第1章 第14話 ―――風が止まらない場所
封緘クエストには、冒険者ギルドが定めた不可侵の鉄則がある。
依頼内容を決して漏らさぬこと。
荷の開封を禁ずること。
そして何より――自己の命よりも、荷物の保全を最優先とすること。
極端な話、戦闘に勝利する必要はない。生き残る必要さえ、二の次だ。ただ「届ける」こと。その一点のみが、封緘士の存在証明となる。
……だからこそ、マイラは今も、自分の肋骨の内側に張り付いたまま消えない“熱”に、正しい名前をつけることができない。
届けたのか。
失ったのか。
それとも――触れてしまったのか。
そのどれもが正解である気がして、同時に、どれもが決定的に違う気がした。
―――
午後四時のギルドの廊下には、傾き始めた日差しが長く斜めに差し込んでいた。
窓枠の影が床に落ち、舞い上がった無数の埃が、黄金色の粒となって静止した時間の中を漂っている。古びたオーク材の床を踏むたび、きし、きし、と小さな音が鳴った。それは普段なら聞き流してしまうような、建物の呼吸音だ。けれど今は、その些細な音が、鼓膜を直接叩くように大きく響く。
町はいつも通りで、ギルドもいつも通りだった。
受付前のホールからは、活気のある喧騒が漏れ聞こえてくる。
「次は南門だ」
「報酬が上がったらしいぞ、例の討伐」
そんなありふれた軽口が飛び交い、討伐帰りの冒険者たちが、腰の武器をガチャガチャと鳴らしながら豪快に笑っている。汗と鉄と、安い酒の匂い。
――それなのに。
世界はこんなにも鮮やかなのに、マイラの心臓だけが、まだあの廃教会の湿った暗がりに縛り付けられている。
息を吸うたび、胸の内側に正体不明の“薄い膜”が張りついたまま、新鮮な風を通さない。外界の音も、光も、その膜越しにぼんやりと濾過されて届くようだ。
肩の上で、ルフトが短く鳴いた。
「クルル……」
普段の甘えるような声ではない。背中に揺れる羽根の一枚だけ、ぴくりと揺れる。周囲の敵を警戒しているのではない。この小さな相棒は、マイラの内側で起きている、目に見えない地殻変動を感じ取っているのだ。
ンンッ!
と。
「……マイラ」
隣を歩くレンが、不自然なほど大きく咳払いをした。
その声色は、いつものぶっきらぼうな調子よりも、意識して軽く作られている。
「無理すんなよ。その顔で“大丈夫”って言われても、説得力ゼロだからな」
一瞬、言葉の意味が頭の中で滑った。
一拍遅れて、意味が浸透し、胸の奥がきゅっと縮む。
――あ、やっぱり。
思ったよりも、見られていた。
自分では完璧に平気なふりをしているつもりだった。仮面は上手く被れていると思っていた。けれど、一番近くにいた彼には、硝子細工のひび割れのように露呈していたのだ。
「……ひどい」
そう返しながら、口の端だけが、ほんの数ミリだけ持ち上がった。
笑えたわけじゃない。けれど、胸に突き刺さっていた鉛のような重さが、その軽口のおかげで、一瞬だけ呼吸できる軽さになった。
「だろ?」
レンは悪びれもせず、大げさに肩をすくめてみせる。
「だから言ってんだ。無理して“平気な顔”を作るエネルギーがあるなら、今日はもう、そのまんまでいろ。ボロボロのままで」
その言葉が、不思議と深く胸に沈殿する。
それは励ましでもなければ、同情でもない。ただ、「逃げ場」を用意するような、不器用な許しだった。
「……うん」
マイラは短く頷く。
声は震えなかった。足も止まらなかった。
――それでも。
――わたしの中だけ、まだ、あそこにいる。
袖口に残っていた白い石灰の粉塵を、無意識に指で払う。
