第1章 第13話 ―― 風が戻る町、戻らない感覚
廃教会を背にして、どれほどの時が流れただろうか。
丘を下る小径は、春の雨を吸った草々が踏みしだかれ、濃厚な湿り気を帯びていた。一歩を踏み出すたび、靴裏に粘りつく泥の重みと冷たさが革越しに伝わり、あの場所での記憶を生々しく反芻させる。
マイラは、黙々と歩いていた。
胸の深奥で燻る“熱”が、いつまでも消えない。
全力で走り抜け、荒い息を整え、まだ冬の名残を含む冷たい春風に晒されても――その熱だけは、肋骨の内側に張り付いたまま離れない。
――夢じゃ、なかった。
そう自身の内側で確かめるたび、心臓が早鐘を打ち、喉の奥が乾く。
肩に乗るルフトは、いつもよりずっと静かだった。
小さな耳を伏せ、尾羽を体に巻きつけるようにして、周囲の空気の揺らぎさえ警戒している。その爪が、服の上から微かに食い込んでいた。
「……なあ」
前を歩いていたレンが、ふと歩調を緩めた。
「無理、してないか」
背中越しに投げられた、ぶっきらぼうな問いかけ。
振り向かないその配慮が、今のマイラには痛いほど優しかった。
「……大丈夫」
マイラは、一拍遅れて答える。
声は出た。
音として形にはなった。
けれど、自分の中では、何一つ整理がついていない。
――大丈夫って……なにが?
答えの出ない問いを抱えたまま、言葉だけが上滑りしていく。
最後尾を歩く少年――カイの気配は、鋭利な刃物のように張り詰めていた。
視線は真っ直ぐ前を向いているが、全身の神経が背後に集中しているのがわかる。
廃教会のほうを、決して振り返らない。
その頑なさが意図的な拒絶だと理解できてしまうのが、少し怖かった。
やがて、眼下にブレストンの町並みが広がり始める。
川沿いで軋む水車の音。
苔むした石橋の質感。
昼下がりの穏やかな喧騒。
――戻ってきた……。
音も、土の匂いも、肌を撫でる風も、すべてがいつも通りだというのに。
胸の奥だけが、あの廃墟の暗がりに取り残されている。
町の入口にある境界石のそばで、レンが足を止めた。
「……ここで、いったん別れよう」
視線を少年へと向ける。
「お前は……どうする」
少年は、わずかな沈黙を落とした。
「……俺は、もう少し調べる」
短く告げて、少年の瞳がマイラを捉える。
視線が絡み合う。
――あ。
一瞬、喉元で言葉が詰まる。
――聞きたい。
――でも、聞いてしまったら……もう二度と、元の日常には戻れない。
その刹那の迷いを見透かしたように、少年はふいと目を逸らした。
「箱の件……」
一度、乾いた唇を開き、また閉じる。躊躇い、あるいは警告。
「……まだ、渡すな」
それだけを残して、少年は背を向けた。
春の風が、二人の間に生じた見えない境界線を通り抜けていく。
――やっぱり……知ってる。
確信という重りが、胸の底へと静かに沈んでいく。
レンが、呆れたように、けれどどこか安堵したように息を吐いた。
「……厄介なのに、関わっちまったな」
苦笑いの滲む声。
そして、真剣な眼差しがマイラを射抜く。
「でも」
一呼吸置いて、彼は言った。
「逃げなかったのは、お前だ」
その言葉が、鋭く、深く、胸に刺さる。
――逃げなかった。
それは誇らしさではない。
後悔でもない。
ただ、変えようのない冷厳な事実として、そこに刻まれていた。
❖
ギルドに戻ったのは、太陽が中天にかかる少し前だった。
受付のカウンターで、セリナが書類の山から顔を上げる。
淡い銀髪が、肩の動きに合わせて水面のようにゆるやかに揺れた。その優雅な仕草ひとつで、ギルド内の荒っぽい喧騒が一段、静まった気さえする。
「……戻りましたね」
低く、ビロードのように柔らかい声。
それは問いかけではない。否定を許さない、絶対的な確信の響き。
彼女の涼やかな視線が、マイラの全身を静かになぞる。
頬の強張り、浅い呼吸のリズム、袖口に残る廃墟の白い粉塵――
一瞬にして、すべてを見抜かれたのがわかった。
「無事……とは、言いづらそう」
マイラは喉を鳴らし、乾いた音を立ててから、小さく頷く。
「……教会、崩れました」
