9.前世
まるで競歩のように食堂から四階の部屋まで急いだせいで軽く息が上がるなか、わたしは今、小柄な黒髪美女に壁ドンされている。
わたしの方が背が高いので、彼女に見上げられてる状態なのがちょっと惜しい。
「ソレイユさん、あなたも転生者なの!?」
部屋に入るのももどかしく、息の上がったオブディティがわたしに詰め寄ってきた。
「てん、せい、しゃ?」
「そうよ、日本語がわかるんでしょう!? ベルトコンベアも回転寿司も、特急レーンもこの世界にはない言葉だもの」
日本語、転生者、ベルトコンベア、回転寿司、特急レーン……そうだ、全部、日本語だ。
みかんとイケメンも日本語だ、そうだ、日本語だ!
わたしの頭の中に時々浮かんでいた単語は日本語だったんだ。
「日本語っ! わかるわ! オブディティさんも!?」
「やっぱり、そうなのね」
わたしが勢い込んで聞くと、彼女は複雑そうな表情で離れていった。
あれ? なんだか温度感が違う?
ソファに座った彼女に、わたしも座るように促される。
「あなた、この世界がどの媒体の世界か、知っている?」
座った途端に聞かれたが、一体何のことだかわからずに首を傾げる。
「媒体?」
「ええ。ゲームなのか、小説なのか、漫画なのか……わたくしの知る物にはなかったの、だから、あなたなら知っているかと思って」
ゲーム、小説、漫画――そう言えば、さっき彼女はわたしに転生者なのかと聞いていた。
転生者というのは乙女ゲームなどの物語の中に生まれ変わった人のことだと、すぐに思い出せた。
今までなら思い出してもすぐに忘れてしまったのに、自分が元日本人だと思い出した途端にだ。
だから、彼女が知りたがっている、この世界の元になっている物語について記憶を捲ってみる。
「媒体……」
額に指先を当てて、目を閉じて日本のことを考える。
すうっと意識が沈み込む感覚がして、周囲の音が消えた。
「――さんっ、ソレイユさんっ」
肩を揺すられ、深く沈んでいた意識が浮上する。
「あ……あれ?」
なにかとてもいい夢を見ていた気がする。いや、夢じゃなくて現実にあったことだろうか。
「ちょっと! 話の途中で眠らないでくださいまし」
目の前には焦った表情のオブディティがいて、自分がいまどこに居るのかを思い出した。
「寝てないよ、今、ちょっと考えてただけ」
「そうなの? それで、思い出しましたか?」
彼女の問いに首を横に振ってから、わたしの考えを口にする。
「わたしたちって、単純に輪廻に乗って生まれてきただけじゃないかな? ほら、あっちの世界でもたまにいたでしょ、前世を覚えたまま生まれてきた人」
「……そうね。やっぱり、その説が濃厚かしら」
彼女もその可能性は考えていたんだ。
がっかりした雰囲気が伝わってくる。
「オブディティさんは、いつ自分の前世を思い出したの?」
「わたくし? わたくしは、幼い頃に高熱を出したことがあって、その時によ」
自分が日本で女子高生をしていたこと、乙女ゲームに嵌まっていたことを思い出したそうだ。それで、この世界が物語の中の世界である可能性に思い至り、色々と調べたということだが。
「わたくしの知っている、どの物語にもかすりもしないのよっ」
両手で顔を覆い、項垂れる。
「これだけ、ビジュアルのいい人間が出てきているのよ? わたくしだって、黒髪の美少女だし、ソレイユさんだってどう見ても主役を張れる美人だわ。そのうえ、領主様のご子息があのイケメンよ!? 期待するなというほうが無理っ」
ビジュアル……そういえば、わたしの家族も全員、容姿は整っているんだよね。そうか、わたしも主役を張れる美人に見えるのか。
オブディティのような美少女に断言されると、照れちゃうな。
「体格もよくて、顔もいい、その上クールで、自分の気を許した人にだけ甘い顔を向けるとか……っ。どこのヒーローですかっ」
「ん?」
「わたくしもそちら側に入れて欲しいわっ、おいくら万円払えばいいのっ」
「んん?」
「あのご尊顔を、これから毎日拝めるなんて、転生冥利に尽きるというものだわ。転生万歳っ」
顔を覆ったままオブディティは打ち震えている。
なんだか幸せそうだから、浸らせておいてあげよう。
それよりも、先程思い出したばかりの前世で、わたしは今世と同じ畜産業に従事していたの。もしかして、前世の因果で、今世は畜産農家の子供として生まれてきたのかもしれない。
そう思ったら、なんだかすべてがストンと納得できた。
「やっぱりわたしの生きる道は、ここなんだ。前世知識をフル活用して、実家を大規模ファームに成長させるのがわたしの使命なんだわ!」
「ちょっとお待ちなさい、大規模ファームってなんのこと?」
「うちの実家が畜産業をしておりますので、前世の知識を使って実家を押しも押されぬ大規模な農場にするのが、使命なんだと理解したのです」
胸を張って答えるわたしに、顔から両手を離した彼女が怪訝な表情をする。
「畜産が盛んな領地、ということ?」
「いいえ、畜産農家です」
わたしの言葉に、彼女は目を瞬かせた。
「商家の出でもない、ただの農家の娘が、このコノツエン学園に入学したということ?」
「はい! 頑張りました」
四年間、兄姉から勉強を教えてもらい、両親からはマナーなどの知識を、そして領主様には推薦をもらった。
「お茶会で聞いたことがあるわ。庶民の娘が、貴族の息子を籠絡してこの学園に入学すると……。あなただったのね」
彼女の切れ長の目が細くなり、柳眉が寄せられる。
あ、まずい……と思った時はもう遅かった。
彼女は立ち上がり、ソファに座ったままのわたしを見下ろす。
「これ以降は、わたくしに声を掛けないでくださいまし」
振り向かず自室に入っていく彼女の背を見送った。