兄の心配
コミカライズ配信開始を記念して。
アレシュ(セレナ兄)視点の番外編で、セレナとフェリクスの結婚前後のお話です。
慌ただしい一日を終えた静かな屋敷内。
自室へ戻る途中、父様の部屋から灯りが漏れていた。
娘に突然舞い込んだ縁談と、セレナの決意を思うと眠れないのだろう。
コンコンコン……
「アレシュか、どうした?」
「一緒にいい?」
「もちろんだよ」
「父様が酒を飲んでいるのは珍しいね」
「はは……。さすがに堪えた。情けない親で申し訳なくてね。飲まずにはいられないよ」
「セレナがあんなにすぐに決めるとは、思わなかった」
今日、妹へ縁談の申し込みがあり、結婚が決まった。
家が貧乏なことがネックになっているが、セレナ自身に問題はなく、いずれどこかうちと似たような貴族に嫁いでいくのだろうとは思っていた。
その日がこんな突然やってくるとは……。
しかも、思いもよらぬ格上の侯爵からの申し出。
侯爵家の中でも筆頭のハーディング家。
金に困っていなかったとしても、断ることができないほど格上の相手。
身分差を考えたら夢のような申し出で、申し分のない相手である。
歳の差があることや後妻であることを除けば……。
我が家の借金を全て肩代わりしてくれる代わりに嫁ぐセレナ。
借金を肩代わりしてもらえたら助かるのは事実。
そうはいっても、セレナを借金と引き換えに……ということに、どうしても抵抗を感じてしまう。
年の差があっても、ただ「見初めたから結婚してほしい」という申し出のみならば、幾分気持ちもましだっただろう。
父様の参っているとわかる声に、思わず視線を下げた。
すると、テーブルの上にある書状が目に入る。
セレナが帰宅する前に、ハーディング侯爵家の執事が持ってきたものだ。
一度目を通しているが、改めて見返してみても驚いてしまうような内容だった。
「それにしても、凄い条件だ……。逆に心配になるほどに」
「そうだね。けれど、それほどセレナを気に入ってもらえたのだろう」
セレナへの縁談は、我が家の借金を全て肩代わりするという条件だけでなく、毎月の援助も約束すると書かれていた。
借金額だけでも我が家の感覚からすると莫大な金額だが、その上毎月の援助まで。
それだけでなく、嫁ぐための準備も一切不要だと言われた。
金銭と引き換えにした政略結婚は珍しくない話だが、普通は金を出すほうにも相応の利があるもの。ここまでこちらにばかり良い条件は珍しい。
父様の言う通り、それほどまでにセレナを求めてくれているのならいいが、侯爵がセレナをどう扱おうとも俺たちは口出しするなと言われているようにも感じる。
つい最近まで魔術師団長を務めていたくらい立派な方だから、良識的な方だと思いたいが……。
「侯爵はどこでセレナのことを知ったのだろう。セレナの反応からしても、知り合いではなかったのに。父様は何か聞いてる?」
「何も。針子として城勤めをするようになったから、きっと城のどこかで見初められたんだろう」
「……自分の妹のことをこんなふうに言うのはあれだけど、貴族令嬢としては特に目立つわけでもなく普通なのに?」
「私は、我が強くないところがセレナのいいところだと思っているよ。高位貴族の方たちは、私たちにはわからない苦労がきっとある。セレナに癒しを求めておられるのだろう」
「…………」
確かに妹に毒気はない。
高位貴族の婦人方は、遠くから見ている限り近寄り難い強さを感じる人もいるくらいだから、セレナに癒しを求めている可能性はあるだろう。
だが、ハーディング侯爵様なら、セレナじゃなくても癒してくれる女性はいるだろうに……。
父様も押し黙ってしまい、二人でそのまま瓶が空になるまで無言で酒を飲んだ――
翌日、俺は執務室で父様が侯爵へ宛てた書きかけの返事を見てしまった。
そこには、毎月の援助については辞退させていただくと書かれていた。
セレナは我が家の宝であるから、その分セレナを大切にしていただきたいとお願いする内容。
失礼にならないようにと何度も書き直されて散らばった紙に、父様の思いを知る。
恐らく、借金の肩代わりも不要だからとにかく娘を大切にしてほしいと言いたいくらいの気持ちだろう。けれど、そう書いてしまうとセレナの決断を無駄にしてしまう。
思えば、父様はセレナに毎月の援助の話はしていなかった。
初めから断るつもりだったのだ。
父様の気持ちや自分の情けなさに泣けた。
俺は人より向上心が低い。
俺は城で文官として働いているが、年下の上司が増えていってもなんとも思わないタチだ。
人の上に立ちたいと思ったことがない。
やりたいならやりたい人がやれば、そのほうが丸く収まるし、たくさんお金が欲しいとも思っていない。
借金返済のためにセレナまで城勤めを始めたときは、長男として何も思わなかったわけではない。
だけど、どう頑張っても完済するには何十年と掛かる額。持ち前の気質から、できる範囲で返していけばいいと思っていた。
借金が発覚した後も、セレナが城勤めを始めてからも、莫大すぎて出口の見えない負債に俺は背を向けていた。
今初めて自分の向上心のなさに腹が立っている。
少しくらい頑張ったところで、この結果は同じだったかもしれない。
それでも、俺がもっと頑張って出口の光が見えていれば、セレナがあんなにあっさりと縁談を受け入れることはなかったかもしれない。
妹を犠牲にすることはなかったかもしれない……。
◇
あれよあれよとセレナがハーディング侯爵の下へ嫁いでいってから僅か数日。
城の中や貴族社会で「フェリクス様が格下の娘と結婚した!」と噂が駆け巡った。
普段、噂に疎い俺もその噂は知っている。
なぜなら、「フェリクス様のお相手がアレシュの妹って本当か!?」と何人もの人がやって来たから。
初めは何を言われているのかわからなかった。
セレナが嫁いだのは、確かにハーディング侯爵家だが、相手は侯爵様だ。
俺はてっきり、父と息子が同じ時期に結婚したのだと思っていた。
それが、侯爵位が息子のフェリクス殿へ移っていたことを知ったのは、その日の夜。
城から屋敷に戻ったら、セレナから手紙が届いていたのだ。
侯爵位が父のベルトラン様からフェリクス殿へと移っていたらしく、『私の結婚相手はフェリクス様でした』と。
こんな重大なことを嫁いで数日経ってから連絡してくる少しのんびりしているところは、兄妹似ているなと改めて思った。
『フェリクス様の噂』は本当だったのか。
フェリクス殿の年は確かセレナより二つか三つ年上だったな。
随分と年の差のある結婚ではなかったということだ。
良かった……。
…………でも、なぜだ?