さらり、と乾いた音を立てて、粉は床に落ちた。
――消えるんだ。
――こんなに簡単に。
形ある汚れはすぐに落ちる。それなのに、指先に残った感覚だけが、刺青のように消えてくれない。冷たくて、乾いていて、無機質なのに意思を持っていた、あの感触。触れた瞬間の、魂ごと持っていかれるような重力を、指の腹が記憶してしまっている。
マイラは、何も言わずに歩き続けた。
レンも、それ以上は何も言わずに、ただ半歩先を歩いて風除けになった。
春の風だけが、二人の間の沈黙を通り抜けていった。
―――
ギルドマスター代理、セリナの執務スペースは、喧騒渦巻く受付の奥にある、静寂に満ちた小さな区画だった。
整然と積まれた帳簿、未開封の封筒、細い革紐で括られた書類束。すべてが定規で測ったように定位置にあり、そこだけ空気が冷たく澄んでいる。
足を踏み入れると、セリナが書き物をしていた手を止め、革張りの椅子から立ち上がった。
窓からの光を受け、淡い銀髪が肩から一筋ほどけて揺れる。その一挙手一投足が、完成された儀式のように美しい。
「……報告の準備は、できていますか」
声はビロードのように柔らかい。けれど、その言葉の芯は鋼のようにまっすぐだった。
それはマイラを追い詰めるためではなく、むしろ「逃げなくていい場所」を作るための厳格さだった。
マイラは喉を鳴らす。ごくり。乾いた嚥下の音が、静かな部屋に変に大きく響いた気がした。
「……教会が、崩れました。中で……いろいろ、あって」
「“いろいろ”は、あとでいいです」
セリナは、マイラの拙い言葉をあっさりと断ち切った。
冷淡なのではない。マイラが記憶を反芻し、再び傷つくのを防ぐように、事実の刃だけを抜き出したのだ。
「まず――結論だけ。あなたは、ここに戻ってきた。五体満足で、任務を終えて。それで十分です」
――十分って、なにが?
胸の奥が、熱湯を注がれたようにじわりと熱くなる。
それは安堵とも、悔恨ともつかない。「救われそうになって怖い」に近い、足元が崩れるような揺らぎ。
セリナは、机上の一枚の羊皮紙に、さらさらとペンを走らせた。
紙を滑るペンの音が、マイラの乱れた心拍を整えるメトロノームのように響く。
「表向きには、老朽化による自然崩落。連日の雨の影響もあったのでしょう」
その口調は事務的で、淡々としている。
だが、それこそが、この人がすでに“裏側”の事情を察し、処理を終えている証だった。
「町への説明は、それで通します。現場は危険区域として封鎖。あなた達の名前は公式記録には残りません」
マイラの肩から、目に見えない重りが一つ落ちた。
息が、ほんの少し深くなる。
――守られてる。
――でも、守られているだけじゃ……もう足りない気がする。
セリナの氷のようなブルーの瞳が、ふとマイラの腰元へ落ちた。
そこにある短剣、【ウィンド・リボルヴ】。
触れていないのに、柄の冷たさが衣服越しに伝わってくる。
「……封緘について」
その一言で、緩みかけたマイラの背筋が再び強張った。
指先に冷や汗がにじむ。ルフトが、肩の上で小さく姿勢を変え、爪を服に食い込ませた。痛みが、意識を現実に繋ぎ止める。
セリナは、ほんのわずか――目を細めた。
それは笑みのようでもあり、哀れみのようでもあった。
「封緘は“届いた”扱いです。形式上、任務は完了。報酬は規定通り支払われます」
言葉が、石のように胸の奥底へ落ちていく。
音を立てず、波紋も広げず、ただ重く沈殿する。
――届いた。
――じゃあ、あれは……わたしが、届けたことになるの?
――あの結末を?
