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フェリクスが招待されて行った王弟殿下の夜会には、当然ビルヒニアも参加していた。
夜会が始まるには少し早い時間に王弟殿下の屋敷に着いたら、夜会会場ではなく殿下の執務室に通されて、王弟殿下から今日のビルヒニアのエスコートを依頼された。
「娘がね。君の事を気にいったらしいのだよ。それでどうしても君が国に帰ってしまう前に、一度だけでも思い出に夜会でエスコートされたいと言ってね。君もビルヒニアのように美しい娘をエスコートできるのは誉れだろう?今日は頼むよ」
(誉れ?性格の悪さがにじみ出ている顔をしているのに、どれほど親バカだこの王弟は。俺にはセレナ以外の女なんてどうでも良いのに。こんなくだらない事で新婚旅行を邪魔されたなんて、どうしてくれようか)
心の中でどんな事を思っていようとも、自分の立場を思うと他国の王弟殿下から直々に依頼されたら断れないのが悔しい。
派手なドレスを着たビルヒニアをエスコートして夜会会場に入る。あとは適当に離れようと思ったが、ぴったりと寄り添われて離れる隙を与えられなかった。
自国の令嬢ならいかようにもしようがあるが、こんな女でも他国の王族。
離れるために色々試してみたが、食いついたら離れない爬虫類のように何をしても食い下がってくる。
直接的には言えない為遠回しに言うが、分かっているけど離れようとしない様だった。
流石に少し困ったと思っていると、夜会に招待されていたレドライクの王太子殿下が助け舟を出してくれて、ビルヒニアと漸く離れることができた。
「やあ、フェリクス。君とまた会えるとは嬉しいよ。しかし、ビルヒニアに目を付けられていたんだね」
「私には身に余る光栄なことです」
「本音が聞きたいのだけどな。今は私以外誰も聞いていない。さぁ、本音を聞かせてくれ。本当はどう思っているんだい?」
「……愛する妻が待っているので早く帰りたいです」
「ははは。いいね!フェリクスは愛妻家なんだね。ビルヒニアは見た目は良いが、自分の見た目の良さや地位というか父親の利用の仕方を理解しているから、なかなか厄介だろう?君の立場では強く出られないだろうし」
「えぇ。まぁそうですね」
「何か策があるのかな?」
「なくもないですが、今は少々困っておりましたので殿下にお声掛けいただき助かりました」
「そうだろうそうだろう。そうだ!明日、王城へ招待しよう。フェリクスとはもっと話したかったんだよ」
「……私は妻の元へ早く帰りたいと申し上げたのですが」
「まぁまぁ。私は先日の情報交換の時から君に一目置いていたんだよ。だからこうして困っていそうな君を助けてあげたんじゃないか。でも、助けてよかった。そのすぐに本音を見せてくれたところが益々気に入った。私の性格を素早く理解して、その方が得策と思ったんだろう?やっぱり頭が良いね。だから明日は私に付き合ってもらおう。さもなければ、明日もビルヒニアの餌食になるぞ?そうなったらもう帰れないかも知れないな」
「喜んでお伺いいたします」
「うんうん。今日はこちらに滞在するのだろう?朝一で迎えをよこすと叔父上には伝えておくよ」
こうして、半ば強引にレドライクの王太子と約束することとなってしまった。
確かにこのままだと明日もビルヒニアが何くれとなく理由をつけて拘束される可能性もある。
話が終わって王太子から離れるとすぐに、またビルヒニアがぴったりとくっついて来た。このまま与えられた部屋へ下がりたいと思っていたのに。
夜会は遅くまで盛り上がり、ビルヒニアも下がろうとしないため、フェリクスも下がりたくても下がれない。結局、ビルヒニアに夜遅くまで付き合う羽目になる。
本当なら失礼にならないところで早々に切り上げて、到着が夜中になっても良いから帰ろうと思っていたのに。
ビルヒニアから解放されたころにはすっかり夜も更けていた。
流石に緊急時でもないのにこの時間から3時間かかる距離を馬車に走らせるのは、御者にも悪い。
「わたくしの部屋は二階の右奥。金色のドアノブの部屋ですわ」
ビルヒニアは別れ際にそう囁いて、蠱惑的な笑みを向けて行ったけど、当然ながらフェリクスは無視した。
他の男が見れば蠱惑的なビルヒニアの笑みも、フェリクスには毒婦の笑みに見える。
毒婦の笑みを見た後は、余計に自分の妻に会いたくなった。
(セレナに会いたい。今日もセレナと一緒に寝たかったのに。セレナを腕に抱いて寝たい。何が悲しくて新婚旅行中に一人寝しないといけないのか……)
自分の部屋の扉にはしっかり鍵を掛け、念のためベッドの周りにも魔術で結界もはった。
