23.人違い
咄嗟にピオネル・エンネスの手を振り払い、風に飛ばされて浮いた帽子を捕まえて胸に抱える。
ホッとしたけれど、同時に髪を晒していることに気づきハッとする。
「ボクよりも、そんな帽子が大事なんだ?」
ピオネルの手が伸びてきて、わたしが胸に抱えていた綺麗な形の帽子をわしづかみにすると、両手でぐしゃっと無残な姿に潰した。
「あ……っ」
このワンピースと揃いの帽子、ひと目で気に入った帽子だったのに……っ!
ピオネルはひしゃげた帽子を片手に持つと、もう片手でわたしの腕を掴んで、ダンスの輪の外に連れ出す。
「こんな安物よりも、もっといい帽子を買ってあげるよ。君の綺麗な髪に映えるような、素敵な帽子をね」
ダンスの輪を出て、木陰に握り潰した帽子をポイッと捨てると、わたしの腕を引いてどこかへ連れて行こうとする。
コイツの最後の手段が牧場を襲わせる暴漢なら、既にアレクシスに制圧されているので質にはならないんだし、お昼はとっくに過ぎて婚姻の届が受理される期限の半日はもうクリアできている、役所の手続きも済んだだろう、なら我慢する必要は無いよね。
わたしは身体強化を使って抵抗し、足を止めた彼に疑問を投げかけた。
「わたしの髪の色で、気づきませんか?」
「何をだ? 変わらず、綺麗な赤髪じゃないか」
気づかないのか、そうか。
「わたしは、レベッカ・ダインではなく、妹のソレイユ・ダインです」
お前の目当ての人物じゃ無いぞと、ビシッと言ってやった!
欺しやがってと逆上する可能性に身構えたが、ピオネルは一瞬怪訝な顔をしたもののたいして気にしていない様子でにやりと笑う。
「妹? へえ、妹なのか。まあ、どちらでもいい。ああそうだ、どうせだから両方面倒みてやろう。レベッカはどこにいる」
どうせだから両方?
ビックリするくらい最低な発言で、言葉が出なくなる。
「最低……っ!」
「ははっ、お前はその最低な男の、愛人になるんだよ」
彼はそう言うと、ポケットから取り出した硬い何かをわたしの手に押し当てた。
途端に、言いようのない悪寒に襲われる。
えっ? えっ? どうして? なに、これ。
震える程寒い、今まで踊っていて、暑いくらいだったのに、寒くて、寒くて、体を動かせない、唇が戦慄く。
「おやいけない! 熱があるようだ、すぐに休める場所に移動しよう」
わざとらしい大きな声を出したピオネルに、無理矢理横抱きにされるのに、体の芯から寒気がして思うようにしゃべれないし体も動かせない。
熱が出ているせいなのか頭が回らないし、集中できないから魔法も使えない。
誰か、助けてっ、連れ去られる、怖いっ。
朦朧とする意識でも、コイツに運ばれるのはマズイのは分かり、何とか逃げようと身を捩ろうとするが、思うように体が動かない。
「あっ、あたしが、看病しますっ!」
広場を足早に立ち去ろうとしたピオネルを引き留める声があった。
女の人……?
「その子と知り合いですからっ」
「邪魔だ、退け、ナタリア」
ピオネルがドスの利いた声で、低く威嚇する。
「ど、退きませんっ、その子をこちらにくださいっ」
震えながらも頑とした声に、潤む目を向ければ、熊の一撃亭の女将ことナタリア・クロスがピオネルの前に立ち塞がっていた。
顔の下半分はまだスカーフで覆われている。
折角綺麗に治したんだから、もうスカーフを取ればいいのに、なんてぼんやりとどうでもいいことを思ってしまう。
後で知ることになるけれど、彼女はわたしの能力を隠すために顔を隠していたのだけれど、この時のわたしにはそんなことを理解する余裕はなかった。
他にも、祭の中心地である広場にありながら、他の人が助けに来ないのもおかしいのに、気づかなかった。
それもこれも、生まれてはじめての発熱で、すっかり前後不覚になっていたからだ。
「またお仕置きされたいのか? 折角だ、焼き鏝をお前で試してやろう。あれは、妻になる女に一番最初に使おうと思っていたが、綺麗に押す練習をお前でするのも悪くないな」
低い声でコソコソと言ったピオネルの言葉が聞こえたのは、わたしとナタリアだけだった。
「そ、その子のバックには、領主様のご子息がいるのよ。こんなことをして、タダで済むと思ってるのっ?」
ナタリアって、ライゼスのことを知ってたのか。
フワフワとする頭に疑問が浮かぶ。
「そんなことは知っているよ。お前は本当に馬鹿だなあ、学生のガキに何ができるって? そこを退け、これからレベッカも回収して、躾を始めなきゃならないんだよっ」
長女を、回収……レベッカ姉さんをっ。
その言葉に、男の手から逃れるように体を捩る。
悪寒に震える体、痛む関節、頭蓋骨に響く頭痛、体に力が入らないけれど逃げなきゃ。
「暴れるんじゃねえっ」
横抱きしているわたしの背が、ピオネルの膝で蹴り上げられる。
「ぐ……っ!」
「なに――っ」
止めようとしたナタリアが後ろから来た男に腕を掴まれ、強引に連れて行かれる。きっとピオネルの手下だろう。
その後ろを、わたしを横抱きにしたピオネルが続く。
「ナタリア、君はどうしてボクの邪魔をするの? 裏切るなんて、身の程を知らないね」
「ひっ」
脅しの言葉に覿面に身を震わせたナタリアを、ピオネルは酷薄な顔で嗤う。
「だっ、誰かっ、誰か、助け――」
