ヘラルドは恋がしたい
兄上のあんな姿を見ることになるとは、思ってもみなかった。
それは、一昨日の事だ。
兄上と義姉上と、王城の廊下で偶然会った。
針子部屋は魔術師団の執務室がある場所とも近いので、針子部屋まで義姉上を迎えに行った帰りらしく、予想外の兄上の姿を目撃することになった。いつもは王城で全然会う事がないのに。
俺は兄を尊敬している。己の力に驕らず努力家で、いつも冷静で硬派な印象の兄のような男になりたいと思っていた。どんな美人に迫られても全く靡かない兄はかっこいいと思っていた。
でも、今、目の前にいる兄はどうだ?
義姉上の腰を抱いて、ぴったりと寄り添って歩いている。
それだけならまだしも、誰が見ても分かるくらいに甘い視線と微笑みを義姉上に投げかけている。
まさに二人の世界……。
いや、義姉上はどこか所在なさげにも見えるから、明らかに兄上が溺愛しているのが一目瞭然。
俺の目から見た義姉上は、笑うと可愛らしいけど、まぁ普通の人だ。
あの美人から迫られても全く靡かなかった兄があんなに彼女しか見えないという風になるとは、驚きだ。
初めて見た時は、驚いたってもんじゃない。
幻覚かと思った。幻覚の術を知らないうちにかけられたのかと周囲を警戒したが、魔術を使われた痕跡はなかった。
現実だった。
これが現実の光景だという事に、また驚いた。
「あ、ヘラルド様」
「ん?あぁ、ヘラルドか」
兄上は義姉上しか目に入っていなかったようで、義姉上が俺に気付いて声を出して漸く俺の存在に気付いたようだ。
俺へ向けられる視線はいつも見ていたもの。甘さなど無い。
義姉上への甘い視線を見た直後だから、冷たい視線にさえ感じるが、これこそ兄上の平常時だ。
「あ、兄上……どうされたのですか」
「どう、とは?」
「その、あの」
どう言ったものか迷っていると「早く帰りたいんだ。用がないなら行く」と言って行ってしまわれた。
そして、昨日も今日も定時が過ぎた頃には、義姉上の腰を抱いてぴったりと寄り添って歩き、義姉上しか視界に入っていないであろう兄上を見た。
周囲の人も、兄上の様子を驚愕の様子で見ていたが、人は順応する生き物だと言うのが良く分かった。三日目にもなると、初日のように驚愕を顔に張り付けた人はいなくなった。皆見て見ぬふりをするようになったのだ。
昨日も今日も、兄上には義姉上しか見えていないようで、近くに俺がいても気付かずに通り過ぎて行った。 義姉上は静かに目礼してくれたけど。
あの兄上が、周りが見えなくなるほどになるなんて。
見えていないふりをしている可能性も高いけど、人は変わるものなんだな。
頑なに女性を寄せ付けなかった兄上のあそこまでの変わりようや幸せそうな顔をみていると、俺も深く人を愛してみたいと思うようになった。人を愛することは素晴らしいことなのだと思ったし、これと決めた唯一の女性から愛されているのだろう兄上が羨ましく思ったのだ。
何が言いたいかと言うと、俺も恋がしたくなった。
兄上とも顔が似ているし、女性は結構寄ってくるが、ピンとくる人は今のところいない。どうしたら想い人ができるのだろうか。
執務室に戻って、執務机に積まれている書類を見るとため息が出た。
現状、俺を待っているのは愛しい人ではなく、未処理の書類の束だけだ。
補佐官が目ざとく俺のため息に気付く。
「師団長、お疲れですか?今お茶入れますわね」
「いや、大丈夫だ。お前、もう帰って良いぞ」
「お茶だけ入れてから帰りますわ」
言うなりすぐにパタパタとお茶を入れに行ってくれた。
疲れているわけではない。 いや、疲れているのかも。
兄上と義姉上の姿を見たら、どっと疲れた気がする。
俺も愛する嫁と結婚して癒されたい。
「あー……恋してぇな」
お茶を差し出した補佐官が後ろを向いてから、「これはチャンス」と小さく握りこぶしを作って気合を入れていた事に、ヘラルドは気が付かなかった。