まだ。
自分に言い聞かせるように、マイラは視線を水面から引き剥がした。
―――
昼前。
祭り準備の喧騒から少し離れ、マイラは川沿いの露店へと足を向けた。
木陰に並ぶ屋台からは、果実の甘い香りと、砕いた氷の冷気が漂ってくる。
「氷果ジュース、ひとつ」
店主が笑顔で頷き、手慣れた動作で透明な杯を手に取った。 大きな木桶の中から、氷塊を削り取る音。しゃり、しゃり、しゃり。 その音だけで、マイラの喉は反射的に動いた。
――渇いてる。
杯の中に、まず削りたての氷が山のように盛られる。 ふわりと柔らかく、光を透かして白く輝く氷の粒。
その上から、店主が小さな壺を傾けた。
とろり。
薄青色の果肉が、氷の斜面をゆっくりと滑り落ちていく。 透明に近い、けれど確かに青い。 まるで夏の空を溶かしたような、涼やかな色。
果肉が氷に触れるたび、じゅわっと小さく音を立てて、冷気と甘い香りが立ち上る。
「はい、どうぞ」
受け取った杯は、思ったより冷たい。 掌に、ひんやりとした感触。 杯の表面には、すでに細かな水滴が浮き始めている。
マイラは杯を目の高さまで持ち上げた。
透明なガラス越しに、陽の光が差し込む。 青い果肉が、氷の粒の間でゆらゆらと揺れている。 氷が溶け始めて、果肉の甘い蜜が、じわじわと下へ染み込んでいく様子が見える。
――綺麗。
そのまま口元へ。
杯の縁を、唇が捉える。 冷たい。
傾けた瞬間――
しゃり、と氷が崩れる音。
口の中に、冷たい液体が流れ込んできた。
――冷たい!
最初に来るのは、氷の冷たさ。 舌の表面が、一気に冷やされる。
次の瞬間、果肉の甘みが、ふわっと広がった。
ただの甘さじゃない。 最初は優しく、淡く、透明感のある甘み。 それが舌の上でゆっくりと溶けていくと、今度は少しだけ酸味が顔を出す。
爽やかな、青い酸味。
氷の粒が、舌の上でしゃりっ、しゃりっと小さく砕ける。 その冷たさが、頬の内側にまで染み渡っていく。
喉を通る瞬間――
すうっ。
冷たい液体が、喉の奥をゆっくりと滑り落ちていく。 通った道筋が、はっきりと分かる。
食道を下り、胃の中へ。
じんわりと、身体の芯が冷えていく感覚。 渇いていた喉が、嘘のように楽になる。
マイラは思わず、小さく息を吐いた。
「……はぁ」
そして、思わず口元が緩んだ。
「んフフ……しあわせ」
声に出してしまってから、少しだけ恥ずかしくなる。 けれど、否定はできない。 本当に、幸せだった。
もう一口。
今度は少し多めに、氷ごと口に含む。
しゃり、しゃり。
噛むたびに、氷が砕けて、中に閉じ込められていた果肉の蜜が弾ける。 口いっぱいに、青い甘さが広がる。
冷たい。 甘い。 爽やか。
三つの感覚が、舌の上で溶け合う。
喉を通るたび、身体の熱が、少しずつ引いていく。
――ああ、生き返る。
杯の中で、氷がゆっくりと溶けている。 薄青色の液体が、透明に近くなっていく。 それでも香りは残っていて、杯を傾けるたび、鼻腔をくすぐる。
マイラは杯を両手で包み込むように持った。
冷たい。 でも、心地いい。
――冷たいのに。
喉が楽になるほど、身体が落ち着くほど、 対照的に、胸の奥に残る"あの熱"が、まるで対比するようにはっきりと浮かび上がってきた。
――消えてない。
――あの場所の感触が、まだ。
マイラは杯を持つ指に、知らず知らず力が入っていることに気づき、ゆっくりと指を緩めた。
そのときだった。
川岸の少し下流。 人の少ない、日陰になった場所で、誰かが声を上げた。
「……あれ? なんだこれ」
マイラは、条件反射的にそちらを見た。
浅瀬に、一匹。 空魚が、力なく横たわっていた。
跳ねない。 光らない。
濡れた鱗が、陽に当たって鈍く、くすんだ光を放っている。
――死んでる?
胸の奥が、氷を落とされたようにすとんと冷える。
――どうして。どうしてここで。
誰も騒がない。 「暑さのせいだろ」「そういうこともあるさ」と笑って通り過ぎる。
でも。
マイラの目は、その場から動かなかった。
魚の腹のあたり。 一枚だけ、鱗の色が違う。
光の角度が変わったとき、 細い線のようなものが、まるで傷跡のように浮かび上がった気がした。
――気のせい?
瞬きした瞬間、 それはもう、ただの鱗に戻っていた。
ルフトが、マイラの肩で小さく震えた。
「……」
言葉は、喉の奥で凍りついたまま出てこない。
――今の、なに。
川は、何事もなかったかのように流れている。 祭りの準備も、笑い声とともに続いている。
世界は、何も変わっていない。
――変わったのは。
マイラは、自分の鼓動が、さっきより明らかに早くなっていることを、はっきりと自覚していた。
――わたしの、ほうだ。
初夏の風が、川面を優しく撫でる。 心地よいはずのその音色に、なぜか微かに―― ほんの僅かに、鉄の匂いが混じった気がした。
マイラは、まだ知らない。
この日見た"一枚の鱗"が、 もう二度と、彼女をただの運び屋には戻さないことを。
そして―― 川が何を流し、何を隠しているのかを。
――第2章、始まり。