「あなたの責任ではありません」
マイラの思考を先読みしたかのように、セリナが言葉を継いだ。
その声には、不思議な温度があった。薄い毛布のように、震える心へふわりと被せられる。
「ただし」
セリナがペンを置いた。カツン。硬い音が区切りを告げる。
「あなたは、“報告”を覚えておきなさい。言葉にする必要はありません。ただ、忘れないこと」
マイラは反射的に頷きかけて――止まった。
報告。それは単に出来事を羅列することではない。
“何に触れ、何を選び、何を見送ったか”を、自分自身の魂に刻み込む行為だ。
一瞬、胸の奥が万力で締め上げられるような痛みに襲われた。
――それを認めてしまったら。
――もう二度と、「知らなかった頃の自分」には戻れない。
セリナは、その迷いすらも当然の通過儀礼として受け止めるように、視線を逸らさず静かに言った。
「今は、休みなさい。今日のあなたは、もう十分すぎるほど働いた」
それは上司としての命令ではなく、年長者としての慈愛ある宣告だった。
“守る側の人間”が持つ揺るぎない余裕が、そこにはあった。
「……レンさん」
セリナの視線が、一歩下がって控えていたレンへ移る。
「あなたは、彼女を部屋まで。食事は――消化の良い、温かいもので構いません」
「了解しました」
レンは短く答えた。余計な追及も、茶化すような言葉も一切ない。
その簡潔さが、今は何よりもありがたかった。
――言葉が多いと、きっと、わたしは壊れてしまうから。
―――
ギルドの宿舎は、本棟の裏手にある静かな木造の建物だ。
廊下の窓から見えるブレストンの川は、夕刻の光を水面に受けて、溶けた銅のように穏やかにきらめいていた。
「……お前、今日はもう寝ろ」
レンが、マイラの部屋の扉の前で足を止めた。
「寝れなくても、横になれ。横になれないなら……水でも飲んで、ぼーっとしてろ」
言い方は相変わらず乱暴だ。けれど、その内容はどこまでも不器用な優しさで構成されている。
「うん……ありがとう」
マイラが小声で答えると、レンは照れ隠しのように小さく鼻で笑い、すぐに背を向けた。
「礼とか、いらないから。……明日、話せるならでいい。またな」
廊下に足音が遠ざかっていく。
残されたのは、部屋の静けさと、マイラの胸の奥でくすぶり続ける“熱”だけ。
鍵を開け、部屋に入る。ルフトが肩からふわりと降り、ベッドの上にちょこんと座った。
耳をピンと立て、窓の方を見つめている。何もない空間から、何かを聞き取っているようだ。
マイラは腰の短剣の柄に、そっと指を添えた。
触れた瞬間、ひやり、と鋭利な冷たさが指先を刺す。
――冷たい。
――でも、わたしの中は、まだこんなに熱い。
窓を開けると、春の風がどっと流れ込んできた。
萌え始めた若草と、川の湿り気と、遠くの家々から漂う夕餉の香り。町は生きている匂いがする。生活の匂いがする。
それなのに。
風が頬を撫でても、心の膜は破れない。
“あの場所”で吸い込んだ古い闇が、まだ肺の奥深くに澱のように残っている。
――終わったのに。
――終わったことに、されただけ。
「ピィ……」
ルフトが短く鳴き、小さな頭をマイラの膝に擦り寄せた。その確かな体温と重みだけが、今この瞬間の現実だった。
「……だいじょうぶ」
口に出した瞬間、その言葉の空虚さに気づく。
――“大丈夫”って、なんて便利な言葉だろう。
便利すぎて、何も伝えない。便利すぎて、本当の傷口を隠してしまう。
―――
日が落ちきった夕方。
宿舎の小さな食堂に、湯気が立っていた。
昼の具沢山のスープとは違う、簡素な麦粥と、薄い塩味の野菜スープ。
素焼きの器は縁が少し欠けていて、使い込まれた茶色に変色している。その粗末さが、妙に張り詰めた神経を緩ませてくれる。
木の匙で粥をすくう。
とろり、と柔らかく煮崩れた麦が、舌の上で熱を広げた。
麦の素朴な甘さと、輪郭のはっきりした塩気。胃の奥に落ちると、身体の中心からじんわりと温まり、魂がようやく“ここ”に戻ってくる感覚がある。
でも。
身体に熱が戻れば戻るほど、胸の奥にある“別の熱”との対比が、より残酷なほど鮮明になっていく。
――あれは、怖かったな。
――でも……目を逸らしたくない。
恐怖の裏側にあった、魅入られるような何か。喪失の中にあった、手触りのある何か。
マイラは匙を置き、テーブルの下で短剣の柄を強く握った。
白く浮き上がっていた関節の力を、ゆっくりと、時間をかけて緩めていく。指先に血が巡り、色が戻る。
ルフトが、隣で小さく羽を鳴らした。
パタ、と一度だけ。まるで、マイラの背中を無言で押す合図のように。
窓の外で、風が鳴った。
それはただの春風。
花を揺らし、冬を運び去る、優しいはずの音。
――なのに、どこかで微かに、血と鉄の味がした。
マイラはまだ知らない。
この日から、風はもう、彼女を待たなくなったことを。
無邪気な子供の歩幅に合わせて吹いてくれる季節は、今日で終わったのだと。
第1章 完
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これから始まる【第2章】も読んでいただければ嬉しいです。




