番外編:刺繍工房
中心街に近い割に家賃が安いという理由で八番街を選んだその刺繍工房は、まだ比較的新しかった。
元々、とあるテーラーメイドの刺繍担当をしていた女性が独立して開いた刺繍工房。
今はまだオーナー自ら営業活動を行って、他のテーラーメイドから安い金額で請け負っていた。
それでも少しずつ着実に忙しくなってきたある日、王都でも指折りのテーラーメイドのオーナーが見学に来た。
その数日後、正式に依頼が入る。
「皆、聞いて!」
気をつけなければ互いに持っている針が刺さってしまいそうな狭い工房内にオーナーの声が室内に響いた。
「ロテル・サン・ロランから刺繍の依頼が来ました!しかも、いきなり婚礼衣装の刺繍よ!」
オーナーは依頼されたデザイン画と指示書を皆が見えるようにテーブルの上に置く。
工房で働く皆が手を止め、デザイン画と指示書を興味深そうに覗き込んだ。
「え!しかも、侯爵家の婚礼衣装の刺繍じゃないですか!」
「そうなのよ!」
「凄い!誰が担当するんですか?」
「もちろん、私が担当するわ!この工房の運命を左右する大切な依頼だもの。でも、さすがに一人では厳しいから誰かにアシスタントに入ってもらいたいと思っているの」
皆の後ろからそっとデザイン画や指示書を覗いていた女性が、即座に手を挙げた。
「私にやらせていただけませんか」
すると、「あっ、ずるい!私もやりたい!」と次々に手が挙がる。
「それじゃあ、カトリナさん」
「えー!?カトリナさんは一番歴が浅いのに、どうしてですか?」
「一番初めに手を挙げてくれたし、歴が浅いから抱えている仕事も少ないじゃない。この仕事は他の仕事と平行してはできないわ。それに、この工房では一番歴が浅いけれど、腕の良さは皆も理解しているでしょう?」
オーナーの言葉に、他の針子たちは納得するしかなかった。
揉めることなくアシスタントがカトリナに決まり、オーナーはほっとしていた。
これは、これからの工房の命運を握ると言っても過言ではない一世一代の大芝居だった。
ロテル・サン・ロランはこの業界にいれば誰でも知っているテーラーメイド。
下請けにも高い技術を求めることでも有名なマダムが突然訪ねてきて、驚いた。
誰の紹介かわからないが、マダムに知られていたことがまず嬉しかった。
「テストをしていいかしら?」と言われ、緊張したが自分や従業員の過去の作品集を渡すとその場で合格をもらえた。
夢みたいだと思えたのは一瞬だった。
「提携を結ぶには一つだけ条件があります」
「な、なんでしょうか?」
「とあるお方がこちらで働かれている方に刺繍を頼みたいと仰っています。それができるならば、お願いしたいと思っています」
「はぁ……。どの人に?」
「一番最近入られた方」
「一番最近って、カトリナさんですか?彼女は確かに丁寧で腕は悪くないですが、プロとしての歴は浅いのであまり手が早くなく――」
「先ほど見せていただいた作品集で技術力は確認しています。問題は、その方に刺繍をお願いできるのかどうかです。正直に申し上げると、その方にお願いできなければわざわざこちらにお願いするメリットが私どもにはありません。本当なら何もかも全て私の手で作り上げたいほど、大切なお客様なのです」
マダムの真剣さが伝わり、オーナーは唾を飲み込む。
「それはもちろん、指名と言うことでしたら必ずその人が刺すようにさせますが」
「指名であることは公表しないでいただきたいのです」
「それはどうして……?」
掻い摘まんで事情を話したマダムは、最後に依頼相手が筆頭侯爵様であることを明かした。
さらに「これが上手くいけば、今後ずっと侯爵家からの依頼が入り続けることは間違いありません」と言った。
筆頭侯爵家となれば社交界で話題になるはず。
上手くいけばどんどん人づてに評判が広がり、工房は安泰……。
絶対に成功させる!と意気込んでいた。
「カトリナさん。お願いね!」
「はい。精一杯頑張ります」
――そうして密かにセレナの母はフェリクス依頼のドレスに携わることになったのだった。




