再会
狼は咆哮する。
それは、これ以上ない程の痛み故か。
それとも生れて初めて感じた屈辱故か。
どちらにせよ、それを許すことはできなかった。
その生存を、一秒も許さない。
その存在を、一片たりとも許さない。
奴だけは、絶対に許さない。
獣の如き衝動が、この身体を駆け巡る。
奴が目に映るだけで、どうにかなりそうな程怒り狂うのがわかる。
この激情を晴らさねば。
この本能に従わなければ。
ならば、やるべきことは既に決まっている。
その爪痕に、憤怒を示せ。
その歯牙に、憎悪を灯せ。
引き裂け。噛み殺せ。破壊しろ。
この憎悪に染まった視界から、奴を消し去るまで。
狼が咆哮する。
それまで見せることのなかった、生物としての本能を目の当たりにする。
これでは先程までの殺戮兵器が、まるで嘘のようだ。
だが、逆に考えればあの一撃が、この狼の本性を引き摺り出したと言えるだろうか。
「手応えは確かにあった! でも――――仕留めきれなかった! 」
あの一撃は、今出せる全力が込められていた。
それでもこの狼は倒れていない。
それは単純に火力が足りなかったのか、それとも何か別の要因が存在するのか。
いずれにせよ、ここから始まるのは消耗戦だ。
何かしらの攻略法を見つけなければ、勝機はないだろう。
「……まだ〝属性付与″は残ってる。それなら――――少しでもお前の体力を削る! 」
剣身はまだ緋色に輝き、紫電を放っている。
あと持って十数分ではあるものの、ダメージを与えるには十分であろう。
こうなれば、どちらが先に潰れるかの勝負である。
「…………最後までとことん付き合ってやるよ。――来い! 化け物! 」
そうして、再び狼との全力の攻防が始まった。
爪牙と剣を、幾度となく重ねあう。
繰り返すそれは、既に数十分を越えていた。
狼は最速で飛び込み、牙を向ける。
それに合わせ俺は、全力で剣を振り下ろす。
打つ合うたびに飛び散る火花は、まるで鍛冶場のようである。
だとしても、こんな命がけの鍛冶は御免だが。
今度は此方から仕掛ける。
狼牙を剣で上手く受け流し、そのまま身体を切り上げる。
だが、これは狼が身体をひねり回避する。
そして、お互い後退、仕切り直しとなる。
「…………これは少し拙いな。体力を削るどころか、どんどん傷が回復してる。それに速さも力も全く落ちない。このままだとこっちだけ消耗させられる! 」
ここに来て状況は、常に最悪を更新している。
彼方は、殺戮兵器としての冷静さを残したまま、憎悪と憤怒で力を増している。
対して此方は、魔力も体力も残り僅かしか残っていない。
正に、絶体絶命である。
「何か仕掛けるなら、次が最後のチャンスか。一か八か――――全くこんなのばっかりだ」
影狼との戦闘が始まってから幾度目かの賭け。
この世界はどうやら、順調には進ませてくれないらしい。
「それでもいいさ。俺はお前を越えて先に進む! 」
何を仕掛けるかは、既に決まっている。
最初の一撃は、鞘に仕込んだ魔法陣の中で〝属性付与″に属するものを起動した。これは剣での攻撃の際に、その効果を追加で付与するものである。
発動したのは、触れれば溶けるほどの熱を帯びる『炎』、 切り傷に強い電気ショックを与える『雷』、霊障にも触れるようになる『聖』、より深くより鋭い一撃となる『斬撃』、の四つである。
言うなればこれは、俺の持てる最大の物理攻撃である。
しかし、これは致命傷には至らなかった。
次に同じものを撃っても、この獣を打倒するには至らないだろう。
そして、同じ攻撃が二度も通じるとも思えない。
ならばこそ、次に撃つ一撃は、今持てる最大威力の魔術が望ましい。
詠唱が長いため、この戦闘では使ってこなかったが、それについても既に考えがある。
あとは、あの狼が思い通りに行動してくれるかどうかである。
「〝雷鳴は天より来たる″」
黒剣を狼へと向けて、詠唱を開始する。
狼は一瞬で距離をゼロにし、襲い掛かる。
それを剣で上手く捌いていく。
