08
朝の仕度を手伝いに来たトニアが私の顔を見て、「朝食はお部屋へ運びます」と言った。
あまり眠れていないし、どんどん悪い方向へ考えてしまうからきっと酷い顔をしているのだろう。
たった一晩でも不安に苛まれていると、驚くほど精神力を削られる。
せっかく部屋まで持ってきてくれた朝食だけど、朝になっても不安感が拭えず、スープとフルーツを少し口にしただけで終わってしまった。
トニアやカルラが心配そうな表情をしているのは分かっていたけど、今は全く食べる気になれない。
夜会当日は遅いから泊まるとしても、午前中の内に王都を出れば遅くても夕方までにはフェリクス様が帰ってくるはず。
フェリクス様の事だし、もしかしたら「早くセレナの顔が見たかった」と言って午前中の内に帰ってくる可能性も考えられる。
もしもフェリクス様がお昼までに戻って来てくれたら、一緒に昼食をとろう。帰って来てくれれば安心できてきっと食欲も戻るはず。
レドライクの王都でフェリクス様に買っていただいた本を手にしているけど視線は本には落ちず、茜色に染まり始めた窓の外をぼーっと見ていた。
何もする気になれない。
何もしないと時間が過ぎるのが遅すぎて本を読みだしたのに、結局目が滑って全く内容が入って来ない。
「連絡はない?」
「ございません」
「そう……」
フェリクス様は結局帰って来なかった。
この日の夜は本当に一睡もできなかった。
どうして帰って来ないの?
なぜ連絡がないの?
夜会で何かあったのか、それとも途中で事故にあったのかと不安が押し寄せる。
明日にはきっと帰ってくる。
帰ってきてくれる。
大丈夫。
きっと大丈夫だから眠らないと。
私の今の顔を見たらフェリクス様はきっと心配する。
心配するどころか自分を責めるかもしれない。だから、ちゃんと眠らないといけないのに。
昨日もほとんど眠っていないし、昼寝もできなかったのに、不思議なくらい眠くならない。
悪い事ばかり次から次へと浮かんできておかしくなりそうだった。
帰って来ない理由も分からないし、どうして何の連絡もないのだろう。
わからないというのはどこまでも人を不安にさせる。
ベッドで横になっているのも段々辛くなってソファへ移動すると、テーブルの上に置いてあった小物入れが目に入る。
昨日の午前中にフェリクス様に買ってもらった美しい細工の木彫りの小物入れ。
フェリクス様が夜会に向かわれてから不安に襲われすぎて、昨日の午前中が遠い日のように感じてしまう。
小物入れを持ち上げると、中で何かがカランと音を立てた。
(? 中に何か入ってる?)
購入するときに蓋を開けて中が空だったことは確認している。
中に何か入れた記憶もない。
もしかして、購入後、ここまで持ってくる間に壊れてしまったのだろうか。
蓋部分はレースのような意匠でところどころ透かし彫りになっていたり彫り抜いた状態になっているので、強い衝撃が加わればすぐに壊れてしまいそうな繊細さだ。
薄暗い部屋でよく観察してみても壊れているようには見えなかった。
壊れたわけではなさそうだとホッとして、蓋を開けて見ると中には木彫り細工のバレッタが入っていた。
(! これ……)
土台はレースのように繊細で、そのレースの上に花が咲いている様な意匠のバレッタ。
花の中心には小さな宝石がちりばめられて、薄暗いランプの灯りを反射してきらきらと光っている。
小物入れを買った露店で売っているのを目にしていた。
バレッタの土台がレースの様に透かし彫りになっているからきっと小物入れと同じ職人の手のものだろう。
少し。ほんの少しだけ、これも良いなって思ったけど、この小物入れを買ってもらう事になったし、夫婦円満の木彫りの人形というワシの彫刻がとてもいい値段だったので見るだけにしていた物だった。
(フェリクス様、気付いていたんだ)
小さいけど宝石も付いてて予想より高そうだと思ったから、特に手に取ることもなくただ見ていただけなのに、気付いていたなんて。
フェリクス様の目ざとさに、私はいつもどれだけフェリクス様から見られているのだろうかと思うと苦笑いが漏れる。
早く会いたい。
早くお礼を言いたい。
早く帰ってきて……
空が白み始めると一人で浜辺に出た。砂浜の上に座って、一人で寄せては返す波をぼーっと見ている。
つい数日前はフェリクス様と一緒に見たのに。
この浜辺を、手を繋いで歩くと別れないって言い伝えがあるって聞いたのに。だからまだベッドに居たいと渋るフェリクス様を誘って歩いたのに。
そう思うと、涙が滲む。
でも、泣いたら想像したこと全てが現実になりそうで怖くて、泣きたくなかった。
フェリクス様の事だから、「セレナ以外なんてあり得ないから断って来たよ」って何事もなかったようにすぐに帰ってくるだろうと心のどこかで思っていた。
もしかしたら「あちらに泊まったら朝のセレナの寝顔が見られないからね。無理を言って夜中に帰ってきたんだ」って、目覚めたら横にフェリクス様がいる事もあり得なくないと思ってた。
でも、現実は連絡もなく、帰って来ないなんて。
帰れない状況になっているとしか思えない。
もしも、フェリクス様とビルヒニア様が結婚することになったら、私はいつまでフェリクス様の妻でいられるだろう。
もしもそうなったら、国として正式に申し込みがあるのだろうか。フェリクス様は一貴族でも相手は王族だし。
王族の結婚は決まってから実際に結婚するまでには最低でも半年から1年くらいの時間を要するのが通例のはず。という事はあと半年くらいはフェリクス様の妻でいられるのだろうか。
でも、離婚してすぐに結婚はしない?そうなると、結婚の話が進むと同時に離婚。
もしかしたらこの旅行から帰ったらすぐに……。
そんなのいやだ。フェリクス様と別れるなんて考えられない。
一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。
飽きもせず、一体何度同じことをグルグルグルグルと考えただろう。
気が付けば太陽は完全に昇っていた。
ザッザッザッとこちらに早足で近寄ってくる足音が聞こえる。
部屋で寝ているはずの私がいないから、心配したトニアが来たのだろうか。
トニアやカルラにまで心配をかけてしまっているのは分かっている。本当に申し訳ないと思う。
でも、今は不安に苛まれ過ぎて空元気も出せないから、正直今は放っておいて欲しい。一人にさせて欲しい。
「ただいま、セレナ。遅くなってすまない」
「…………フェリクス様?」
「うん。心配かけたね」
トニアが心配して迎えに来たのかと思っていたから振り返らずにいたら、フェリクス様に後ろからふわりと抱きしめられた。
耳元にいつものフェリクス様の甘い声が響く。
(あぁ、フェリクス様だ――――)
私はフェリクス様にしがみついて泣いた。それまでの不安を吐き出すかのように涙が出た。
どうして帰って来なかったのか、何があったのか、しっかり話を聞かなければいけないと思っているのに、涙が止まらなかった。
フェリクス様が私のところへ戻って来てくれた。
そのことにただ安堵した。