03
フェリクス様を見送ると、私は自分の衣装部屋に入った。
たくさんの水色や薄いゴールドのドレスの波をかき分けて最奥まで行くと、そこには木製の衣装箱が一つ置いてある。
蓋を開けると、中には最早懐かしさすら覚える品が収められている。
私がこの別邸へと初めて来たときに持って来た物たち。
自分で刺繍したりして手を加えたレディメイドの前ボタンのドレスや髪飾り代わりのリボンなど、ほんの数点。
それらがきれいに洗濯されて、丁寧に畳まれて仕舞われている。
縁談が来たとき、『身の回りのものは全て用意してあるから、身一つで良い』と伝えられ、足りないものがあれば取りに戻るか届けてもらえばいいやと、数着の着替えだけ鞄に入れてやってきた。
改めて見ると、フェリクス様が用意してくれた豪華な衣装箱に似つかわしくない中身だと思った。
私物の量が少なすぎて、立派な衣装箱の中身はスカスカ。
当時は可愛いと思って着ていたドレスは、レディメイドを手直ししたものだから、今となっては安っぽい印象を受ける。
(……貴族としての矜恃で、レディメイドのドレスを少しでもそう見えないように、工夫して着るようにとお母様から教えられたなぁ)
レディメイドのドレスを手直ししてくれるお母様の姿が好きだった。
だから、私もお母様のようになりたいと刺繍や裁縫を頑張って覚えた。
そうした工夫は娘に恥をかかせないための母の愛だと信じていたけど、今となってはただ見栄っ張りだっただけで、母の愛ではなかったのかもしれないと思ってしまう。
お母様のことが、わからない……。
衣装箱の空いたスペースには、布袋が三つ入っている。
その一つを持ち上げると、ジャラ……とコイン同士がぶつかった音がした。
これは私が王城で針子として働いて貯めたお金。
正確に言えば、結婚後から針子を辞めるまでの間にもらった給金のほぼ全て。
結婚前は、ほんのわずかに自分のお小遣い分を取ったら、後は全て家に入れて生活費や借金返済に当てていた。
結婚後、肩代わりしてくれたお金を少しずつでも返したいとフェリクス様に言ってみたことがあった。
だけど、フェリクス様は頑なに受け取ろうとはせず、『それはセレナが自分のために使いなよ』と言ってくれた。
結婚当初は、フェリクス様との結婚には裏があるのでは?と思っていたので、離婚した後のことを考えて、できるだけ手をつけずに仕舞っておいたお金。
私が今、誰に気兼ねするでもなく自由に使える唯一のお金。
ずっしりとした重い布袋は、私が頑張った証。
そのお金が入った布袋を三つとも抱えて衣装部屋を出た。
その足で実家の子爵家へと向かう。
「お嬢様、おかえりなさいまし」
「ただいま、テルザさん」
「奥様でしたら、居間に」
「ありがとう」
テルザさんにお礼を言ってから振り返る。
「トニアは今日も応接室で待っていてくれるかしら。重いでしょう。持ってくれてありがとう」
「いえ……。では、お待ちしております」
トニアは何か言いたげなのを我慢しているようだった。
奥様のお金をあげる必要はないとか、旦那様に頼めばいいのにと思っているのだろう。
私だって家族として、お父様やお兄様に楽な暮らしをさせてあげたいという気持ちはある。
だけど、その楽な暮らしをさせてあげるために、侯爵家のお金を使うのは違うと思う。
借金を背負ったときも、できる限り自分たちだけの力でなんとかしようと頑張っていた。
それが、貧乏なりに持ち続けた私たちの矜持だと思っていたから。
借金の肩代わりの申し出をすぐに受けたのは、『ハーディング侯爵との結婚』という交換条件があったから。
貧乏ながらも楽しく、それなりに暮らしていた。
自分たちで工夫して、誰に頼ることなく頑張ってきたという思いがある。
お金を稼ぐことの大変さも経験した。
だからこそ、フェリクス様に頼むわけにはいかない。
借金が完済されて、貧しくとも元通りの生活に戻れただけで幸せだろうと思うのは、薄情なのか……。
借金の原因である希少鉱物が採れる鉱山は、フェリクス様が私の名義にしたと言っていた。そうすることで、私が遠慮なくお金を使えるようになるだろうと考えてくれた。
名義が私になっているとしても、私のものという感覚にはなれないから、その利益に手をつけたことはない。
鉱山そのものをまた子爵家の名義に戻すことも考えたけど、また騙されそうだから厳しい。
