星が降る夜に
バイト終わり、紫音はいつも通り帰路につく。
繁華街を抜け、住宅地へと入ると、街灯の数が減ったのか、一気に辺りが暗くなった。
それは、さながら深海の底を歩いているようである。そうすると、深海のヴェールに包まれたこの街は、まさに水没都市であると言えるだろうか。
紫音にとって、この暗闇は、不安を煽るものではなく、心躍らせるものであった。
日常という名の周回行動において、この時間だけは、普段と違う街の様相を見ることが出来る。
それ故、未探索のダンジョンに臨む冒険者のように、気分を高揚させる。
「……少し寒いな」
先程まで降っていた雪は、すでに止んでいて、今では欠片も落ちてこない。
それでも、凍てつくような寒さは変わらず、紫音に纏わりついていた。
厚手の外套を羽織り、首にはマフラーを巻いているのだが、どうやら外気の冷たさは、この程度で遮断できるものではないらしい。
このような日は、すぐさま家の中に立て籠もるに限るのだが、紫音には、まだ外での用事が残っていた。
とはいっても、このような天気では、ほとんど望み薄ではあるのだが。
そのために、紫音は普段の家路から少し外れて、ある場所を目指していたのであった。
「そろそろ着く頃なんだけど…………あれかな? 」
紫音が辿り着いたのは、公園であった。
外周を木々に囲まれ、中には、広大な芝生と小さな丘。ごくありふれた公園である。
春には、見事な桜並木を見せるこの場所も、今はうっすらと雪を被っていて、別の趣がある。
しかし、紫音がこの場所を訪れたのは、この風景のためではない。
「見えるだろうか。流星群」
日本において大きな流星群は、三つ存在する。今回は、その中の一つである『ふたご座流星群』が目的であった。
この『ふたご座流星群』は、年間でも最大と言える数を誇り、条件さえ良ければ、百もの流星が観測できるのだ。
十二月も半ばとなった今日この頃、時刻は九時を過ぎたあたりである。時の条件はまさに完璧であるが。
「天気がなあ……。さっきまで雪が降ってたのに、もう雲もない快晴だ、なんてことあるわけないよなあ」
やはり、懸念すべきはその点である。
今朝見た天気予報では、この後少しずつ晴れていくらしいのだが、今のところその様子は微塵もない。
だが、紫音は公園の中へと進んで行った。中央にある丘を目指して。
――見られなくても、それはそれでいい。怖いのは、見に行かなくて後悔することだけ。
それが、これまで紡いできた紫音の人生であり、行動理念であった。
そして、紫音は丘の上へと辿り着く。
この小さな丘の上は、一寸先すら怪しい程に、暗闇に包まれている。
今となっては、暖かな街灯の明かりすら懐かしい。
そのような場所に独り、紫音は立っている。
胸には、少しだけの希望を持って。
紫音は、覚悟を決める。
深く息を吸い込み、思いっきり吐き出した。
そして、目を閉じたまま、空を見上げた。
――三、二、一。
胸の内でのカウントダウン、紫音はそのままゆっくりと目を開く。
「……――――。やっぱり、ダメか……」
開けた眼に映る光景は、一面の黒だった。
月明かりすら差し込まない夜の帳。これでは、星を望むのも絶望的である。
「どうやら俺には、とことん縁が無いらしい」
あの世界でも紫音は、流星群を見ることが出来なかった。
それが心残りとして、紫音の内に存在していた。
だからこそ、今日この場所に訪れた。この場所で空を見上げた。
流星群を見る機会は、今回だけではない。これからいくらでもあるだろう。
そう自分に言い聞かせる。だが、やはり諦めきれず、紫音は空を眺め続けた。
「いつか、あの雲の上の景色を。出来れば、俺が、あの世界のことを忘れる前に」
そう呟いて、紫音はその場を去ろうとした。その時。
「なんだ。もう帰るのか? 」
突如現れたのは、一人の女性だった。
黒い外套に身を包んだ長身であり、少し青みがかった黒髪を後ろに流している。厳しい印象を受けるのは、その切れ長な蒼い瞳のせいであろうか。
「初めまして、シオン。私は、濡羽綾香という。『フェアリーテイル・ファンタジー』の開発者だ。もしかしたら、君にはこちらの方が馴染み深いかな? 」
そう宣言し、指を鳴らした。
すると、女性の姿が変わる。瞬きよりも短い衣装チェンジに、紫音は驚きを隠せない。
しかし、紫音にとっては、それよりも驚愕すべきことがあった。
「まさか――黒の魔女、なのか? 」
現れたのは、黒いローブを纏い、魔女然とした帽子を被っている。
