番外 危機1
それは、ライゼスが領都に帰った翌年のことだった。
「北の牧場で、牛の下痢が広がっているみたいだ」
夕飯のあとで、父が深刻そうな顔でそう報告した。
北の牧場とは町の北側にある牧場のことで、ウチからは結構距離はあるんだけれど、往来があるから伝染性の病気だった場合、ウチの牛たちにもうつる可能性はある。
ヨーネ、サルモネラ……そんな単語が頭を過って、胸がザワザワして吐き気がする。凄く嫌な感じ。
なにか、思い出せそうなのに出てこない。
「みんな、牛の様子がおかしかったら、すぐにお父さんに教えてね」
母が真剣な表情で、わたしたちにそう伝える。
わたしが小さい頃、一度我が家でも牛の下痢が流行ったことがあり、その時は数か月の間に八頭のちびちゃんと五頭の大人牛が死んだ。
当時はいまよりも飼育頭数が少なくて、病死の牛は市場に出せないし、死なないまでも乳量が目に見えて減少し、出産のペースが落ち、経営の危機だったらしい。
「とにかく、衛生管理を徹底しよう。場内への出入りは必ず魔法で綺麗にしてから。ディーゴとティリスは、まだ魔法が使えないから、特に気をつけるんだよ」
「はーい」
「わかった」
真剣な顔で頷く双子がかわいい。
「念のため、時間を決めて牛舎と自分の衣服にも魔法を掛けるようにしよう」
「靴の裏もだねっ。土に着いたばい菌は、靴の裏にくっついて入ってくるからねっ!」
両手を握りしめて言い切ったわたしに視線が集まる。
「なるほど。確かにそれはあるな」
長兄のカシューが納得してくれた。
「それなら、敷地を出入りするときは、毎回靴底を綺麗にしなきゃいけないわね」
「あー、俺、忘れちゃいそうだな……」
長女のレベッカの言葉に、二男のバンディが頭を掻く。
「我が家の人間ならいいけど、外からくる人はどうするの? 見つけたら声を掛けることはできるけど、みんな自由に入ってくるでしょ?」
ご近所さんが収穫した野菜を持ってきて、物々交換していくのはよくあることだし、その際には当然家の敷地の中に入るわけだ。
「看板でも立てておく? 靴底に綺麗になる魔法を掛けてから入ってくださいって」
「わざわざ読むかなあ」
「出入り口に、靴底を綺麗にする魔法を掛けた板を敷くのはどうかな? 上を歩いたら、靴底が綺麗になるようにして」
「面白いわね。牛舎の消毒と同じ時間に魔法を掛け直すとか?」
「いいね。時間じゃなくても、気になるところがあれば、都度綺麗にする方が、万が一病気が侵入してても対応できるかもな」
子どもたちでワイワイ意見を出し合っている。
こういうときは、父も母もあまり口を出さずに、見守ってくれるのだ。
「とーちゃ?」
父に抱っこされていた三歳の末っ子カティアの声に、父が泣いているのに気付いた。
「ああ、ごめんよ、話を続けて、続けて」
涙を拭いながら笑顔で勧められても、一度収まった熱は戻らないんだよね。
「お父さんは、あなたたちが頼もしくて、嬉し泣きしてるだけよ。前病気が流行ったときは、お父さんとお母さん二人だけで、本当に大変だったから」
しんみりと母がタネ明かししてくれ、父はその言葉にウンウンと頷いている。
「こんなに立派になってくれて、本当に嬉しいんだ。本当に僕らは、子どもに恵まれて幸せだね」
「ええ、そうね」
嬉しそうに頷き合う両親に、くすぐったさを感じてしまう。
「父さん、母さん……恥ずかしいから、そういうのは二人きりのときにしてちょうだい」
長女に指摘されて、「ごめんごめん」と言いながら頭を掻いている。
「さて、我が家の防疫対策は大体決まったが、問題は他の農家だな」
「確かに。ウチと同じように、対策をしてくれたら広がらないだろうけど……どうなんだろう」
「うーん……手分けして、教えてくる?」
