天使の誘い
「なに、なに、なんか凄いじゃん、マー君」
執行猶予が付けば、裁判所にて解放となる。出口のところで、向日葵が声をかけてきた。
「準備してたの?」
「いや、即興」
「ますます、凄い!」
「そんなもんなのか? オレ、全くの無学だけど」
「ところで、お祝いにファミレスでも行かない? 奢るわよ」
「ああ、ありがとう。でも、留置場に行って、私物、取ってこなくちゃ」
「なら、警察署前のスノーラークに十三時でどう?」
「分かった、折角だしな……」
「マー君とデートなんて初めてね」
「なに言ってるんだ、弁護士先生がさ、じゃ、十三時に」
正直、ホッとした。覚悟はしていたものの、刑務所生活、留置場でも大概なのに、何年も檻の中と考えるだけで心が塞いでいた。だが、ふと現実に立ち返るオレ。
わずかな貯金とアパートを整理して得た金は、示談金と家賃に消えた。若干の残金はあるものの、今夜から寝る場所もない、ひとまずネカフェを転々としながらバイトを探すか?
留置場で、私物、といってもリュックに入る程度の着替えくらいだが、を持ってファミレスに向かう。ドアを開けると、すでに来ていた向日葵が手を振った。
こいつ、こんな美人だったっけ? 中学の頃、地味に見えたのはメガネを掛けていたからか? いや違う、弁護士という社会的地位を得て、自分に自信がついたということなのだろう。
こういうのを、真っ当な人生を歩む、と言うのだな。体から凛としたオーラが溢れ出ているようだ。まったく! オレとは真逆じゃねぇか、なんだか彼女を見ていると、自分の卑小さが際立ってしまい、消え入りたくなる。
一瞬、回れ右をして帰ろうかと思ったオレだが、せっかくの好意を無にしてはならない。勇気を奮い立たせて向かいの席に座った。
ドリンクバーと彼女が進めるので久々の肉、和風ステーキを食べ、世間話をしながら午後の時間が過ぎて行った。
「ねぇ、マー君、今夜から泊まるところないんじゃないの?」
「あ、ああ、まぁ、ひとまずネカフェかな」
……Un ange passe.(今、天使が通った)
意を決したような顔つきで、向日葵は。
「ねぇ、家に来ない?」
「え!」
「あのさぁ〜 弁護士って結構お給料いいのよ。結婚の予定もないのに、3LDKのマンション買っちゃったから、部屋余ってるし」
照れ隠しなのだろう、取って付けたような言い訳を早口で語る、向日葵。
「なんだか、意外な話だな、弁護士の君、結婚なんて簡単にできるだろ? 今時、ネットの婚活サイトとか、いろいろあるんじゃないの?」
「ああいうところは、詐欺みたいな人も混じってるって聞くし」
「って、オレ、バリバリの前科者なんだが」
「もぅ、意地悪、これでも女なのよ私、それが勇を鼓して家に泊まれと言う。そこは汲んでちょうだいよ! あのね、マー君、私の中で君は、正義のヒーローなんだから」
「正義」だと! 向日葵の表情から皮肉を言ったのではないとは思うが、オレの名はマサヨシだ、正義と書いてマサヨシ、こんな犯罪者に……。鬼籍に入ってしまった両親も、飛んだ置き土産をしてくれたものだ。
あ?!
そう言えば思い出してきたが、中学の時、久々に学校へ行ったら、校舎の裏で何やら揉め事を見つけた。寄ってたかって、一人の女の子を虐めていたようなので、馬鹿どもに軽く鉄拳制裁をくれてやったことがある。
どうやら虐められていたのは、向日葵、その人だったらしい。彼女への虐めは特定グループにより継続的に行われていたが、この事件を機に、彼女は「オレの女だ」という噂が広まった。
虐めは陰湿なシカトに変わったが、上履きがなくなったり、ノートに落書きされる、などという、あからさまなものは、ピタリと止んだのだという。
「本当に『マー君の女』になって、ラブコメみたいに二人で登校したかったのだけどね」
なるほど! 理解した。彼女はとても、とても、義理堅い人物なのだろう。だから、二十年も前の恩義を今返したいと考えた、ただそれだけだ。
彼女がオレに惚れているかのような言動は方便、オレが遠慮しないよう彼女なりの気配りをした、ということなのだと思う。だってそうだろ? 二十年前に一目惚れした人物を、ずっと想い続けるなど、あり得ぬことだ。
「その正義の味方も、ずいぶんと、うらぶれたがな」
「私、もう十年近くも弁護士をやってるのよ。目を見れば分かるわ、ちゃんと更生できる人とそうでない人の違い。マー君はね、正義感が強過ぎるのよ。だから、濁り切った世の中に、うまく適合できない、ただそれだけ」
「ま、とてもありがたい申し出には違いない。頑張ってバイトして家賃、払うから」
二人してファミレスを出て、向日葵の家に向かう。彼女は都心の高級マンションを購入したらしい。警察署から地下鉄に十五分ほど乗ると、最寄りの駅に到着した。
改札を抜け地上へと続く階段を上る。薄暗い拘置所の照明に慣れてしまったオレの目、初夏の日差しが眩しく沁みた。
二人並んで歩道を行く、見上げればプラタナスの葉が風に梵ぎ揺れていた。隣を見る、オレより頭ひとつ分小さい翼なき天使が歩いている。
なんだ、これ? 望んでなどいなかった、いや、そんな言葉があることすら忘れていた。オレの辞書にはなかった文字「幸せ」の香りがした。