輪郭
「もし? 何かお困りでしょうか」
突然、後ろから声をかけられた。
思わず顔が熱くなる。
「なにもありません」振り返り様、この国の言葉で返す。「大きな声をだしました。ごめんなさい」
「本当に大丈夫ですか」
心配そうな声色で確認してくる男。周囲が暗いため、表情まではよくわからないが、正装だろうか。上品なたたずまいをしている。
「ありがとう」
「そうですか。あまりに……胸をうつ叫び声に聞こえましたので、余計なお節介をいたしました」
「これからは気をつけます。さようなら」
心配されてありがたい気持ちの反面、失態を見られた恥ずかしさから、私は足早にこの場を去ろうとする。しかし、男はなおも食い下がってきた。
「お待ちください」
「なんですか」
本当になんなのだろうか。
「あなたは異国の方ですね。これからどちらに」
「町を出ます」
誤魔化しても意味はない。
「近くに移民キャンプでもあるのですか」
そんなものはない。探っているのか。
「山へいきます」
どこの山とまでは言わない。
「この暗闇を? それは危ない」
男は大袈裟に驚いているようだった。
「では町の近くで寝ますよ」
「土砂降りになるかもしれません」
「そうですね」
日没時に見たあの雲の色、厚さからしてそれは間違いなかった。だからと言って、宿には泊まることはできない。どうしようもない。
「よろしければ私の店に来ませんか?」
「は?」
思わず素で返してしまった。
「酒場ですけれどね。バルカスという店です」
その店なら知っている。しかし――男は私の懸念を遮るように言葉を続けた。
「ご心配には及びません。私はオーナーの、ハミルと申します。従業員も皆、気のよい者たちです。私の招いた客を無碍にしたりはしませんよ」男はさらに畳み掛けるように言う「ここであったのも何かの縁です。善意を押しつけるつもりはありませんが、このまま別れてしまっては心が痛みます。私を助けると思って、さあ!」
この町の治安はいい。この男の言葉に甘えてよいのだろうか。
私が返事を躊躇っていると、男がそれを口にした。
「この世界の酒は美味いですよ」
しとしとと雨が降る。
地表に落ちるそれは恵みの水か、災いの前触れか。
今の私にはわからなかった。
◇
雨の中、出会って間もない男の後をついて行く。
彼は本当にその意味で言ったのだろうか。断定できないからこそ私の望む答えがそこにある可能性も否定できない。
「つきましたよ」
顔を上げると彼はつばのある帽子を脱いだ。そして服についた雫を軽く払うと、にこやかな表情で扉を開け酒場へと入っていく。彼はドアを押さえたまま私に入るように促した。
「ようこそバルカスへ」
酒場はあちこちに灯りを点していて明るかった。足を踏み入れた瞬間、カウンターの店員と目が合う。客に媚びるような笑顔はなく、むしろ冷たい眼差しだった。
――当然の反応だ。
テーブル席に着く。彼が私のために椅子を引いてくれたのでそこに座った。
「なにか暖かいものを頼みましょうか。冷えてしまいました」
ここに来るまでにさほどの時間はかからなかったが、それでも雨に打たれたことに変わりはない。私の身体は多少濡れていた。床や椅子、テーブルに雫が落ちる。普通なら良識がないと怒られるかもしれない。対して、彼の衣服は濡れていない。背広を崩すことなく着こなし、他者への気配りも見受けられる。
「この世界の酒を」
いきなり本題に入る。私の知りたい答えが、もしくはその手掛かりが目の前にあるかもしれないのだ。この欲求を抑えることはできなかった。
彼――ハミルは笑顔で頷きウェイターに酒を持ってくるように頼んだ。注文の際、知らない単語がいくつか彼の口から出たが、おそらくは酒に合う料理でも頼んだのだろう。ウェイターが去ったのを確認した私は話を切り出した。
「私は――――です。あなたの厚意に感謝します」
「いえいえ、こちらこそ。私の我侭に付き合っていただき有り難く思っております」
「わたしは――から来ました。御存じですか?」
時折あがる酔っ払いどもの笑い声が私の言葉をかき消そうとする。
