第1章 第10話 ―― 崩れた封印の間で(前半)
咆哮が、空気そのものを震わせた。
耳だけじゃない。胸の奥、骨の内側まで揺さぶられるような衝撃。
マイラは反射的に両耳を押さえ、ぎゅっと目を閉じた。
風が逆巻き、破れた壁の奥から闇と光が混ざり合った渦が吹き出す。
――やだ……怖い……!
――でも、見なきゃ……!
まぶたを震わせて開くと、魔霊がさらに形を歪めていた。
青白い光が脈打つたび、霧の体は大きく膨らんでは縮む。
ルフトが羽を広げたまま、必死に風で押し留めている。
小さな背中が震えているのが見えて、胸が強く締めつけられた。
「ルフト……無理しないで……!」
声が震える。
伸ばした手が空気の暴れに押されてわずかに弾かれた。
レンが前へ出る。
風に煽られながらも剣を立て、魔霊へ体を向けた。
「マイラ、今のお前は離れてろ! 奴、さっきより明らかにヤバい!」
レンにも焦りがある。
いつもの冷静さは保とうとしているけれど、声の張りが違う。
黒髪の少年も叫んだ。
「触れるな! 剣じゃ斬れない! 霧のままじゃ何もできない!」
霧のままじゃ斬れない――
その言葉が胸を鋭く刺す。
――じゃあ……どうすれば……!
魔霊が低く唸り、青白い光をマイラへ向けて伸ばした。
まるで“見つけた”と言わんばかりに、揺らぎながら一直線に。
「っ……!」
体が固まる。
逃げたいのに、後ろはもう壁で、どこへも行けない。
喉が乾く。
呼吸が浅い。
鼓動が早すぎて苦しい。
その瞬間――
腰のウィンド・リボルヴが、ひときわ強く光った。
淡い琥珀の宝珠が脈を打ち、風の流れが柄から腕へ伝わる。
――え……なに……
――どうして今……!
剣が、呼吸してるみたいに温かい。
父の面影がふいに胸の底で揺れる。
――お父さん……
――これ、私に何をさせようとしてるの……?
魔霊の青白い光が、マイラの足元まで迫った。
ルフトがその前へ飛び込み、体当たりのように風を放つ。
小さな体は床に叩きつけられ、それでもすぐに起き上がろうとする。
「ルフト!!」
叫んだ声が震えて、涙の味が喉に滲む。
少年が叫ぶ。
「離れろって言ってるだろ! お前がそこにいると、あいつは――!」
「……わたしが……?」
震える声が自分でも信じられなかった。
魔霊の脈動が強まり、教会全体の光がうっすら青く染まり始める。
まるで“何かを探して呼んでいる”みたいに。
――狙われてるのは、箱じゃない
――わたし……
頭がぐらりと揺れる。
理解が追いつかない。
怖い。
でも、このままじゃルフトもレンも――
「……私、逃げたら……だめなんだよね……?」
小さく呟いたその声が、風の中に溶けて消えた。
レンが振り返る。
目に浮かんだのは怒りではなく、迷いと焦りを押し隠した、あの優しい色だった。
「マイラ……頼む、無茶はするな」
胸がぎゅっと熱くなる。
――分かってる
――でも、みんなを危険にさらすのはもっと嫌だよ……
魔霊が再び咆哮する。
青白い光が、狙いを定めたようにマイラへ向かって収束し――
空気が、凍りついた。
マイラはウィンド・リボルヴの柄を強く握りしめる。
風が、指の隙間を抜けて走った。
*
そこへ――
今までとは違う“別の気配”が、破れた壁の奥からゆっくりと滲み始めた。
冷たくもない。
熱くもない。
だけど、胸の奥をひっかくようなざわめき。
魔霊がその気配に反応し、形を大きく震わせた。
青白い光が、不規則に明滅する。
少年が強張った声で呟く。
「……来る……! 本物の封印が……!」
マイラの心臓が跳ねた。
――本物って……なに……
――さっきのは、まだ“入口”だったの……?
壁の奥が再び光り始める。
粉塵が踊る。
風がうなる。
魔霊が後退し、まるで“怯えている”ように形を歪める。
レンがマイラへ叫んだ。
「下がれ! 何が出るか分からない!」
でも、マイラの足は動かなかった。
いや、動けなかった。
胸の奥にさっき響いた“声”が蘇る。
――来て
――あなた……風の……
息が詰まる。
背筋が冷える。
それは呼び声。
まだ姿のない何かが、確かにマイラを――
求めている。
そして、封印の奥で“何か”がゆっくりと動いた。
粉塵の向こうで、光が形を帯びていく。
ルフトがマイラの胸元へしがみつく。
「……っ、やだ……来ないで……!」
マイラの肩が震える。
心臓が痛いほど打つ。
風のうねりが一瞬止まり、静寂が落ちた。
そして。
封印の向こうから“影と光をまとった何か”が姿を現そうとした――。