いつかまた実家がお金のことでどうにもできなくなったときには頼るかもしれない。でも、今ではない。
居間に入ると、お母様は窓際で刺繍を刺していた。
好きだったお母様の姿。
窓辺で静かに刺繍している姿は、変わっていない。
私に気づいたお母様は、少し眉根を寄せた。
「セレナ。昨日も言ったけれど、結婚した娘が実家に頻繁に顔を出すのは感心しないわ。妻は家を守る――」
「これ。少ないけど、私が針子として働いたお金」
私は、お母様の小言を無視して居間のテーブルの上に抱えていた袋を三つ置いた。
「……え?」
「結婚前の給金は家に入れていたからもう無いけど、結婚後も少しの間はお城で針子を続けていたから。お金が必要ならこれをさしあげます。テーラーメイドの豪華なドレスでも一着は作れるはずです。私が自由に使えるお金はこれが全て。だから、もう侯爵家にお金の無心に来ないで」
「針子で貯めたって――」
「絶対にもう来ないで。お願いだから。話はそれだけ」
「セレナ――」
私はトニアを連れて足早に実家を後にした。
◇
実家を訪れて、お母様に釘を刺して数日。
この間、フェリクス様は朝早く出て夜遅く帰ってくるので、顔を合わせる時間がほとんどなかった。
相談する気はなかったし、フェリクス様から何か聞かれるのも嫌だったので、今だけはフェリクス様の忙しさがありがたかった。
今日も遅かったけど、私が寝る前に帰ってきたのは数日ぶりだった。
「えっ……。今、なんて……?」
「お義母上が俺を訪ねてきたよ。って」
「母が……お城まで行ったのですか?」
「うん。昨日と今日」
お兄様からも何度も言ってくれたし、お金も渡した。
少しは大人しくしてくれるかと思っていたのに。
まさか、フェリクス様に直接会いに行くなんて。
しかも、城にまで行くとは……。
帰宅したフェリクス様はいつも通り隣に座り、私を抱き寄せて、気にしていない様子で話しているけど、私の頭の中は一瞬思考が停止した。
「…………」
お母様が来た理由を聞きたいのに、決定的なことを言いたくなくて、フェリクス様に迷惑を掛けていると思いたくなくて、言葉が出てこない。
私の様子に、フェリクス様が口を開いた。
「アレシュ殿の結婚式費用について、都合を付けてほしいとおっしゃっていた」
「あ、あの、申し訳ございません……、母が……職場にまで行くなんて、ご迷惑を……」
「セレナ。顔を上げて。大丈夫だから。個室で話したから、他の人には聞かれていないし、訪問理由も知られていない。何も心配ないよ」
恥ずかしい。
あれほどやめてと言ったのに。
下手をするとフェリクス様に悪評がたつというのに。
面目が立たず、顔向けできないとはこういう気持ちなのか。
恥ずかしくて、情けなくて、申し訳なくて、悲しくて、勝手に涙が溢れてきた。
心の底では、お母様が変わってしまったと思いたくなかった。
だから、城にまで押しかけるほどなんて……と、ショックだった。
「セレナ、泣かないで。結婚式の費用くらい、何の障害にもならない」
「っ!だめです!」
お兄様の結婚式の費用と言いながら、きっと他のことにも使うだろう。
それに、一度許すと今後も続くだろうし、要求がエスカレートする可能性すらある。
「お母様は……きっと、自分のため――」
「セレナ」
僅かに語気を強めて私の言葉を遮ったフェリクス様は、それ以上言わなくていいと言うように、首を振った。
「今は金銭的な援助をしていないが、実は、元々は援助するつもりだったんだ」
「え?」
「結婚の条件として、借金の返済と婚姻が続く限りの金銭的援助。それを条件に申し入れたら、金銭的援助は子爵から断られた」
「…………」
「すぐに『借金の肩代わりだけで充分なので、その後の金銭的援助は不要です』と返事がきた。子爵からは、その代わりセレナのことを大切に扱ってほしいとお願いされた」
「お父様が……」
フェリクス様の手が、頬を伝う涙を拭う。
「そんなことを言われなくても、大切にするに決まっているのにね。セレナは俺の唯一で、宝物なんだから」
優しく微笑まれ、一層涙が溢れてきた。
いろいろなことがない交ぜになって、「ゔー……」とうなり声を上げながら泣く私は、不細工だっただろう。
それでもフェリクス様は愛おしそうに目を細め、落ち着くまで抱きしめて撫で続けてくれた。
「絶対に手放せない俺の宝物だよ」




