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おもよと千郎太

 おもよは、物心ついた時から一人ぼっちだった。


 父親は、どうしようもない飲んだくれ。


 母親は、夜鷹(よたか)


 おもよは、母の客だった父との間に生まれた。


 朝から晩まで博打(ばくち)に明け暮れている父の飲み代と、おもよを育てる為に母は夜鷹を続け、梅毒(ばいどく)で死んだ。


 父も博打で借金を抱え、やくざもんに刺されて死んだ。


 当時、近所の長屋に住んでいた娘がおもよを不憫(ふびん)に思い、生きて行く為に掏摸(すり)の方法を教えてくれた。


 おもよは、まだ四つだった。





 六年後。 


 (とお)を過ぎ、めん引き(女掏摸師)として自信を持ち始めていた、おもよ。


 百発百中、狙った獲物は逃さない。


 若いのにやり手だと、掏摸仲間からは名も知れるようになっていた、ある日の事。


 おもよは生まれて初めて、銭入れを握った自分の腕を、掏った相手に掴まれた。


「なっ、何するんだいっ!離しとくれよっ!」


「それはこちらの台詞だよ、お嬢ちゃん…何だって、こんな事…」


 優しい声、温かい目をした男だった。


「う、(うるさ)いよっ!あんたには、関わり合いの無い事だろうっ?」


「いやぁ…たった今、関わっちまったからなぁ…」


 男はおもよの腕を掴んだまま、困ったような顔で笑った。


「いいからっ…離せよっ…離せったらっ…離せ…ひ…っ!?」


 掴まれた腕を力強く引き抜こうとしながら、体に力が入ったせいだろうか。


 おもよのふくらはぎからは少量の血が滴り、汚れて乾いた踵を伝って落ちた。


 驚いた男の視線を感じ、おもよの顔はかっと熱くなる。


「お嬢ちゃん…裸足なのかい?履物は…」


「う…煩い、煩い、煩いっ!黙れ、黙れ、黙れ、黙れっ!」


 妙に冷静な男の態度が、かえっておもよの羞恥心を煽る。


「頼むから、暴れないでおくれ…幸い、うちはすぐ其処だ。大人しく、ついておいで。悪いようにはしないと、約束するよ。暴れた方が、かえって目立っちまう…な?」


 この時…もし、この男について行かなかったら…。


 おもよは今でも、この日の事を思い出す。


 男の名は、百太郎(ももたろう)


 確かに此処から歩いてすぐの所で、「履物や百太郎」を営んでいた。


 妻の十和(とわ)と、息子の千郎太(せんろうた)の三人家族。


 千郎太は、まだ四つ…おもよが一人ぼっちになった時と、同じ歳だ。


「心配する事ないよ。女なら、誰だってなるもんさ…今、たらいにぬるま湯を用意してあげるから、待っといで!」


 十和が奥へ姿を消すと同時に、千郎太がとことこと現れた。


「おねえちゃん、だあれ?どうしたの?いたいいたいしたの?」


 おもよは鋭い目で睨み付けたが、きょとんとした千郎太はおもよの体に手を伸ばした。


 偶然にも、おもよの腹の辺りに手が届く。


「おねえちゃん、いいこいいこ…おねえちゃん、いいこいいこ…」


 千郎太は、おもよの腹を小さな手で撫でている。


「なっ…何してるんだい、お前…っ」


 おもよが絞り出すような声で言うと、千郎太は顔を上げた。


「千のかあちゃんは、千がころんでいたいいたいするとね、いいこいいこってなでてくれるの」


 無垢な千郎太の笑みと、小さな手から流れ込んで来るその温もりに、おもよの目からは自然に涙が零れ落ちた。


 其処へ、準備を終えて戻って来た十和が驚いて叫ぶ。


「あ、あんた!あんた!一体、何処で何やってるんだい?しっかりと千の面倒を見ていてくれなきゃ、困るじゃないか!お嬢ちゃん、大丈夫かい?千はまだ小さいんだ、何か傷付ける様な事を言ったのなら許しておくれよ?」