この縁談は、金に余裕のある高位貴族の老後の慰みだろうと思われたのに。
フェリクス殿は、今一番独身貴族令嬢から熱い視線を送られている人だと聞いたことがある。
それなのにどうしてセレナなんだ?
何がどうなってるんだ?
まさか、何かのカモフラージュとしての結婚……?
それなら、莫大な借金の肩代わりも毎月の援助の申し入れも、額は間違えていると思うが、一応納得できる。
冷遇されていないといいが……。
まさか、それで連絡が遅かったのか!?
益々心配の気持ちが膨らんでいった――――
しかし、それから少しして城の中で偶然フェリクス殿とセレナを見かけた。
見るからにフェリクス殿がセレナにベタ惚れの様子。
俺の妹に、全独身貴族令嬢から注目されていたほどの男性を虜にする何かがあるようには思えないが、良かった……。
フェリクス殿の表情と対照的にセレナの戸惑い気味な表情は気になったが、それはわかる気がする。人前なのにベタベタしすぎだ。
その後、フェリクス殿と話す機会があった。
城の食堂で偶然一緒になったのだ。
俺が食べているテーブルへフェリクス殿から来てくれた。
「ここ、いいだろうか」
「どうぞ――え!え!?」
相手を確認することもなく適当に返事をした俺は、向かいに座ってきた人を見て驚いた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ない。義兄上殿」
「義兄っ!?いや、いやいやいや!やめてください、そんな――」
「では、アレシュ殿と呼ばせていただく」
「はい。そうしていただけると……」
「…………」
「…………」
気まずい。
何を話せばいいのかわからないし、周囲からは好奇の目で見られている。
フェリクス殿はそれらを一切意に返さず、涼しい顔で食事している。見られることに慣れているのだろう。
今、セレナが戸惑いの表情を浮かべていた理由が少しだけわかった気がする。
窺うように見ていると、ふいにフェリクス殿と目が合った。
温度を感じさせないような視線に晒され、チラチラ見ていたことを咎められたような気がして思わず笑って誤魔化した。
「……似ていますね」
「えっ?な、何がでしょうか」
「笑ったときの顔が、少し。やっぱり兄妹だ」
「あ、そうでしょうか。そこまで似ていると言われたことはないですが」
「目尻が下がるところなど、どことなく似ています。セレナの笑顔はほっとします」
そう言って優しく微笑んだ。
俺に向けた視線とは打って変わって、感情が表れている。
その視線や表情からは、俺が危惧していたことは微塵も感じられない。
「あの……」
「なんでしょう?」
「どうしてセレナだったのでしょうか。フェリクス殿ならもっと――」
「俺にはセレナしかいません。あんな方法で申し込みをしたのは、これといった接点がない中、一番自然で断られないと思ったためです」
「それにしても……その、そこまでしなくても……」
「強引なのはわかっているが、絶対に断られたくなかった。それだけです」
「はぁ…………」
「どうしてセレナなのかについては、彼女以外には伝えたくない。それくらい大切に思っています。ご心配には及びませんよ。彼女は俺の全てですから」
ふっと愛おしそうに瞳を細めるフェリクス殿から、嘘は感じられなかった。
どうやら、フェリクス殿はセレナを見初めたから結婚したいと思ってくれたようだ。
「あっ。失礼する」
「えっ?え?え……あっ」
何かを見つけたようにフェリクス殿は急に席を立って行ってしまった。
俺が何か粗相でもしてしまったかと思ったが、早歩きで移動するフェリクス殿を視線で追うとセレナが同僚と一緒に食堂に入ってくるところだった。
――――その後については言うまでもなく。
実家に帰ってくるたびに洗練され、穏やかに笑うセレナを見ていれば、大切にされているのかどうか聞かなくてもわかる。俺の心配は杞憂だったのだ。