それでも聞こえていたのだろう、ハミルは無言で頷いた。
私は歓喜した。身体は硬直し、目は見開き口元は引きつる。全身の肌は震え、興奮するとともに心が晴れあがっていく。
いつしか私の喉は笑い声に震えていた。
「お待たせいたしました」
気がつくと、ウェイターがグラスを二つ運んできていた。中には黄金色に輝く液体が注がれている。テーブルに置かれたそれをよく見ると、小さな気泡がふつふつと浮かび上がっていた。私はハミルに目をやる。
「どうぞ召し上がってください」
「……いただきます」
グラスを手に持つと、麦酒とは違う果実の香りがした。ひとくち――口に含んだ途端に爽やかな林檎の香りがひろがった。
「美味しい」ほのかに甘くスッキリとした味わいだ。喉へ流すと微炭酸の軽い刺激が心地よい。「……ここは何処なのですか。私は元の世界に帰りたいんです」
「――ついてきてください」
ハミルは立ち上がり、店の奥の方へと歩き出した。
私は飲みかけの林檎酒を置いて後を追う。幾人かの客がこちらに視線を向けたが、すぐに自分たちの談笑に戻っていった。この世界の酒場はもっと賑やかなものだと思っていたがそうでもないらしい。客たちは大人しく席について酒と料理を楽しんでいた。
ハミルはカウンター横のドアを開け私も続いて中に入った。
どうやら店の備蓄室のようだ。いくつかの酒樽と積み上げられた木箱がある。一番上の木箱からは林檎が覗く――。
久しぶりの酒のせいか胸の動悸がおさまらない。
ハミルの歩みは止まらず、さらに奥へと進む。
部屋のつきあたりの扉を開いて彼は言う。「さあ、どうぞ」と。
私はドアの向こう側へと足を踏み出す。
そこには地下への階段があった。薄暗く、どこまで続いているのかはわからない。私は一歩、二歩とゆっくりと降りていく。背後から蝶番の軋む音がした。
私は振り返ることすらできず階段を降りていった。
◇
どれほど降りてきたのだろうか。湿気った空気が重い。
先の見えない不安と緊張が時間的な感覚を狂わせる。
背後からのハミルの足音が引き返す余地を奪っていく。
……仄かな光が見えた。降りるにつれ光は大きくなる。眩しさはない。
蝋燭の火がわずかに揺らぐ。空気の流れか。カビ臭さに、なにかしらの腐臭が混ざっていた。
いくつかの燭台が辺りを照らす。壁は暗闇に溶け込み部屋の奥行きは曖昧だ。そんな中、はっきりと見て取れるものがある。
――檻だ。
大きな檻が部屋のいたるところに置かれ、その鉄格子が淡い蝋燭の灯を反射していた。そして、いくつかの檻の中では何かが蠢いていた。
「ご覧になりますか」
ハミルが燭台の一つを手に取り中を照らす。
それは大きな蜥蜴だった。巨躯を覆う鱗が黒く艶やかに輝き、気高くも獰猛な金色の瞳が私を射抜く。
震えが止まらない。怯えたからではない。いや、怯えもした。だが、それだけではない。黒い蜥蜴は立ち上がったのだ。人のように、人よりも遥かに太い二本の脚で。
「驚きましたか」
後ずさる。言葉が出ない。
「それの名はエルアド。滅亡したとされるバシリスカスの民、その末裔です」
男が何かを言った。
彼の目はずっと私を捉えている。
「あちらもご覧ください」
新たに照らされた檻には女性がいた。華奢な体に薄着一枚で膝を抱えている。
「なんの変哲もない人間ですが、顔が良いでしょう」
沈黙が訪れる。
こちらから言葉を発することは出来なかったし、目の前で笑みを浮かべる男が次に発する言葉がなんなのか。それを考えるのも恐ろしかった。
「さて、仲間になりますか?」
拒めば殺される。状況がそう思わせた。
「あぁ……」
首を縦に振る。
男は背を向けて階段の方へ歩き出す。
私は男の視線が外れたことに安堵し、その場に膝を着く。後を追うため足に力を入れるがうまく立てない。
男は立ち止まり、私を待つ。
そして、低い声で私に告げた。
「あなたは――どちら側の人間でしょうね」
全身が汗ばむ。
どちらもなにもない。
逃げなければ――。
男は振り返り、低い声で告げた。
「こちらの世界の酒は美味しかったでしょう――林檎泥棒さん」
私は倒れ、甘酸っぱい腐臭が鼻を刺した――。




