執事が見たあの日あの時2
「あ、ブラスさん。お疲れ様です」
「カルラか、ご苦労様です」
「ブラスさん。あの~……ちょっと聞いても良いですか?」
「何でしょう?」
「旦那様と奥様って、恋愛結婚ではないんですか?」
「……何故です?」
「ん~。別邸の準備をしている旦那様の様子から絶対に恋愛結婚だと思っていたのに、なんか、お二人の間に温度差を感じるというか」
「それは我々使用人が気にする必要のないことですよ」
「そうなんですけど。奥様って恥ずかしがり屋なんですかねぇ?」
「どうでしょう。まだこの屋敷に慣れていないだけかもしれません。奥様が気持ちよく過ごしていただけるように、尽くしましょう」
「そうですね。私も頑張ります!」
女性というのはやっぱり鋭いですね。
旦那様は子供の頃から愛していた女性を娶ったけれど、奥様の方はまだ旦那様を愛しているとは言えないでしょう。
片や10歳位から片思いをしていた重い想いを抱えた旦那様。片や政略結婚だと思って嫁いできて1カ月程度の奥様。温度差があって当たり前です。
とはいえ、奥様がまぎれもなく溺愛されているのは、私の目から見ても明らかです。
見ている方が照れてしまいそうになるくらいに、言動も表情も視線も全てで愛していると訴えかけているようなものですから、奥様が絆されるのも時間の問題でしょう。
若いメイドなどは頬を染めてお二人に憧れると言っていました。
実際、奥様の気持ちが旦那様に寄り添い始めているようには見受けられます。
まだ温度差があるのは、致し方ありません。旦那様の愛し様を見るに、そもそも同じ温度になるのは難しいのではないかと思う位です。
そう思いつつ、暖かく見守っていましたのに。
お互いの気持ちが通じるのも後少しというある日、何を勘違いしたのか旦那様が嫉妬に狂って魔力暴走を起こしました。
旦那様の勘違いであることを伝えたくても、旦那様から漏れ出た魔力がびりびりと肌を刺して近づくこともできません。
奥様の腕を引っ張って寝室に閉じこもってしまわれたと思いましたが、それ程時間を置かずに旦那様だけ出てきて、更に別邸からも出て行ってしまいました。
嫉妬のあまり無体を働くのではないかと心配しましたが、大丈夫だったのでしょうか。話し合いが行われたような時間ではなかったですが、誤解は解けたのでしょうか。ひとりで頭を冷やしに行かれたのなら良いのですが……。
しかし、その日旦那様は帰ってきませんでした。
追いかけて行った侍従によると、王城へ向かわれたということなので、仕事に戻ってそのまま仕事で帰れなくなったのかもしれません。
奥様は旦那様がどうして怒ったのか訳も分からず、困惑しておいででした。当然です。奥様は何もしていないのに、旦那様が勝手に勘違いしたのですから。
旦那様は次の日も帰ってきませんでした。
旦那様が結婚前は、王城に2日間泊まり込むこともあったので、使用人たちはあまり心配していませんでしたが、奥様は「きっと、私が何か怒らせるような事をしてしまったのね……」といって、気落ちしている様子でした。
今日は帰ってくるだろうと思った3日目も旦那様は帰ってきません。
帰らないという連絡もなく、三晩も家に帰らないとは。これは明らかに仕事ではありませんね。
勝手に勘違いして、怒っているか拗ねているのでしょう。
奥様が全てというくらいだったのですから、何が何でも自分に惹きつける方向なら良かったのですが。このままでは愛想を尽かされても不思議ではありません。
直接私が事情をお話ししたいところですが、王城には入れません。致し方ないので、帰宅を促す手紙を出します。
「やっぱりルカスの事を怒っているのかしら。お店の店員でも侯爵家の取引先でもないのに無断で敷地内に入れたのが駄目だったのかしら……。魔力漏れを起こしていたから何を言っていたかよくわからなかったのだけど」