「でもさ、他の家って、ウチのこと新参者って相手にしてくれない所もあるよね」
我が家は後継者がいなくて廃業する予定だった人から経営を引き継いだんだけど、未だに、新規参入扱いで厳しい目を向けてくる人もいるんだよね。
そのせいか、アザリア苔が牛にいいって言っても、馬鹿にして使わなかったりしている。
我が家の牛の死亡率を知らないんだろうか。苔を導入してから、ほぼゼロだよ。出生時や事故での死亡があるので全くのゼロにはならないけれど、驚異的な低さなんだよ。
冒険者ギルドで乾燥苔を作っているから、購入するのに多少のお金は掛かるけれど、それ以上の効果があるんだから一度使ってみればいいのにと思う。
仲のいい知り合いの農家は我が家の防疫対策を伝え、時には逆に効果的な防疫方法を教えてもらったりして、ジリジリとした気持ちで日々の仕事をしている。
しかし、北の牧場から発生した病は一向に収束せずに、他の牧場へと感染を広げていた。
「北は保守的だからなあ。俺もあっちの知り合いに、防疫のことや、乾燥苔のことを教えたんだけどよ、全然聞き入れちゃくれねえんだ。あっち側は、もう二十頭以上死んじまったらしい」
隣の牧場の旦那が遊びに来てぼやいていく、声は暗い。
その日の夕飯後の団らんで、やっぱり牛の話題になる。
「病気で死んだ牛って食べないんだよね? どうして?」
八歳になった三女のティリスが聞いてくる。
「病気の肉食べて、人間が病気になったら困るからだっつーの。だから……町や牧場から遠い所に運んで、深い穴掘って埋めてくるんだよ。他の獣も食わねえようにって」
説明した二男バンディの声も苦い。
「病気の牛のお肉を売っちゃダメっていう、国の決まりもあるのよ」
長女が補足している。
そういえば、長女から勉強を習った時に聞いて、国が管理していることに安心した覚えがある。
「今日、ちらっとあっちを見てきたけど、酷い有様だった」
配達の帰りに、長兄が見てきた光景を語る。
死んだ牛を山積みにした荷車をヨロヨロした牛に牽かせていく。
「牛は汚れたままだから、あんなことをすれば、どんどん病気が広がるに決まってるだろ」
兄が怒り混じりに語気を強める。因みに兄は、家に帰るまでにしっかりと自分と荷車に綺麗にする魔法を掛けてきたので、病気は持ってきてないと言い切っていた。
「魔法で防げるのに、どうして広がるんだろう?」
「牛の飼育に、なるべく魔法を使わないっていうのが、あちらのやり方だからよ。餌だって昔からある、同じ牧草を食べさせるだけだそうだもの」
長女が思いのほか詳しいし、結構怒っている。
「新しい技術を受け入れにくい人がいるかもしれないけど、全員ってわけじゃないよね?」
確認するわたしの声が不安で小さくなる。
「新しいことをしたら、嫌がらせをされるそうよ」
「うわあ……」
三男のディーゴが顔を顰める。
「割を食うのは、牛たちだ。そんなクソみたいな習慣、ぶっ壊せないかな」
二男がわたしに向かって言う。
「なぜ、わたしに言う?」
「ソレイユが一番やらかしそうだから」
言い切らないでよ、そしてやらかしそうってなんのことだね。
「こちらから無理に行動を起こしてはいけないよ。経営には理念があり、それを他人が無理矢理壊すことはダメだよ」
父が穏やかに諫めて、二男が不服そうな顔になる。
「他人がダメなら、身内ならいいのね?」
長女がなにか心当たりがあるように、父に確認した。
「身内?」
「ええ、北の牧場の子どもも学校に通っているのよ。少し話をしてみるわ」
「そうだな、俺も声を掛けてみよう」
長兄と長女が声を掛ければ、好き嫌いは別にして、注目されるだろうから話を無視することはできないよね。いい作戦だと思う!