部屋全体に結界を掛けたかったが、思いのほか広い部屋を与えられたので、ベッドの周りだけに留めた。
夜会中はほとんど何も食べずにお酒ばかり飲んでいたので水を飲みたかったし、お腹も空いていたが、部屋に用意されている飲み物も食べ物もリスクを考えると手が伸びない。
予想通り、夜中に小さなノックの音やドアノブを回そうとしてる音が聞こえた気がしたが、招かざる客を気遣う気持ちなど微塵もなかったフェリクスは無視する。
この様子だと、王太子と明日の、というか正確にはもう今日のだけど、約束をして正解だったと思う。
独身の時は、執務で泊まり込む時用に王城に与えられた自室で寝泊まりすると、たまに同じように夜中に侵入して来ようとする女がいたので、結界を張りながら眠ることが得意になってしまった。
その特技が新婚旅行中に発揮されるとは。
セレナに予定外に戻りが遅くなると連絡をしたかったが、気疲れも凄いしもう夜遅いので朝にしようと思い、その日はそのまま休んだ。
明日の夕方。遅くなっても夜には戻る事ができるはずだ。午前中に着くように戻りたかったが、予定より少し遅くなるだけだからきっと大丈夫だろう。
そして翌朝、本当に朝一。
まだ朝食も食べていない時間に王城から迎えが来て、ビルヒニアと会うことなく王弟殿下の屋敷を後にできた。
早朝の迎えのおかげでビルヒニアにも王弟殿下にも会う間もなかったので、煩わしい事を回避できたのは感謝する。
だけど、セレナへ「王太子殿下に誘われたから戻りが少し遅くなる」という連絡用の簡単な手紙を書く時間がなく、当然それを届けてもらえるように手配する時間もなかった。
何度も早く帰りたいと言っているのに「君の妻はもう一晩くらい待つこともできぬほど狭量なのか?自慢の妻なのだろう?」と王太子殿下に煽られれば、「私の妻は海のように深く広い心を持っている世界一の女性です」と答えてしまい「ならば大丈夫だな」と翻弄されてしまった。
頭では罠だと分かっているけど、セレナの事を狭量だと悪様に言われたら反論せざるを得ない。
どうしてもセレナの事が絡むとフェリクスはペースが乱れやすくなる。
そして、王都内を連れまわされ、色々な意見を聞かれ、気付けば気の合う王太子殿下との意見交換に白熱し、あっという間に晩餐の時間になっていた。
その後「おお!遅くなってしまったな!暗くなってから馬車を走らせると危ないからな。今宵は王城に泊まっていくと良い」と白々しく言われて、また泊まることになってしまったのだ。
まさか二晩も王都に泊まることになるとは流石に思っていなかったフェリクスは、何がなんでもセレナに連絡しておけばよかったと後悔した。
王太子殿下に付き合っても夜にはセレナの元に帰れるだろうと軽く考えていた。
心配しているだろうと思ったが、トニアやカルラも一緒だし、セレナの事だから案外自分のいない時間を楽しんでいるかもしれないと思う。
実際、フェリクスは仕事で家を空けることも少なくないが、セレナは1日2日では全く寂しがらない。フェリクスが結婚してから仕事で最長の5日間家を空けることになった時も、然程寂しがる様子を見せなかった。
自分ばかり寂しがって、セレナが寂しがらない事がフェリクスには寂しくて。
でも、頼もしかった。
だから、少しくらいならセレナは笑って許してくれると思ってしまった。
快く送り出してくれたし、フェリクスにとっては全く興味のない女だったこともあり、そこまでセレナがビルヒニアを気にしているとは思っていなかった。
だから、ビルヒニアの事でセレナが不安に思っている事がこの時のフェリクスには抜け落ちていた。
翌朝も早くから王太子が客室へやってきた。
「今日は用水路の活用と水害について意見交換しないか?」と言われたが、昨日ですっかり打ち解けていたため「今日こそは帰ります!彼女ではなく俺が妻に会いたいんです!」と宣言すると、「仕方ない。解放しよう。でも、もう用意してあるから朝食くらいは食べていけ」と言われた。
朝食会場では王太子殿下の分も用意されていて、朝食というには長い、朝食の時間となってしまった。
「もうすぐ昼になってしまいます。もう限界なので、そろそろ帰ります」と宣言すると、渋々だが漸く解放された。
「私は君を気に入った。今度は私がアルフェニアへ遊びに行こうではないか。アルフェニアであれば、もっと時間を気にせず語りあえるであろう?その時にはフェリクスが溺愛する奥方にも会わせてくれ。楽しみにしているぞ」
そして、急いで帰って来てみれば、セレナが倒れていて、トニアとカルラから「連絡もなく戻られない旦那様の事を酷く不安そうに心配しておられて、眠れていないご様子でした」と非難されたのだった。