セリナの美しい眉が、ほんの数ミリ、動いた。
それは驚きではない。頭の中の計算式が、静かに、しかし大幅に書き換えられた――そんな表情だった。
「……詳細は?」
距離を詰めるでもなく、突き放すでもない。
必要な一歩だけを、正確無比に踏み出す声色。
「……後で、報告します」
そう言うのが精一杯だった。今の自分には、言葉を紡ぐ力がない。
セリナは、その迷いを責めなかった。
代わりに、白魚のような指先で書類の端を整え、視線を落とす。
「わかりました」
一拍の間。
「まずは、休みなさい」
その言葉には、上司としての命令でも、同僚としての配慮でもない、
“守る側の余裕”が満ちていた。
彼女の視線が、ふとマイラの手元に落ちる。
無意識に握りしめられた【ウィンド・リボルヴ】。
指の関節が白く浮き出るほど、その短剣を離せずにいる。
セリナは、何も言わない。
ただ、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
――気づいている。
――でも、今は触れない。
その雄弁な沈黙が、妙に生温かい温度を持って、マイラの胸に残った。
「食堂は空いています。
……温かいものを、ちゃんと取りなさい」
最後に添えられた言葉は、業務の範疇を超えた、一人の年上の女性としての気遣いだった。
マイラは、反射的に背筋を伸ばす。
――この人には……隠しきれない。
そう思わせるだけの圧倒的な存在感が、そこにはあった。
ギルド裏の簡易食堂には、昼のピークが過ぎ去った後の、気だるく静かな空気が澱んでいた。
使い込まれた木の長机に並べられたのは、遅めの昼食。
素朴で、飾り気はない。
だが――
鍋から立ち上る湯気には、生命を繋ぎ止めるような、はっきりとした力があった。
骨付き肉と香味野菜をじっくりと煮出したスープ。
淡い琥珀色の表面に、刻まれた香草の緑が鮮やかに浮かび、湯気と共に温かく青い香りが鼻腔をくすぐる。
添えられた黒パンは、掌にずっしりと重い。
表面は香ばしくきつね色に焼かれ、指で割ると、中から穀物の豊潤な甘い香りがふわりと広がった。
レンが先に、スプーンを手に取る。
金属が陶器の器に触れ、カチ…と小さな硬質な音を立てた。
一口、口に運ぶ。
「……味、するか?」
何気ない問い。
けれど、その横顔は、マイラが“こちらの世界”に戻ってこれているか、その一点を測っていた。
「……うん」
そう答えてから、マイラもスープをすくう。
唇に熱い液体が触れた瞬間、
――あ、あったかい。
そう思考するより先に、こわばっていた身体の芯がほどけた。
舌の上に広がるのは、強すぎない絶妙な塩気。
野菜の優しい甘みと、肉の野性的な旨みがゆっくりと重なり合い、喉を通るころには、冷え切った胸の奥までじんわりと熱が染み渡っていく。
――ちゃんと……生きてる味。
そう実感して、肺の底から小さく息を吐き出した。
でも。
二口、三口とスプーンを進めても、どこか世界の“焦点”が合わない。
美味しい。
確かに、温かくて、涙が出るほど優しい。
それなのに、味の輪郭が、分厚いガラス越しの景色のように遠い。
スプーンが、器の縁に当たる。
カチン。
その音だけが、不自然なほど大きく鼓膜に響いた。
黒パンをちぎる。
噛みしめると、外はざくりと乾いた音を立て、中はほろりと湿り気を帯びてほどける。
穀物の素朴な甘さが、口いっぱいに満ちる。
――戻ってきたはずなのに。
ルフトが、膝の上で小さく鳴いた。
小さな命の温もりが、確かにそこにある。
「……大丈夫だよ」
そう呟きながら、柔らかい羽毛の背を撫でる。
――“大丈夫”って、なんて便利な言葉だろう。
スープは、まだ湯気を立てている。
パンも、十分に美味しい。
それでも、胸の奥底にこびりついた焦げ付くような熱だけが、この平穏な食事では消えてくれなかった。
マイラは、無意識に腰の短剣の柄へと指を這わせる。
風が、どこか遠くで吹いた気がした。
――終わってない。
春の穏やかな味の中に、確かに、嵐の予感が鉄の味のように混じっていた。
――――
つづく




