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口裂け女はマスクが買えない

自粛期間中に書きました。

 


 少しくもった鏡の前に座り、女は身支度を始めた。

 クリームをたっぷり肌に塗り込んだあと、ずっと前に買ったクッションファンデーションのビニールパッケージを、ぬめった指で強引に剥がしとる。

 ゴミは後で捨てようと床に落とした。部屋には食べかけのお菓子や、底にうっすらスープの残ったカップラーメン、空のペットボトルが散乱している。ゴミ袋にまとめる気力すら起きず、もうずっとこの状態が続いていた。


 数週間ぶりでも、意外なことに化粧道具の使い方を忘れてはいなかった。考えるよりも先に体が動く。

 これはきっと、たっぷり染み込んだ、女がゆえの呪いだ。

 ひととおり化粧が済み、最後に口紅を手に取った。

 目の前の自分をじっと見つめ返す。化粧をした私は、きっと誰よりも綺麗だ。そう自分に言い聞かせながら真っ赤なルージュを引いた。

 紅を引かずとも嫌でも目立つ。


 “彼女の口は耳まで裂けていた”。


 口の端から耳の手前、皮膚をめくればちょうと奥歯が全て見えてしまうほど裂けた頬は、まるで生まれたときからこうであるかのような綺麗な裂け目で、ハリウッドの特殊メイクのようにも見える。


 彼女は1970年代後半から全国的に名が広がり、社会現象まで引き起こした、『口裂け女』、その人だった。

 ーー我ながら恐ろしい。

 そう心中で本音を漏らしながら、大きな口のほんの一部分に色をのせる。


 季節外れの真っ赤なコートを羽織り、服と服の間に挟まれた見事な長い髪を無造作に取り出した。少しヒールのある靴を履き、受け皿の埃っぽい鍵を手にとる。

 そのゴム製のマスコットの汚れを指で払いながらいつものようにマスクを手にした彼女は、あることに気が付いた。


「あ、マスクがない」


 50枚入り不織布マスクの箱から取り出したそれが、最後の一枚であった。

 しばらく外出していなかったせいで、マスクのストックが残り少ないことをすっかり失念していた。


 マスクがなければ外に出られない。マスクは彼女を彼女たらしめるものだし、それは別として、耳まで口の裂けた女が素顔でうろうろしていたら、間違いなく警察にお世話されることになるだろう。


「よし、帰りに薬局でも寄ろう」


 そんな風にどこか呑気に構えていた。

 が、彼女は薬局の入り口にでかでかと掲げられた張り紙を見て絶望することとなる。


『マスク・消毒液、売り切れました』


 保存食が大量に詰め込まれたマイバックを思わず落としそうになった。彼女は硬直したまま思案する。

 そういえば、世の中では新型のウイルスが流行っているのだった。

 自分は病気にかからないし関係ないやとたかを括っていたが、まさかこんな形で自分も影響を受けることになるなんて。

 家に荷物を置いて、スーパー、薬局、コンビニエンスストア等々を、かれこれ三時間もかけて六店舗まわったが、とうとうマスクのマの字も拝むことができなかった。

 口裂け女は今までにないほど焦り始めた。マスクがなければ自分は何なのだ。ただの口が裂けた女ではないか。


「お姉さん、布マスクなんてどう? 簡単に自分で作れるのよ」


 二軒目の薬局でそう声をかけてくれた老婦人のマスクは、花柄の可愛らしい、こじんまりとした布マスクだった。しかし布マスクの占有面積は猫の額ほど狭い。口がかろうじて全て覆われる程度だ。普通に使う分にはまったく問題なかろうが、いかんせん彼女は普通ではなかった。

「いやあ、布マスクだとここの裂けている部分がまったく隠せないんですよ」、だなんて口が裂けても言えない。口裂け女だが。


 口裂け女は歩きながら考えた。今日のところは諦めよう。そして、世間のマスク熱が冷めるまでまた家に引きこもっていよう。今つけているマスクをどうにか保存すれば問題ない。

 どっと疲れたし元気が出ない。こんなときは子供を驚かせるに限る。子供の視線と畏怖の視線、そして噂は、彼女にとって一番の栄養だった。

 しかしどこへ行っても子供がいない。おかしい。もうとっくに登下校の時間で、これくらいになるといつも小学生が列をなして帰っていくのにーー

 そして彼女は思い出す。そう、緊急事態宣言だ。先月から出ているこの悪夢のような宣言のせいで、今日本中の学校が休みになっているのだ。そして子供たちは公園に行くことすら許されない。



 口裂け女は、急速に自らが失われていく感覚がした。

 マスクを奪われ、子供を奪われ、果たして自分には何が残っているのだろうか。

 一切合切のアイデンティティと存在意義を、未知のウイルスに掻っ攫われた。


 ーー“口裂け女”は、もう時代遅れなのかもしれない。

 このまま市場のマスクのように消えていくんだろう。煌々と突き刺さる夕日に嘲笑われているような気分になった。

 かつて若者のマストアイテムだった『ポマード』は死語になった。彼女は裾広がりの愛用のズボン、パンタロンを脱ぎ捨て、ちょっと洒落たダメージジーンズを履いてみたり、市販の髪染めで髪を茶色にしてみたりもした。奮闘し、時代に合わせて自分を捻じ曲げた。それでも自分が令和の日本についていけると本気で思ってはいなかった。


 ーーもう、潮時なのかもしれない。


 ふっと顔を上げると、まだまわっていない薬局があった。

 せっかくだ、ここまで来たのだからと消毒臭い店内に入った。


「おい。このマスクは俺が先に取ったんだ」

「違うね。俺がお前より先に目をつけてた。だから俺のもんだ」


 店の中で男性客二人が揉めている。

 口裂け女はほのかな不快感を覚えた。彼らが対峙していたのは、彼女の目的地、マスクコーナーのちょうど目の前だった。

 どうやらマスクの在庫は残り一つで、それをどちらが買うかで諍いが起きているようだった。店員は顔を青ざめさせて二人を仲裁しようとするが、どうもうまくいかない。

 その様子がじれったいやら可哀想やらで、彼女はいてもたってもいられなくなった。


 ヒールの音を響かせながら近づき、男二人の注目を誘う。そして定型文句を投げかける。


「ねえ、アタシ綺麗?」


 男たちは口喧嘩を止め、女の顔色を伺い始めた。しばらくどうするか迷った挙句、片方が返事をした。


「あ、ああ。アンタ美人だよ」

「そう......」


 すると女はいくぶん大袈裟にマスクを外し、その耳まで裂けた口で恐ろしく笑ってみせた。


「これでもかぁ?」


 途端に響く男たちの叫び声が、口裂け女を大いに満たした。

 彼らはそのまま我先にと店外へ逃げ出す。ざまあみろ、と口裂け女は心の中で悪態づいた。

 仲裁に入った店員は恐怖と驚きで動けなくなっていた。彼をよそに、彼女は最後のマスクの箱を手に取り、晴々しい顔でレジまで持っていく。


「このマスクくださいな」



 *



 今日はいつもより早起きだった。

 布団を畳んで久しぶりにカーテンを開けた。太陽がまぶしい。普通なら疎ましく感じるのに、最近は陽の光を浴びると元気が出てくる。


 部屋には風船のように膨れた可燃ごみの袋が積み重なっている。


 〈ーーが売り切れーー巷では自粛中に外に出ると口裂け女に会うなんて話もーー〉

 いつも通りのラジオがやけに鮮明に聞こえた。



 その耳まで裂けた恐ろしい口で、女は大きな三日月を描いた。



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