世界へ落ちる
誰かの声が聞こえる。
それは、囁くように。それでいて、詠うように。
生まれたばかりの赤子に、子守歌を聞かせるような。
そんな、心地よい声がして目が覚める。
「おや、目が覚めたのかい? そうだとしたら、困ったなあ。君が起きるには、まだ早いというものだ。もう少しだけ目を閉じているといい。そうすれば、次に起きたときは、無事私の世界だからね」
意識が明確になったからだろうか。今まで、意味の分からなかった声が、今度ははっきりと聞き取れた。
どうやら、この声は、俺にもう一度眠ってほしいみたいだ。
だが、生憎と目覚めたばかりで眠気はなかった。
「その様子は、どうやら眠れないといった感じな? なら私の話でも聞いていくかい? 聞いている間に眠くなるかもだ」
そう言って、その声は、また詠うように話し始めたのだった。
「とはいっても、大した話ではないのだけどね。これから、君が歩む世界の話だ」
唯一無二の存在感を放つ、鳥のような声は、遠く彼方まで響き渡る。
それは、摩訶不思議で何処か懐かしい御伽噺
それは、心躍る英雄達の冒険の逸話
それは、教科書の記述のような正しい歴史
そうして、数多の昔話が語られた。
だが、そのほとんどは知らない話。剣と魔法で彩られた世界の話だ。
全ては、泡沫に消える夢のように。
「――といったように…………って、眠ってしまったかな。ここからが面白いところだったのに。まあ、話のオチなんてどうでもいいのだけどね。今聞いた話は、ここだけの記憶だ。起きたときには、キレイさっぱり忘れているはずさ」
先程まで居た訪問者は眠りにつき、またもや独りへと戻ったこの場所の主は、それでも語り続ける。
「君達が此方の世界へと来たのは、奇跡のような偶然か、あるいは誰かに定められた運命か。どちらにせよ、私は君達を歓迎するとも。思う存分楽しんでほしい」
別れの言葉はこのように。
若者たちの新たな門出を祝福する。
「少し喋りすぎてしまったかな。どうやら、久しぶりの来客で浮かれていたみたいだ。気を付けないとだね」
つぶやいた言葉は、誰に届くこともなく彼方へと消えていった。
何処からか光が差している。
それは、無慈悲に。それでいて、寄り添うように。
生まれたばかりの赤子が入れられる揺り篭のような。
そんな、心地よい光によって目が覚める。
「――眩しいな」
目を開けると、青白い月が欠けることなく此方を覗いていた。
天井の崩落した空間に、差し込む月明かり。それは、俺が今まで見てきたものと、何かが違った。
「あんな蒼い月、見たことない。ここは何処だ? 」
そんな疑問を言葉にするも、答えるものは存在しない。
少しの寂しさを感じながら、辺りを見渡した。
目に映るのは、風化した石の壁ばかり。
しかし、それらが何を形作っているのかは、今でもはっきりと残っている。
「――大聖堂。それもこれは……『瓦礫の大聖堂』か! 」
それは、どれもこれも記憶に新しい光景だった。
――瓦礫の大聖堂。『フェアリーテイル・ファンタジー』において、ダンジョン『古代の神殿』の最奥にあるフィールドで、ラスボス『黒の魔女』が鎮座する物語の最終到達地点である。
そして、同時に、俺とアイナの最終到達地点でもある。
俺達にとっては、因縁深い場所であるため、忘れるわけがないのだ。
状況を整理する。
まず、事の始まりは、俺の前に『黒の魔女』の姿をした女が現れたことだ。
そして、魔女の話は俺を『フェアリーテイル・ファンタジー』の世界に送ることで。
それに承諾した俺は、転生の対価として、魔女に殺されたはずだ。
だが、俺は今、『瓦礫の大聖堂』で目を覚ました。
「つまり、俺は、転生できたのか! 」
確認することで、事実に感情が追いつく。
喜び、安堵、感動が、一気に胸の中へと流れ込んだ。
そして、それらは胸中で抑えられなくなり、小さく外に漏れだした。
「やった! ついに来たんだ、この世界に! 」
そう大きく声を上げ、拳を握ったのだった。
そうして、しばらくの間余韻に浸り、地面に寝転がっていた。
そろそろ動いても良い頃であろう、そう思い立ち、ゆっくりと立ち上がる。
「よいしょ! ……っと、そういえばあれを回収しないとな」
先程ぐるりと見渡した時に、その存在を確認したものがあった。
あれこそが、俺達がこの場所までやってきた唯一の証拠だ。
だから、あれを手に取るまでは、俺の旅は始まらない。
見つめる先は、黒と白の両剣。
その前まで辿り着くと、黒の方を握る。
久々に握るその柄は、懐かしさを覚えるほどに手に馴染む。
「俺達の旅はここまでだったけど、俺の旅はここから再スタートだ。行ってくるよ、アイナ」
そう白剣に投げ掛け、俺は手に握った黒剣を勢い良く引き抜いたのだった。