奥様……。恐らく旦那様はルカス様のことを奥様の浮気相手だと勝手に思い込んで怒っているのですよ。と、私が勝手に説明できるわけもなく。
まぁ、トニアが旦那様に対して凄く怒っていましたので、旦那様が勝手に怒った理由も奥様に伝わるでしょう。
そうして、旦那様が帰って来なくなって3週間以上経ったある日、ついには奥様まで家を出ると言い出しました。
「きっと私がこの家にいるから、フェリクス様は帰って来ないのよ。フェリクス様が帰ってこないのは、私に早く出て行けって言う無言のアピールなんだと思う」
「そんなことございません。旦那様が素直になれないだけでしょう」
「でももうすぐひと月になるし。今日は帰って来られるかと待つのはもう……ごめんなさい。実家に帰ることにするわ」
奥様は微笑んでいらっしゃったが、その微笑みは酷く寂しそうで辛そうにも見えました。
これには流石に焦りましたし、旦那様に対して初めて怒りを覚えました。
何をやっているのですか、旦那さま。
私には奥様を引き留めること等できません。
このままでは静かにお見送りするしかできないのです。
あれ程大急ぎで結婚し、こちらが引くほどに愛している奥様の行動に勝手に勘違いして、いったいいつまで奥様を放置するおつもりですか。やっと手に入れた奥様なのに、どうして逃げるのでしょう。失ったら二度と手元に戻っては来ないかもしれないのですよ。
急いで本邸に使いを出して、ヘラルド様に伝言を託けました。流石に詳細は言えませんが、とにかく家に帰ってくるように伝えてもらう事にしました。
それから数日後、奥様と入れ違いに旦那様が夜遅く帰ってきました。
「おかえりなさいませ。お食事は」
「いらない。客間で良い。寝る準備だけしてくれ」
フェリクス様はこの家の主だというのに、客間で良い?何を言っているのでしょう?
まあ、奥様に合わせる顔がないとかそんな理由でしょうけど。
しかし、そんな理由なら何も問題ありません。もう奥様はこの家にいないのですから。
「それでしたら、主寝室でお休みください」
「……会いたくない」
「その心配はございません。奥様でしたら先日出て行かれましたので」
「―――――は?まさか……」
何がまさかですか。
あんな風に魔力漏れをおこしながら怒った夫が1カ月近く家に帰って来なくなれば、妻が出て行っても不思議ではありません。むしろ、1カ月近くも良く待ってくださった方です。
最後に寂しそうに笑った奥様の顔を思い出して、つい旦那様に冷ややかな視線を送ってしまいました。
奥様がいなくなった別邸は、とても暗い雰囲気になりました。
奥様が使用人にも気さくに接してくださり、使用人のやる気が上がる言葉を自然とおっしゃって下さる方だったから、皆奥様がいなくなってしまった事を悲しんでいたのです。
旦那様が帰ってくるようになっても、別邸の中は暗いままでした。屋敷の主が暗いのですから、明るい雰囲気になるはずがないのです。
それから少しして、奥様のご友人であるアルマ様がいらっしゃいました。
私はアルマ様が初めて別邸に訪ねていらした際に、旦那様の勘違いしたあらましを聞いていましたので、アルマ様とお会いするよう進言させていただきました。
今ここで旦那様とアルマ様を会わせないと私も後悔しそうですから。
アルマ様のおかげで漸く旦那様が自身の勘違いに気付き、奥様を迎えに行ってくださいました。
迎えに行ったヘーゲル子爵家で奥様が攫われたと連絡が来た時には肝が冷えましたが、そこは旦那様。絶対に無事に助けて、奥様と戻って来てくださると信じていました。
「セレナの髪は相変わらず甘そうで美味しそうだね」
「もうっ、そんなことありません。食べちゃダメですよ?」
「んーでも甘い良い香りがするよ」
すっかり仲睦まじいご夫婦になられて、別邸内も明るさを取り戻しました。