14.精霊エラ・シルヴァーナ
柵越しとはいえ、あれが牛じゃないとしたら……。
ライゼスの手が恐怖に立ちすくんだわたしの手を掴み、逃げようとしたとき。
「ソレイユ、逃げ――」
『待たれよ、人の子ら』
牛がしゃべった。しゃべった!
しゃべりにくいのか、口をもごもごさせてから、もう一度口を開いた。
『我は魔物に非ず』
柵のところまできた牛は、穏やかで聡明そうな目をこちらに向ける。
『いい子らだ。こちらへおいで』
「ソレイユ、あんまり近づいちゃ駄目だ」
ライゼスの掠れる小声に頷き、彼に掴まれている手をぎゅっと握りしめる。
『我は精霊なり。大地と木々の精霊、エラ・シルヴァーナと申す』
「エラ?」
『そうだ。エラじゃ』
名前を呼べば、満足そうに牛が頷く。
「精霊はウソをつかないし、精霊の名を騙ることは誰にもできないから、間違いないよ」
ライゼスが小声で教えてくれた。
『我はこの個体に取り憑き、時々こうして遊んでおるのだ。いままでも、何度か遊ばせてもらっておるぞ』
遊ぶ?
「エラに取り憑かれて、ミカンは大丈夫なの?」
『問題ない。取り憑いている間は、牛の意識は眠っておるだけじゃ。眠っておる間に、ちゃんと草も食っておるから、腹を減らすこともない』
「なるほど」
「なるほどじゃないよね、ソレイユ。精霊様、本当に牛に影響はないのでしょうか」
『ほっほ、クドいのお』
少しだけエラの声に苛立ちを感じる。それはライゼスも同じだったようで、繋いでいる彼の手にじんわりと力が入った。
「エラが大丈夫っていうなら、信じるよ。ライゼスあのね、ミカンって、一度もケガも病気もしたことがないんだよ。一番の健康牛なんだから。もしかしたら、エラが取り憑いてる影響があるのかも」
『まあのう、一応体を借りておるから、僅かじゃが加護は与えておるぞ』
「……精霊様の加護」
ライゼスが呆然と呟く。
わたしでも、それがとっても珍しいことだっていうのは知ってる。精霊は滅多に加護を与えないって。
「すごいね! うちのミカンに加護くれてありがとう、エラ」
『僅かじゃがの。なに、お互い様じゃ。それよりお主、なかなか面白い生き物じゃの』
エラにまじまじと見られ、首を傾げる。
わたしが、面白い生き物? 別に、普通の人間だと思うけど。
『して、お主、なぜ我に気付いたのかの?』
面白い生き物ということについてはそれ以上言及せず、別のことを聞いてきた。
果たして言っていいものか。ライゼスの方を見ると、彼が小さく頷いたので、言ってもいいってことだろう。
「わたしは、自分よりも知能が低い生き物のステータスが見られるから。それで毎日牛たちの健康状態を見てたんだけど、ミカンだけ見られなかったの」
『なるほどな。希有な能力を持っておるのじゃな、面白い生き物は面白い』
頭痛が痛い的な言い回しかな?
『そういうことであるならば、我が鉄槌を下す必要もないな』
鉄槌。
不穏だ、もしかして口封じ的なことをされるところだったのかな。
「ミカンが大丈夫なら、これからもアレが出なくても気にしないようにしますね。じゃあ!」
問題がないなら解決だよね。これ以上エラとしゃべって、ボロが出てもよくないしと思い離れようとしたとき、服の端をエラに咥えられて足止めされた。
『まあ待て、お主ちょっと我の願いを聞いてくれんか』
突然の申し出に足を止めて振り返ると、エラは鷹揚に頷いた。
「願い?」
「僕たちでできることですか?」
ライゼスが警戒している。
『なに、そう難しいことではない。人間がアザリアの遺跡と呼ぶダンジョンがあるであろう?』
「あるの?」
「あるよ。ここ、ルヴェデュの町と領都エルムヘイブンの間にある遺跡で、攻略も終わっていて三階層しかない小さなダンジョン。ここから小一時間歩いたくらいの距離かな」
ライゼスが詳しく教えてくれる。
「ダンジョン! そんなの、近くにあったんだ!」
ダンジョンなんて本の中でしかしらないから、凄くワクワクする!
そんなのが、小一時間で行ける場所にあるなんて、いままでどうして知らなかったんだろう。
「小さすぎて話題にもならないから、知らなくても仕方ないよ。いまは定期的に、冒険者が手入れをしているだけかな」
「そうなんだ! それで、エラ、そのダンジョンがどうしたの?」
『そこから、苔を採ってきて欲しいんじゃ』
「コケ」
『苔』
鶏みたいになった。
「精霊様。我々はまだ、ダンジョンに入れる年齢に達しておりません」
ライゼスが、おずおずとエラに伝える。
『ほう? 年を理由に、我の願いを無下にするか』
エラが少しイラッとしたのがわかる。
「エラが大丈夫だと思って、わたしたちにお願いしたんでしょ? じゃあ大丈夫じゃない? ね、ライゼス」
取りなすつもりはないけど、精霊公認でダンジョンに行けるなら是非、行きたい。
『そうじゃ、そうじゃ。大丈夫じゃ、行って参れ』
「うぐ……っ。わ、かりました。僕たち二人の他に護衛を連れていてもいいですか」
苦肉の策とばかりにそう言うライゼスに、エラは鼻先を向けてスンスンと鼻を鳴らしてから、口の端を上げた。
『そうか、お主は、あれの子孫か。まあ、身分ある人間というものの面倒さは、我も知らぬわけでもない。苔を採ってくれば、それでよいのじゃから。他に同行する者がおっても、構わぬよ』
ライゼスって身分ある人なの? というツッコミは喉の手前で呑み込んだ。
ライゼスには護衛がついているから薄々そんな気はしていたけど、一応気付かないようにしているのだから。
「精霊様、ありがとうございます」
『それよりも、なるべく早く頼むぞ。願いを不足なく叶えたあかつきには、我直々にこの牧場に獣が来ぬように加護を与えよう』
「本当に!? うわーっ! それ、凄く嬉しい! 頑張って苔採ってくる!」
冬になると、食料を求めて、稀に肉食の獣が牧場の生き物を襲いに来る。
大熊は牛すら襲うし、森狐は鶏を好んで襲う。
それらの獣害の被害がなくなれば、我が家の経営も楽になると思う。あとは冬場に死ぬ子牛が減ればもっといいんだけどな。
家畜が死ぬということは資産が減るということだから、獣害対策と子牛の死亡率の改善は、重要な課題だ――と以前父が言っていた。
そのひとつをエラがなんとかしてくれるなら、それはとても凄いことだ。
「よーし! ダンジョンで苔むしり頑張るぞー!」
右手の拳を空に向かって突き上げた。