「〝それは、神の怒りにして、神の裁き″」
狼は、爪で、牙で、攻撃し続ける。
俺は、それをひとつずつ受け流す。
魔術詠唱と防御で、思考回路は焼き切れんばかり。
「〝だがしかし、すでに雷鳴は、神のものでは非ず″」
狼の攻撃が、また一段と重く、そして速くなる。
捌き切れず胴に爪撃を受け、後方に吹き飛ばされる。
――パリン
胴にある〝身体強化″の魔法陣が、攻撃に耐えられず破壊された。
効果は『攻撃の軽減』だ。
本来なら壊れることなどあり得ないほどの防御力なのだが、それが一撃で破壊されるほどの膂力である。
次まともに受ければ命は無い。
「〝神秘、奇跡の探求により、人の手へと堕ちる″」
またもや飛び込み。しかし、速さは桁違い。
思考を分割する。
思考を加速する。
〝防御壁″を無詠唱で簡易展開。
狼は透明な障壁に衝突する。
「〝我が源流には、探求者の始祖が一人、魔女シエル″」
狼が障壁を破壊。
大きく口を開け、噛み付きにかかる。
それを剣で受け止める。
「〝ならば今こそ、この手で雷鳴を轟かそう″」
狼牙を受け流し、剣で切り上げる。
それは、またもや身体をひねり回避される。
だが、俺が待っていたのはそれだった。
この狼が身体をひねり回避する時、前足のどちらかを軸に回転するのだ。
ならば、その軸足は絶対に離せない。
またもや思考を分割。
魔術を簡易展開。
雷の杭を右足に突き刺し、拘束。
これで、次の攻撃からは逃げられない。
言霊はここに成立する。
触媒は、己が黒剣。
矛先は、狼へ。
「――覚悟はできたか、狼。これで最後だ! ――――〝魔女の雷撃″」
黒剣から放たれるは、眩しいほどの雷の奔流。
真横に走る膨大な稲妻。
辺りの空間ごと熔解させるような圧倒的な熱量。
魔女の名を冠する至高の一撃が、目の前の存在を飲み込み蹂躙していく。
雷撃は確実にあの狼へ。
そして、大きな爆発。
辺りが一瞬にして煙に包まれる。
「頼むぞ――――これで倒れてくれ! 」
煙が晴れる。
そこに居るはずの大きな影は――――――未だ立っていた。
「アイツ、化け物かよ。…………いや化け物だったか」
思わず目を見開く。
だがそれでも、そこに狼が立っていることには変わりない。
どれだけ信じがたい光景でも、現実には変わりなかった。
さて、どうしたものか。
此方の魔力リソースは、もはや雀の涙。
体力にしても今立っているのが限界である。
それに比べて相手方は、その一挙手一投足がこの上ない怒りに満ちており、ここに来てギアが全開のようである。
その姿は、まるで魔王のテンプレのようで。
「…………所謂、魔王の第二形態って奴か? 全く、勘弁して欲しい」
魔王が此方へやってくる。
これまでどうにか維持してきた〝身体強化″も、遂にその効果を切らす。
もう一度発動するほどの魔力も残っていない。
つまり、次の攻撃にはどう足掻いても耐えられない。
やはり、独りでは何処にも行けなかったのだ。
この世界ならば、今まで見たことのないところまで、進んで行けると信じた男の結末。
これこそが俺の限界。
この世界はファンタジーなどでは到底なく、何処まで行こうと地続きの現実で。
教室で一人雪を見ていた頃から、何も変わりはしない。
「…………結局こうなるのか」
全身の力が抜ける。
もう反撃する気力も残っていない。
そんな様子の俺を、嘲笑うかのように魔王はその距離をゆっくりと詰める。
そして、遂にその口を大きく開いた。
「もっと――この世界を見たかったなあ…………」
刹那、一陣の風が吹く。
その風が眼前に迫る獣を、吹き飛ばす。
――――あなたはそんなに、諦めの良い人でしたか?
声が聞こえる。懐かしいあの声が。
眼に映る。忘れることのないあの姿が。
全身で理解する。それがあの少女であることを。
――――さあ立って。行きましょう! 今度は一緒に。
欠けていたものが埋まるような感覚。
そうだった。
俺は、この少女のために。
「…………また会えてよかった――アイナ」
こうして、少年少女は再び巡り合う。