「ち、違う…違うんだ、よ…この子は、何も、悪くない…っ」


 涙を堪えながら、おもよは必死に千郎太を庇った。


「ほうら!丁度(ちょうど)、布団が一枚物置から出て来た!床で寝るよりは、大分ましだ…ん?どうかしたのか?」


 裏の物置から布団を担いで持って来た百太郎は、状況が飲み込めず(ほう)けている。


 十和は何だかおかしくなり、声を出して笑った。


「あっはっはっはっは!全く我が家の男共は、親子揃ってとんでもない吞気者(のんきもの)だよ!ねえ、お嬢ちゃん?」


 似たような顔をして首を傾げている百太郎と千郎太を見て、おもよの涙もすっかり引っ込んでしまった。


「お嬢ちゃんのような別嬪(べっぴん)さんは、しかめっ(つら)よりそうやって微笑んだ顔の方がお似合いだよ?さあ、早くこっちへお上がり!」


 十和に連れられて奥に用意されたぬるま湯に浸かりながら、おもよは心の汚れも体の汚れも全てがすっきり洗い流された気持ちがした。





 おもよは、気が付くと履物やを手伝う日々を送っていた。


 百太郎と十和が、殺されるまでは…。


 辻斬りだった。


 四つの頃から六年で身に付けた、食べて行く為の掏摸の技と身を守る為の匕首(あいくち)の技。


 それを四年ぶりに思い出しながら、おもよは必死に下手人(げしゅにん)を捜し出し、見事仇を討った。


 両親が死んだ事を知った千郎太は、それ以来口がきけなくなった。


 十四のおもよと、八つの千郎太。


 また、昔の生活に戻るのか…。


 おもよは、いっそ千郎太を置いて消えてしまおうかとも思った。


 近所の商人仲間達が履物やの片付けを手伝ってくれている最中、寺子屋から帰って来た千郎太が、手に持っている物を差し出して来た。


「どうしたんだい、千郎太?」


 おもよは、訳も分からないままそれを受け取る。


 笹の葉が数える程しか生えていない、小さくて短い竹の枝だった。


 短冊が一枚、結わえてある。


 おもよは、ああ…と、溜息混じりに言った。


「そう言やあ、もう七夕の季節だったかねぇ…」


 笑顔も見せなくなった千郎太は、じっとおもよを見つめている。


「何だい…これを、読めって?」


 千郎太は、黙って頷いた。


 おもよは、短冊を読んでみた。




 『     お も よ ねえちゃん


       お れ が ま も る

                        』


 


「っ…ば…莫迦(ばか)、だねぇ…っ、餓鬼(がき)の、くせ、に…っ」


 おもよは千郎太と初めて会って、涙を流した日の事を思い出した。


「字も、汚いし…まともに、読めや、しないよ…っ」


 濡れたおもよの頬を撫でながら、声の出ない千郎太は「いいこいいこ」と口を動かす。


「千郎太…っ…有り難う…あたしも、あんたを守るよ…(もも)さんとお十和(とわ)さんが、あたしを守ってくれたように…っ」


 おもよは、出会って初めて百太郎がこさえてくれた草履を物置から出して来ると、鼠色の鼻緒の布を丁寧にほどき、御守り袋を作って千郎太の書いた短冊を小さく畳んでしまった。




『ちょいと、あんた!まだ年端(としは)も行かないおもよちゃんに、鼠色の鼻緒はないじゃないか!』


『仕方が無いだろう?藍色も茶色も、濃い目の色の布しか残ってねえんだ。この薄い鼠色が、おもよちゃんに良く似合ってるよ!なあ、千?』


『うん!おもよねえちゃんはべっぴんさんだから、なんでもにあうよ!』


『まあまあ、千までそんな事言って…おもよちゃん、気に入らなかったら気に入らないってはっきり言っていいんだからね?』




 ふふっ…と、おもよが思い出し笑いをすると、千郎太が不思議そうに顔を覗き込んで来た。


「何でもないよ、千郎太…ちょっと…昔を、ね…」


 おもよは御守りを胸元にしまうと、格子窓から七夕の夜空を見上げた。


「百さん、お十和さん…あたしと千郎太を、其処から見ていておくれよ」





 全てが片付いた後、近所に御礼を言って回ったおもよと千郎太は、当ての無い旅に出た。


 二人は決して離れる事無く共に助け合って生き続け、やがて信頼のおける仲間達と出会い、固い絆で結ばれる事となる。





「そう言えば、おもよちゃん…時々、大事そうに胸元抑えてるけど…金目の物でも隠してるのぉ?」


 親友とも呼べる料理茶屋「壽美(すみ)屋」の使用人、お三音(みね)がからかい半分で訊いて来る。


 一仕事終えて、皆で一杯酒を酌み交わしている所だ。


 おもよは、静かに微笑んで言った。


「そうだねぇ…まあ、金じゃあ買えない代物(しろもの)さ」


「えーっ、凄いじゃない!今度、見せてよね?」


「見たって、お三音ちゃんにとっては面白くも何ともない物だよ…ほら」


 そう言って、おもよは襟元から古惚(ふるぼ)けた鼠色の御守り袋を取り出す。


「なーんだ、御守りかぁ…でも、何だか年季が入ってるわねぇ…」


 じっと見つめるお三音を見て、おもよは笑った。


「もう見た目は襤褸屑(ぼろくず)同然だけど、あたしにとっちゃあ自分の命と同じくらいに大事なもんさ…」


 無意識に千郎太を見るおもよに気付き、お三音は静かに頷いた。


「そっか…だったら、大事にしなきゃね!おもよちゃんの命は、あたしにとっても大事なんだから!勿論…此処にいる、皆にとっても…だよ?」


 お三音の温かい手が、おもよの冷えた手を包み込む。


「な…何なんだい、急に…っ…」


 目頭が熱くなるのを、誤魔化す様に笑って見せる。


 心配そうな顔で、千郎太がこちらを見つめているのに気付いた。


 おもよは勢い良く立ち上がると、徳利(とっくり)を持って言った。


「さあさあ、このおもよさんに酌をして欲しい男はいるかい?」


「おう、おもよぉ!こっちだ、こっちぃ!注いでくれぇ!」


 この中でも特にお調子者の、世見(せみ)道場師範の一人である八重樫(やえがし)朔也(さくや)が、ふらつきながら立ち上がった。


一寸(ちょっと)、朔さん!既に、出来上がってるじゃない!おもよちゃん、駄目よ!こんな人に、注いじゃあ!」


 お三音がそう言うと、朔也はたどたどしい口調で怒鳴った。


「何だとぉ?おい、お三音ぇ!この八重樫様にぃ、何の恨みがぁ、あって…だなぁ…そのぉ…ん…」


 急に尻すぼみになったかと思ったら、朔也はがくんと座り込み、机に突っ伏して何と眠ってしまったではないか。


「はぁ…やれやれ…全く、世話が焼けるわねぇ…」


 呆れた顔で、肩を竦めるお三音。


「くっ…あ…あっ、はっはっはっはっは!」


 おもよは、思わず声を出して笑った。


 それを見て、皆も一斉に笑い出す。


 千郎太はそんなおもよを見て、口の端で少しだけ微笑んだ。


 流れ星が二つ、きらりと光った。


                                     ー 完 ー

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