その姿は、まさにあの世界に登場する黒の魔女そのものであった。
そして、魔女は不敵に笑っている。
「なんでここにいるのか、どこから現れたのか、なんてつまらない質問は勘弁だぞ。だが、何をしに来たのか、には答えてやろう」
魔女は、そう切り出した。
「わざわざ私が出向いた理由は、ただ一つだけ。お前に尋ねたいことがあったからだ」
魔女は、そう言葉を紡ぐ。
「シオン。お前は、あの世界に行きたいと思うか? 私ならば、お前をあの世界へ送ることが出来る」
魔女は、そう結ぶ。
それはまさに、童話のような魔女の誘惑。
しかし、紫音にとっては、福音であった。
どれほど、それを望んだことだろうか。どれだけ、それに焦がれたことだろうか。
その悪魔にも似た誘惑を、拒むことなど出来るはずがない。
紫音にとって、それは致命的だった。
考えるまでもなく、言葉が喉を過ぎる。
だが、それを眼前の魔女が遮る。
「おっと。決断を下すにはまだ早いというものだ。行動力があるのは良いことだが、浅慮なのはいけない。経験の少ない若者故の悪い癖だ」
魔女は咎めるように言葉を続ける。
「いいかい? お前があの世界へ行くならば、もうこの世界には戻れないと思った方がいい。彼方から此方に戻ってくることは、ほぼ不可能だ。お前にだって、家族や友達がいるのだろう? 彼らとは、永遠のお別れとなる。しっかりと考えて決断してほしい」
魔女からの警告。
全てを捨て去って理想を求めるか、それとも、何も失わず現実を過ごすか。
ここが、分水嶺。
まさに、運命の分かれ道だ。
それでも。
それでも、紫音の選択は変わらない。
たとえ、零から始まることになろうとも。
「俺は、あの世界へ行きたい」
「それは、よく考えた結論かい? 後悔することになるかもしれないぞ」
「それでも。行かなかったことで、後悔したくはないから」
そう。それが、紫音の信条だ。
やらないで後悔するより、やって後悔する方がいいから。
ただそれだけ。そんな、小さな自分だけは、絶対に裏切れない。
「そうか。なら何も言うことはない。お前を彼方に送るのに、最善を尽くそう」
魔女は、そう高らかに言い放つ。
そして、胸に手を当てた。
すると、魔女の手に周囲の光が流れ込む。
それはまるで、奈落の孔だ。周囲の色がどんどんと落ちていく。
すべてが落ちて、辺りが暗闇で満たされた時、魔女の手は開かれた。
「〝箱舟よ、起動せよ″」
手のひらに乗せられていたのは、小さな立方体。
黒以外が抜け落ちた空間に、それだけが輝いていて、ひどく目が痛い。
「〝厄災の箱は、希望に満ちた″」
小さな箱は、その蓋を開ける。
「〝そして、次なる希望を運ぶ舟となる″」
開いた箱から現れたのは、無限にも連なる魔法陣だった。
それは、箱から飛び出すと、中空を漂い留まることなく広がっていく。
「準備は整った。後は契約を結ぶだけだ。そうすれば、お前はこの箱舟に乗せられ、あの世界へと辿り着く」
「ああ、心の準備は出来ている。俺はどうすればいい」
紫音は、そう尋ねる。
すると魔女は、妖艶な笑みを浮かべ、質問に答える。
「古から、魔女との契約の対価と言えば、一つだろう」
魔女はそう言って、手のひらに乗っていた箱を、宙へと放つ。放たれた箱は、中空を浮遊していた。
そして、紫音は、箱から目を離すと、そこに魔女の形は無かった。
「お前も聞いたことくらいは、あるんじゃないか。魔女は悪魔に捧げものをすることにより、強力な魔法を得るらしい。だから、魔女は人間の心臓を求めるんだそうだ」
魔女が、紫音によりかかるように現れる。
まるで、もう逃げられないぞ、とでも言うかのように。
「今回は、その様式美になぞり、契約の対価としよう」
「――っ! …………くはっ」
唐突に走る激痛に、苦悶する。
紫音の身体からは、魔女の腕が生えていた。その手には赤々と鼓動する心臓が握られている。
それらを視界に捉えることで、やっと状況を認識した。
「それでは、さようなら。お前の旅路に幸あらんことを祈っている」
紫音は、真っ白な雪の上に倒れ込む。
胸から流れ出た赤が、ゆっくりと大地を染め上げていく。
それは、自分の中の生が流れ出ていくようで。
緩やかな死の実感が、紫音を襲う。
薄れゆく思考の中、紫音は目を開く。
そこには、これ以上ない程の様相が映る。
「なんだ……、見えるじゃないか…………」
最後に紫音が見たのは、満天の星が降り注ぐ、凍えた夜空であった。