第1章 第12話 ―― 崩れゆく聖域と、胸に残った熱
低い音は、一度きりでは終わらなかった。
地の奥で、巨大なものが身じろぎするように、**ゴゴ ゴ……**と鈍い振動が続く。
床の石板が、嫌な音を立ててきしむ。
壁に走った亀裂から、白い粉塵が静かに降ってきた。
「……まずいな」
レンの声は低い。
剣を握る指に、無意識に力が入っている。
――崩れる……。
そう思った瞬間、マイラの胸がひくりと跳ねた。
恐怖だけじゃない。
さっき触れた“なにか”が、まだ消えていないと、はっきりわかる。
膝をついたまま、息を吸う。
肺がうまく膨らまない。
――私……なにを、したんだろう。
怖かった。
本当に、怖かったはずなのに。
それでも、触れた瞬間の感覚を思い出すと、
胸の奥が、じんわりと熱を持つ。
――消えないで、なんて……思ってる?
自分の気持ちがわからなくて、余計に怖くなる。
「マイラ」
レンが目の前にしゃがみ込み、視線を合わせる。
「立てるか?」
その声は落ち着いている。
でも、ほんのわずかに焦りが滲んでいた。
「……うん……たぶん……」
答えたものの、
身体がすぐには言うことをきかない。
足に力を入れようとして、よろける。
そのときだった。
「来るぞ!」
少年の鋭い声が、空気を裂いた。
祭壇の奥――
さきほど“それ”が退いた場所から、歪んだ霧が噴き出す。
魔霊。
さっきよりも輪郭が崩れ、形が定まらない。
――怒ってる……。
理由はわからない。
でも、そう感じてしまった。
箱を置いたからじゃない。
触れたからだ。
「……シル……バ…イ……」
音とも声ともつかない振動が、頭の内側を叩く。
ルフトが「フゥゥッ!!」と短く鳴き、震えながらマイラの前に出る。
小さな身体が、必死に壁になろうとしている。
――だめ……前に出ないで……。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
レンが剣を振るう。
霧が裂けるが、すぐに戻る。
「……っ、倒しきれないな」
少年が歯を噛みしめる。
「もうこの教会そのものが“場”なんだ!
完全に目を覚ます前に、出ないと――」
言葉の途中で、天井の一部が崩れ落ちた。
轟音。
石片が床に叩きつけられ、粉塵が舞い上がる。
「マイラ!!」
レンが腕を掴む。
反射的に、マイラは【ウィンド・リボルヴ】を握りしめた。
柄が、また温かい。
――違う……助けて、じゃない……!
心の奥で、はっきりとした感情が芽を出す。
――これ以上、誰かが傷つくのは……!!
短剣の先に、かすかな“風の線”が滲む。
さっきと同じ。
未完成で、頼りない光。
「……来ない…で……!!」
声は小さい。
でも、自分でも驚くほど、意志がこもっていた。
マイラは刃を振り抜く。左から右へと横一線。
強くない。
鋭くもない。
ただ、拒む気持ちだけを乗せて。
風が走る。
魔霊の霧が、一瞬、押し戻される。
「……っ、今だ!」
少年が叫ぶ。
「出口まで走れ! 振り返るな!!」
レンがマイラを引き寄せ、走り出す。
ルフトが必死に羽ばたき、後ろを気にするように鳴いた。
背後で、教会が悲鳴を上げるような音を立てる。
柱が折れ、壁が裂ける。
――ここ……もう……限界……。
そう思いながらも、マイラは振り返らなかった。
振り返ったら、
自分が触れてしまったものを、認めることになる気がして。
外へ飛び出した瞬間、冷たい春の風が頬を打つ。
草の匂い。
空の青。
背後で、廃教会が音を立てて崩れ落ちた。
土煙が立ち上り、すべてを包み込む。
しばらく、誰も言葉を発せなかった。
マイラは膝に手をつき、荒い息を整える。
胸の奥が、まだ熱い。
――終わった……わけじゃない。
でも。
確かに、何かが始まってしまった。
ルフトが、そっと肩に戻ってくる。
小さく震えながらも、離れない。
少年は、崩れた教会を一度だけ見て、すぐに視線を逸らした。
「……だから、言ったんだ」
小さく、吐き捨てるように。
マイラは、その横顔を見つめる。
――この子……
――なにを知ってるの……?
問いは、まだ声にならない。
春の風が吹く。
遠くから、町の音がかすかに届いていた。
胸に残る、この温もりの正体を――
マイラは、まだ知らない。
――――
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