恐ろしさに震える声をあげようとしたナタリアの口を、彼女を捕らえている男が手で塞ぐ。
助けを求めるように周囲に視線をやれば、わたしとナタリアの周囲には十人もの大柄な男たちが取り囲み、周囲の目隠しになって移動していた。
こんな派手なことをすれば、すぐに誰か来そうなものなのにと思っていたら、時々「てめえら余計なことしやがったら、分かってんだろうな」「動くんじゃねえぞ」などという野太い恫喝するような声が聞こえる。
これが、貴族の力なの? 怖い。
恐怖に体を縮こまらせた右手に、ずっと着けている左手首のブレスレットが触れた。
緊急事態の時にこれを引きちぎれば、ライゼスに危険が伝わると聞いてはいたけれど……何も考えずにその鎖を引きちぎっていた。
いつもは、多少どこかに引っかかってもビクともしない細い鎖が、糸をちぎるよりも簡単に切れて手首から滑り落ちる。
キインと耳に心地よい澄んだ音が鳴った、気がした。
ライゼスはいま領都だ……ということを思い出して悲しくなる。だって、絶対に助けになんて来られない。
男たちの大移動は公園を抜け、馬車が通る通りに出てしまう。
このままじゃマズイ、ああ、でも、もし実家に長女を捕らえに行くなら、アレクシスに助けてもらえるかな、助けて欲しいな。
衣装箱がたくさん載せられた狭い馬車にナタリアと一緒に押し込まれ、外からガシャンと音を立てて鍵が掛けられた。
衣装箱がたくさん載っているせいで座る場所もなく窓も埋まっている、辛うじてナタリアと二人、立つ場所があるだけだ。
せめて座りたいのにできず、衣装箱に寄りかかる。
「本命を自分の馬車に乗せるから、あたしたちは荷物用の馬車――って、アンタあの嫌らしい魔道具を使われたのね。あたしも一回それを喰らったけど、その熱は魔道具由来のものだから、簡単には引かないのよ。ああもう、寒い? 寒いわよね、ちょっと待ってね」
ナタリアは衣装箱を漁り、勝手に服を取り出してそれでわたしを包む。
「あのクソ野郎の服だけど、我慢しなよ」
そう言いながら、服が落ちないようにわたしを抱きしめる。
「ああもう、泣いてんじゃないわよ。アイツが喜ぶじゃないのっ」
憎まれ口を叩きながらも服の端で涙を拭いて、抱きしめたままあやすように背を撫でてきた。
涙は生理的なもので、悲しいから泣いてるんじゃないのに。
ダイン家にケンカを売ってきた人なのに、温められたことで少しだけ体が楽になったのが悔しい。
「大丈夫よ、大丈夫。熱は一日もすれば、ちゃんと引くからさ」
「な……んで」
散々意地悪なことをしてきた癖に、こんな風に優しくするんだろう。
「あたしはさ、散々な人生だったんだよ。この美貌だろ? 男を手玉に取って、上手く金をむしり取って要領よく生きてきたんだよ。今思えば、もっと真っ当に生きときゃよかったと思うよ、でもできなかった。あの男に出逢っちまった。あの最低な暴力男に」
ナタリアはひとつ溜め息を吐いて、軽く首を横に振る。
「いいえ違うかも……出逢うべくして、出逢ったってやつかもしれないわね。美しさを鼻に掛け、狡くて、傲慢なあたしは、アイツにとってのいいカモだったんだから」
美しさを強調するけど、絶対にウチの長女の方が美人だよね?
ぼんやりした頭の中で突っ込むわたしなどお構いなしに、ナタリアの話は続く。
「だけど、あたしは改心したの。あんたに古傷を治してもらったから、あたしの未来はまた輝くのよ。本当にありがとうね」
猫撫で声で囁かれ、抱きしめられたまま頭を撫でられた。
その声と態度が気持ちが悪くて、彼女を押しのけたい衝動に駆られる。
「ねえ、あんた。あたしを治したみたいに、自分の熱を下げることはできないの?」
彼女の問いに、朦朧としたまま緩く首を横に振った。
生まれてはじめての発熱で、ヒーリングライトを使うだけの集中さえできない。
能力は魔法と同じで、ある程度の集中力が必要みたいなんだよね。
「へえ! そうなの? 自分は治せないのねえ」
彼女の声が上ずる。
「ああ、神様はあたしを愛してるんだわ。大逆転の幸運をくださるんですものね」
大逆転の……幸運?
「な、に……?」
「あんた、あたしと一緒に、商売するわよ! あたしが客を探してきて、あんたが治すの。古傷で困ってる人って多いのよ。あんたは治すだけに集中すればいいわ、あとはあたしがぜーんぶ上手いことやってあげるから。こんなちんけな町じゃなくて、王都! 王都に行くわよ!」
目をギラギラさせて独りよがりな計画に酔うナタリアに、恐怖を感じる。
「そうと決まれば、どうにかして逃げないと。そういえば、どうしてこの馬車、動かないのかしら」
確かに、動いてない、かも?
頭がぐわんぐわんしていて、よくわからないけど。
それにこれだけうるさくしているのに、誰も来ないのはおかしいかも?
わたしを荷物の箱にもたれさせたナタリアは、注意深く窓に近づき外を窺った――その時だった。
ガチャン、とドアの鍵が外された。
ナタリアは最初は古傷を治してもらった恩により善意でソレイユを助けたものの、途中から欲望が目を覚ました模様。
ピオネルにチラつかせたライゼスの後ろ盾についてはハッタリだったので、ソレイユが今もライゼスと親しいことを知らない。
ライゼスのことは以前町に居たときに、町民から苦言のひとつとして聞いていた。